熱が引いてから、はようやく、あの店にコートを置いたままにしていたことを思い出した。 慌てて電話をかけると、コートの忘れ物は無い、と言われた。 コートを二重に着て帰る人間がいるとは思えないから、誰かが間違えたのではなく、善意で預かってくれたのだろうと、思った。 それならば、幹事だった長曾我部の可能性が一番高い。彼ならフェイスブックで連絡がつく。 そう、わかっていて、何度もフェイスブックを立ち上げたけれど、は指先はいつも、メッセージ機能の画面を開くところで動きを止めてしまう。 にとってそこは、鬼門だ。 長曾我部は石田と仲が良かった、同窓会の様子では今もそうなのだろう。 今のは、どうしても石田と、関わり合いになりたくないのだ。 だから長曾我部とも、連絡を取りたくなかった。 ――の部屋には今も、石田に借りたジャケットが掛かっている。 借りたものは返さなければならない、そのことに気が回らぬほど、あのときのは動転していたのだ。 落ち着いて考えれば、このジャケットもこのままここに置いていていいはずがない。 は石田の連絡先を知らないから、結局それも長曾我部に尋ねなければならない。 全部、わかっていて、それでも、どうしても、勇気が出ないのだ。 臆病者、弱虫、意気地なし、いっそそうやって罵ってくれればいいとすら思うのに、その黒いジャケットはまるで持ち主の双眸のように、無言でただ真っ直ぐと、こちらを見つめている。
おかげで、このところは業務の引き継ぎやら、取引先への挨拶周りやらで忙しい毎日を送っている。 「しっかしお前、褒められとったなァ」 地下鉄なんば駅のホームで電車を待ちながら、何やらしみじみと上司がそう言ったので、は半眼でそちらを見た。 「何ですか課長、そんな意外そうに言わんといてくださいよ」 「なんや、顔赤いで照れてるんか?」 「暖かいからじゃないっすかねぇ」 典型的な中年太りの上司がにやにやと笑うのを、はにっこりと笑顔で、それ以上の言葉を拒絶した。 今日はが担当していた中でもとりわけ重要な取引先に、上司とともに異動の挨拶に行っていたのだ。 その取引先の営業部長殿が、やたらとを褒めたので、本人としては何やらいたたまれないような気持ちになったのだった。 ――『いやあ若いのにしっかりしてらっしゃるし!何よりさんは笑顔が素敵でねぇ、こちらもずいぶんと無理を申し上げたけれど、いつも笑顔で対応してくれて。課長さんもぜひ、この子には良い評価をしてやってくださいよ』 評価ってアンタ学生じゃないんだから、とは何となく顔を俯けた。社内の評価とはそれすなわち、営業成績にである。 「ま、お前はよう頑張ってると、俺も思うよ。こと仕事に関しちゃぁ、お前は嫌な顔を絶対にせんからな」 「・・・・・・課長までどうしたんですか」 この上司は軽妙なように見えて、その実かなりのリアリストで、人を褒めるなどということはまずしない。 それを知っているは、上司が何を言い出したのかと眉をひそめたが、そのときタイミングよく電車がホームにやって来たので、会話は打ち切りとなった。 平日の昼間だが、電車はそこそこに込み合っていた。たちと同じようなビジネスマンに混じって、同じスーツ姿でも一目でそれとわかる就職活動中の学生や、そして就活戦線などまだまだ先なのだろう、春休みを謳歌中の学生と思しき若者の姿もある。 たたん、たたん、進み始めた電車の規則正しい音を聞きながら、戸口に近いスペースで吊革につかまったは、窓に映る自分の顔を見た。 何の変哲もない、いたって平均的な日本人女性の、顔だ。 同世代のOLと同じくらいには化粧に力を入れているつもりで、そして、笑えばそこそこ見れる顔だと、自負している。 昔から、は笑顔をよく褒められた。 は、自分で言うのも難だが、それなりにかしこい子どもだった。 家の中がせかいのすべてだったころから、どうすれば親の機嫌を損なわないかを知っていた。小学生のころには面倒な女子の派閥争いに巻き込まれないように上手く泳ぐ方法を覚えた。とにかく笑っていればよかった。男子には、少しきつい言い方をすることも多かったけれど(男子にいい顔をすると、必ず女子の不興を買うのだと、知っていた)。 できるだけ、波風を立てないように、平穏に、生きてきたつもりだ。 そのための、笑顔は、武器だった。 ――『・・・・・・貴様、その下手な笑顔の癖はまだ治らんのだな』 石田の声が、聞こえた気がした。 笑顔が下手だなどと、言われたことはなかったし、自分で思ったことも、なかった。 「――来週やっけ?京都」 上司の声で、は思考を止めた。 「、は、引き継ぎ、ですか?」 「他にあるんかいな」 「いやないですけど」 に下った辞令は、京都支社への異動だった。 来週、その支社の前任者との引き継ぎのため、京都に行く予定となっている。名目上は出張だが、大阪から一時間弱で行ける距離だ。 「京都ゆうたら、広芝サン俺同期やから。よろしゅう言うとくし」 「ありがとうございます」 は笑顔で、礼を言った。 直接の上司となるわけではないが、京都支社には今の上司の同期がいるらしい。新たな環境に早く馴染むには、こうした人脈はありがたいことだ。 笑顔を保ったまま、は考える。 ・・・・・・京都と聞いて、また石田を思い出す自分は、自意識過剰なのではなかろうか。 確かに石田は京都の大学に進学した。その後どうしているのかは、知らない。同窓会では研究員だと聞いたが、何の研究なのかも聞いていないし、大学にいるのかどこか企業の研究員なのかも知らない。 それでも。 京都は、石田に所縁のある場所だ。 「・・・・・・、」 先月の、同窓会から。 どうも、自分の道行の先に、どこをどうしても石田が現れるような気がして、ならない。 こんなはずでは、なかったのに。 あれから十年もたって、石田のことなどきれいさっぱり忘れたはずで、彼とは関わりの無い道を、歩いてきたはずなのに。 どこでどう間違えたのだろうと考えれば、それはやはり、同窓会に行ったことだろうかと、思い至る。 にとって、高校生活は、ほとんど石田とイコールだったというのに、のこのことあの場に顔を出したことが、そもそもの間違いだったのだ。
長く厳しい寒さが続いた京都にも、ようやく春めいた風が吹き始めた。 三条通からひとつ筋を入ったところにある老舗のコーヒー店。案内された席でホットコーヒーを注文すると、三成は壁を大きく切り取る窓の向こうへ視線を向けた。噴水が設えられた中庭には暖かく穏やかな陽が差し込んでいる。窓からも入ってくるその光はとても明るくて、清潔な白いテーブルクロスを眩しく見せるほどだった。 左腕の時計を確認すれば、約束の二時を五分ほど過ぎている。 遅い、とは思ったが、先方は大阪から来るのだ。午前中は大学で用事があった三成に合わせて京都で落ち合うことになったのだし、あまり不平を言うのは礼を失しているだろう。こういうときは確か、遠いところをよく来てくれたと労うのがよいと、いつだったか読んだ人間関係に関する書籍に記されていたと思い出す。 待っている間、何もしないのも時間の無駄に思えて、三成は鞄から一冊の本を取り出した。B5サイズのその本の表紙には、彩り鮮やかな料理の写真。体脂肪計メーカーの食堂の献立を紹介している、健康に良いと話題の本だ。前から順番に眼を通している三成は、栞を挟んだページから続きを読み始める。 そのうちに、コーヒーがやってきた。この店が、創業当時から変わらず使っているという、ヨーロピアンタイプのブレンドコーヒーだ。はじめからそのコーヒーに最適な分量のミルクと砂糖を入れて提供するのが京都の老舗コーヒー店の特徴であるらしいが、何にしろ三成は、コーヒーと言えばここのものが最も好きだ。肉厚のコーヒーカップに口を付けて、一息。 「・・・・・・アンタぁまた妙なモン読んでンな、料理やるようになったのか」 ゆっくりと視線を持ち上げると、待ち合わせの相手である長曾我部が、店員の案内を受けてそこに立っていた。走ってきたのか、額にうっすらと汗をかいていて、店員にアイスカフェオーレを注文すると、羽織っていたモッズコートを椅子の背に掛けて腰を下ろした。 「・・・・・・私は、料理は、しない」 先に店員が置いて行った水をあおって長曾我部が一息つくのを待ってから、三成は問いに対する答えを口にした。 「だが、質の良い食事は身体の調子を健康に保つために必要なことだと、私も理解した」 栞を挟んだ本を鞄に納めながら言うと、長曾我部が目を丸くする。 「アンタもそういうことを言えるようになったか」 「ただでさえ高齢化が進んで、この国の財政は医療費に圧迫されている。国民一人一人が自らの身体を気遣い、無用な傷病は未然に防ぐことが肝要だ」 「・・・・・・、ま、間違ったことは言っちゃァいねえな」 アイスカフェオーレが運ばれてきた。ぱたぱたと掌で顔を仰いでいた長曾我部は、早速ストローを咥えた。 「・・・・・・はー生き返る。何なんだ今日は、あったけえつうかあっついぞ」 「走って来たのか」 「ちぃっとばかしな、遅れて悪かった」 「問題ない。貴様も遠いところから、よく来た」 「・・・・・・」 ストローを咥えたまま、長曾我部が動きを止めた。 「何だ」 「・・・・・・いや、なんでも?」 長曾我部はにいと口角を上げる。 「今日は俺も休みだからな、たまには京都まで足を伸ばしてみるのもいいもんだ」 「そうか」 見た目には無感動な様子でそう答えて、そして三成は長曾我部をひたりと見据えた。 「それで。本題だ、長曾我部。の連絡先だ。わざわざ貴様がここまで足を運ばずとも、メールで十分だったろう」 長曾我部はストローから口を離し、三成の鋭い視線を正面から受け止める。 「まァそう言うな。つか、実は俺も直接の連絡先は知らねんだよ」 「・・・・・・何?」 「いや連絡はとれる、それは本当だ。・・・・・・が、気になったことがあってよう、アンタと顔合わせて話したいと思ってたんだ」 三成はいぶかしげに、眉を持ち上げた。 「気になったこととは、何だ」 「アンタ、と何かあったか」 「・・・・・・」 長曾我部の問いに、三成は口を噤む。その様子を見て、長曾我部は眉を下げる。 「や、別に根掘り葉掘り聞こうって気はこっちにもねェさ、ただこの間の同窓会の時、の様子が変だったからよ」 「・・・・・・」 三成の返事は無い。長曾我部は小さく嘆息して、口を開いた。 「じゃ、質問を変えるぜ?アンタ、とどうなりてェんだ」 ゆっくりと瞬きをして、三成は言葉を探す。 「・・・・・・、私は、と、友人であると、思っていたのだ。だがそれは、・・・・・・が私を友人だと言ったのは、嘘、だったのだ」 その言葉を聞きながら、長曾我部はテーブルに肘をついて、頬杖を突きながら言った。 「アンタに嘘をつくたァ、もなかなか肝が据わってるな。それでアンタは怒ってる、と」 「・・・・・・それは、違う。私はに、怒りの感情は、抱いていない」 「へェ?じゃぁ、アンタはどうしたいんだ」 「私は、だと?」 頬杖をついたまま、長曾我部は三成の顔を覗くように見つめる。 「そうだ。がアンタを友人だと言ったから、アンタはを友人だと思ってた。それが嘘だったってンなら、アンタ自身は、どうしたいんだ」 「・・・・・・、私自身、」 三成は鸚鵡返しに呟いて、そしてその言葉が途切れる。 三成の生というものは、全て主君・豊臣秀吉に捧げたものだった。主君の命に従い、その役に立つことこそが本懐であった。徳川家康の謀反によって主君が討たれた後は、ただひたすら復讐のために生きた。主君の墓前に家康の首を捧げることだけが生きる目的だった。しかし、それは、叶わなかった。 そして、この世にもう一度、生を受けた。 今度こそ間違わないように。 今度こそ、秀吉様の恩義に報いることができるように。 そのために広く知識を得、考えること、それが今の三成の、生きる理由。 ――そこに、三成自身の意思というものは、存在しない。 そのはずだった。 「・・・・・・」 口を閉ざした三成に、長曾我部は穏やかに笑う。 「アンタはこの世で、もう三十年近くも、誰の許可もなく生きてこれたんだ。これからだって、アンタの行動に、許可が必要なことなんざねェってことくらい、・・・・・・もう、わかってンだろう」 その長曾我部の笑顔を、三成はどこか面白くなさそうな顔で見返した。 「貴様は相変わらず、すべてが解ったような口のききかたをする」 心外だったのか、長曾我部はわずかに眼を見はった。 「そうでもねえさ」 そして、窓の外の、春の庭園に視線を流す。 「ただ、俺たちはもう、『あのころ』より長い時間を、この世で生きてる。俺もそれなりに、学んだことは多いさ」 アンタの知識にゃ敵わねェだろうがね、そう付け加えて、長曾我部は視線を戻すと、アイスカフェオーレの中で溶けかけた氷を、ストローでくるりとかき混ぜた。 「のことだが、俺からアイツに、アンタの連絡先を教えておく」 三成は弾かれたように顔を上げて、長曾我部を見た。 「アイツがアンタに会う気があるなら、アンタに連絡するように言っておく、それでいいか」 「・・・・・・、わかった」 頷いて、三成は冷めかけたコーヒーを口に運んだ。
長曾我部の言うとおり、本当は、わかっていたのかもしれない。 本当は、ずっと、昔から。 主君が死んだ、あの日から。 三成は誰の許可も得ず、ただ、家康を許さないという、自分の意思で、生きていたのだ。 今世にあっても、それは同じ。 知識を深め、真に生きる目的を探そうとした、それこそが、三成自身の、意思である。 そして、それは、に対しても、同じなのだ。 高校生だった頃、が傍にいて、悪い気はしなかった。むしろ、傍にいることが当たり前だった。それは誰でもない三成の意思であったのに、自分たちの関係性の起因するところを、の「友人」というその言葉に、押しつけた。 は三成を、すきだったと、言った。 友人というのは嘘で、本当は、すきだったのだと。 どうしてはそんな嘘を、言ったのか。が三成に嘘を言うなど、それまで一度もなかったのに。 「・・・・・・、」 そうだ。あのが、自分を害するような言動を、するはずがないのだ。 そう、三成はを、「信じて」いる。 他ならない、自分自身の、意思で。 ならば、あの友人という言葉の、真意は、――
・・・・・・違う、同窓会に行ったことが間違いだったわけではない。 今日も今日とて残業をこなして、はなんとか家に辿りついた。 「ただいま」の独り言に出迎えるのは、部屋に掛けたままのあの黒いジャケットだ。 ぼんやりと着替えながら、考える。 ――間違いがあったとするならばそれは十年前のあの日、が石田に、嘘をついたことだ。 はそれまで、石田に嘘を言ったことは無かった。冗談レベルの嘘であってもそれを嫌う石田の気質を知っていたし、それにそもそも、石田に嘘をつかなければならないようなことは何一つなかったのだ。 あの、バレンタインデーまでは。 「友達」だと言った、あれは、ひどい、嘘だ。 が、自分自身の保身のためだけについた、ひどい嘘だ。 石田を困らせたくなかったなどというのは言い訳だ。本当は自分が傷つきたくなかっただけだ。石田に嫌われたくなくて、なのに石田とそれまで通りに仲良くやっていける自信もなくて、ただ、臆病で弱虫で意気地なしなが、自分を守るためだけについた、嘘。 その結果、は、石田の最も厭うことを、してしまったのだ。 すなわち、裏切りを。 壁に立てかけた姿見に映る、自分の顔を見て、は自嘲気味に口角を上げた。 石田のことをきれいさっぱり忘れたなんて、それも嘘だ。 ただその想いに、薄っぺらい蓋を被せて、見えないようにしていただけだった。少し埃を払えば、そこには確かに、石田への想いが、ある。 「・・・・・・謝らな」 ぽつりと、言葉が落ちた。 そうだ。 このまま逃げるのは簡単だ。 だが石田を裏切ったまま、このままにしておいていいはずがない。 嫌われても軽蔑されても、石田に嘘をついた、そのことは謝罪しなければならない。 はテーブルの上に置いたままにしていたスマートフォンを取り上げた。フェイスブックを開く。 ――メッセージ機能を示す吹き出しマークに、新着の表示。 「!」 勢いで、その吹き出しマークをタッチした。久しぶりにメッセージの画面が表示される。 メッセージの差出人は、「長曾我部元親」。 恐る恐る、はそのメッセージを表示した。 |
20130308 シロ@シロソラ |