森は静かだ。
 イノシシや狐どころか、虫の一匹すら見当たらない。
 獣というものは、人間よりも己の危機を察する力に長けると聞く。
 人間の侵攻に恐れをなして、身を隠すなり逃げるなりしたのだろうと、政宗は思う。
 畜生どもにしては、正しい判断だ。
「――どうかしたかね」
 傍らを行く松永の問いに、政宗はそちらを見ずに答える。
「別に」
 政宗と松永を先頭に、小十郎と、松永の部下たちが続く列は、道なき森を、奥へと進んでいる。
 松永の部下は石火矢衆だけではなく、獣の皮らしきものを纏った狩人のような者たちもいる。輿を担いでいる者もいて、そこに載っている桶はシシ神の首を入れるために用意されたものだ。
「ずいぶんと涼しげな顔をしている。シシ神の首と天秤にかけるなら、あの程度の者たちの生命など惜しくはないといったところか」
 挑発だと、わかってはいる。
 だが眉間に深く皺を刻み、右手を六爪のうちの一振りにかけながら、政宗はぎらりと松永を睨んだ。
「よく滑る舌を斬り落としてやろうか」
 あえて隠しもしなかった殺気を受けてなお、松永はゆったりとした笑みを崩さない。
「ふむ、まだまだ元気はあるようだ、結構結構。シシ神の池は近い、その調子で頼むよ」
「・・・・・・ッ」
 刀の柄を掴む拳に、力が籠る。
「政宗様」
 小十郎の声に、政宗は一度眼を閉じて、息を吐く。
「わかってる、小十郎」
 瞼を持ち上げた隻眼が、己の刀を見下ろす。
 刀など、必要のない戦だった。
 仕掛けられた爆薬が、里人の陣営もろともイノシシを吹き飛ばしていくのを、ただ高台で見つめるだけ。
 イノシシどもを引き寄せて大軍ごと爆殺する松永の手腕は、いっそ鮮やかでもあった。
 あれが、これからの戦だ。
 今でこそこの石火矢衆が持つ石火矢はこの辺りの地侍よりも高性能なものであるが、政宗が独自に軽量化に取り組んでいるのと同様、時の流れと共にさらなる強力な武器が日ノ本中に広がっていくのだろう。
 一騎打ちで刃を交える戦は、そう遠くない未来にはなくなってしまうのかもしれない。
 だが、それでもいいと、政宗は思っている。
 自分や小十郎のような、秀でた能力がない者でも、そうした武器があれば己の身を守っていけるのだから。
「松永様」
 声がかかって、松永の脇の木の影からひとりの男が顔を出す。
 その顔は赤黒く塗られていて、被っているのは獣の――つい先ほど吹き飛ばしたイノシシの、皮だとわかる。
「どうかね」
「は、西海の鬼はもののけ姫とともに、この先を目指しています」
「やはり、シシ神に助けを求めるか。獣の考えることは単純だ。そのまま張り付いていたまえ」
「は」
 報告を終えて姿を消す男を見やりながら、政宗は感情を乗せない声で言う。
「顔に塗っていたのは、イノシシの血か」
「人間の気配を消すために、ね。おぞましいことだ」
 さも面白そうに、他人事のようにそう言う松永を、最早睨む気も起きず、政宗は先に足を進め、
「――政宗殿ォ!!!」
 列の後方から聞こえた声に、眉を動かした。




 一歩進むたびに、ぼたぼたと落ちる血が、地を汚していく。
 静まり返った森の中を、は元親に肩を貸しながら、一歩一歩歩いている。
 体格の差があるので、ほとんど元親の大きな身体を背負うような形で、その重さに負けそうになりながら、それでもは足を止めない。
「もう少しだ・・・・・・、頑張ってくれ、元親殿。もう少しで、シシ神様のお池だから、」
・・・・・・」
 かろうじて五体満足であはあるものの、身体の至る所からひどく出血している元親は、おそらく失血により意識が朦朧としているのだろう、足を引きずるように動かしながら、のろのろと言う。
「・・・・・・もういいから・・・・・・、俺を、置いて、」
「逃げろというならそれは聞けない。我ら天狐の一族は――わたしは、最後まで戦うと決めた」
「・・・・・・許さねぇ・・・・・・ニンゲンども・・・・・・!!」
 熱に浮かされたようなその言葉に、は唇を噛む。
 あれは最早、戦と呼べるようなモノではなかった。
 やはり、ニンゲンの考えることは卑怯で愚劣だ。自分の仲間を、囮にするなんて。
 次々に吹き飛ばされ、引きちぎられていくニンゲンと同胞たちの間を、元親は最後まで駆け抜けた。その大きな槍が、そして肩の上にいたの刀が、幾人かのニンゲンを殺した。
 それでも、ニンゲンの使う武器との力の差は、歴然としていた。
 イノシシたちはみるみるうちにその数を減らしていき、しかしそれを悼むような時間はなく、ただひたすら戦場を進んで、そして最後に、元親はを庇ってひどい傷を負った。
 その時にも置いて行けと言われたが、そんなことができるはずがなかった。
 手の施しようがないひどい傷だとわかっていたから、できることはひとつしかない。
 シシ神に、癒してもらうしか。
 佐助が言った通り、シシ神は誰でも助けてくれるわけではない。
 それでも元親は最後まで、森のために戦ったのだ。
 シシ神はきっと、助けてくれるはずだ。
 元親の身体を支え直して、は進む。
 そういえば。
 幸村は無事に、森を出ただろうか。
 月影もいるし、まさか迷うようなことはないだろう。戦場に姿はなかったし、巻き込まれるようなことはなかったようだ。
 妙なニンゲンだった。
 今まで接したことのある、どのニンゲンとも違う男だった。
 そう、シシ神が救った命だ。簡単に奪われていいものではない。彼の男の無事を思うのは、そういう理由だ。決して心配なんかしていない。
 かつ、と音がして、足元を見ると、小石が転がっていた。
「!」
 上を見上げるのと同時、木々の間から小石や枝がばらばらと落ちてくる。
 元親の、せめて頭には当たらないようにと庇いながら、は眦を吊り上げた。
「――やめろ!武蔵殿!!」
「うるっせ、ばーか!くらえ、おれさまひっさつ!!」
 落ちてくる小石を手で払いながら、は頭上の木の枝に立つ武蔵を睨む。
「何をする!それが森のために戦った者への、猩々の礼儀か!!」
「おまえらのせいで、森は終わりだ!破滅を呼びやがった!」
「破滅・・・・・・?」
「ニンゲンでもケモノでもないものを連れてきやがって!お前らのせいで!」
 そう繰り返す武蔵の表情が、恐怖を表しているのだと、は気づく。
「・・・・・・ニンゲンでも、ケモノでもないもの、だと・・・・・・?」
 唐突に、小さなネズミがの足元を駆けて行った。
「!?」
 それを皮切りに、今までなりを潜めていたネズミやリス、ヤマネなどの小さな動物たちが、一斉にたちを越えて駆け抜けていく。
 まるで、何かから逃げるように。
 何か。
 とても嫌なものが、近づいてきているのが、わかる。
 血のにおいで、鼻が利かない。
 いったい、何が。
「――来た!もうだめだ!!」
 そう言い残して、木の上の武蔵が小動物たちと同じ方向に逃げていく。
 何だ。
 は元親を庇うように一歩前に出て、刀に手をかけて構える。
 最後の一匹が、ちょうどの肩を駆けて行く。
 は、その一点から眼を離さない。
 皆が逃げて行ったその起点となる場所。
 ――木々の間にのそりと、「それ」は現れた。
 泥で戦化粧を施した、イノシシだった。
 ぞろぞろと、木々の間から這い出るように姿を現す。
「・・・・・・戦士、たち・・・・・・?」
 つぶやくような、そのの言葉に反応したのか。
 膝をついていた元親が、鼻を鳴らす。
「――あァ、帰って、きた・・・・・・!」
 ゆらり、と、元親が立ち上がる。その動きだけで、さらに血がぼたぼたと落ちる。
「元親殿っ!?」
 が振り返る、立ち上がった元親が、大槍を肩にかける。
「野郎どもが、黄泉から帰ってきた・・・・・・!!」
 ぞろりとした動きで、「戦士」たちがたちを取り囲むように近づいてくる。
 確かに、イノシシだ。
 だが、その眼の部分はぽかりと開いた空洞で、ケモノにあるはずの足がない。
「シシ神が、野郎どもを生き返らせたンだ、ならばこの俺も癒すだろう、そんで今度こそニンゲンを根絶やしにしてやる・・・・・・!!」
 熱に浮かされたような、抑揚のない声色。
 じゃらら、と元親の大槍の鎖が、地に引きずられて音を立てる。
 元親が、大股で森の奥へ歩き出す。
「元親殿!待たれよ!!」
 が慌てて後を追う。「戦士」たちはぞろぞろと、付いてくる。
「落ち着いてくれ!元親殿!!」
 その左手を握って、なんとかとどめようとするが、身体じゅうの傷から血を噴きながらも、元親は進むのを止めない。
 が必死に追いすがる。
「死者は甦ったりしない!あれはイノシシの皮を被ったニンゲンだ!わたしたちにシシ神様の元へ案内させる気なんだ!!」
「今度こそ・・・・・・殺してやる・・・・・・!!」
 こちらの声は聞こえないのだろうか。
 殺してやる、と繰り返しつぶやきながら、元親は進んでいく、の歩幅では走らなければついていけない。
 ひどい傷なのだ。
 こんなに動いては、いけないのに。
「行くぜ、野郎共!!!」
 兄貴、という返事はない。
 なぜならこの薄気味悪い「戦士」たちが、偽物だからだ。
 だがそのことすら、今の元親には。
「――元親殿ッ」
 唐突に、元親ががくりと膝をつく。
 身体に無理が生じたのだろう。足にも大きな傷があるのだから当然だった。
「元親殿、大事ないか、」
 正面から顔を覗きこむ、薄く開いた口からはひゅうひゅうと呼吸の音が漏れていて、見えていないはずの右目が、血走っている。
 どう見ても、普通の状態ではない。
 ぞろりと、「戦士」たちがふたりを取り囲む。
 はそれらを射殺さんばかりに睨みつけながら、立ち上がって刀を抜く。
「・・・・・・近づいた者から、斬る」
 森中に、この者たちの正体を暴いてやる。
 じりじりと近づいてくるそれらを殺す算段を、冷えた頭で考える。
 どう動けば、このニンゲンたちを残らず殺せるか――
「・・・・・・熱、い」
 呻くような声に、我に返った。
「元親殿?」
「燃え、る、熱い、」
 蹲る元親の背から、じわりと、濁った血のような色の、蛇のような何かが生えだす。
「!!」
 話には、聞いたことがあった。
 これは、
 カミが、タタリ神に堕ちた、証。
「いけない、元親殿!心を鎮められよ!」
 元親に駆け寄る、刀を放り捨ててその身体から次々と生えだすそれを手で払う。
 しかし両手で払っても、追いつかない。
「タタリ神になどなってはいけない、元親殿!!」
「・・・・・・逃げ、ろ」
 絞り出されるような声、しかしは首を横に振る。
「貴方を置いて逃げられるものか!しっかりなされよっ!!」
「ばッか、や、ろ・・・・・・――お゛あ゛」
 不明瞭な、叫びにも似た声が、元親の口から漏れる。
「元親殿ッ!!」
 元親が、ゆっくりと立ち上がる。背だけではなく手足や顔からも生えだしたそれが、ずるずるとその大きな身体をのたうっている。
 その姿は、もはや。
 ――あぁ。
 絶望が、こころを埋め尽くす。
 茫然とその姿を見つめるの膝が力を失って、かくりと折れる。
 だが、その膝が地に着くことはなかった。
「ッ!」
 伸ばされた元親の左手が、の首を掴んで持ち上げたからだ。
「も、とち、か、ど・・・・・・ッ」
 己の首を絞めるその大きな掌を剥がそうともがくが、力の差は大きく、びくとも動かない。
「殺シテ、ヤル」
 足が、地に着かない。
 息、が。
 ――最後に思い浮かんだのが、あのニンゲンの微笑みだったのは、何故なのか。
 考える前に、の思考は闇に沈んだ。


   


20120828 シロ@シロソラ