朝露だろうか、水滴が頬を叩いた感触で、幸村はゆっくりと、眼を開けた。
 視界を埋めるのは、木々の間から差し込む光。
 自分は、どうしたのだったか。
 あの少女を、死なせてはいけないと、それだけを思って、政宗との戦いに割って入って。
 そうだ、撃たれたのだ。
 そう思い至って、腹の傷口を探る。
 着物が破れている感触、しかしその下の肌に傷口などなく、痛みもない。
「!?」
 驚いて身を起こそうとして、力が入らず沈み込む。
 そこでようやく、己の身体が柔らかな草の上に横たわっているのだと知る。
 鼻をくすぐる、緑のにおい。
 ここは、森の奥なのだろうと思う。
 夢を見た。
 何か、理由もなく恐ろしいと思わせる、男の姿だ。
 あれは、シシ神だと、本能的に悟る。
 ぶるる、と鼻を鳴らす音、視線を動かすと、愛馬がこちらを見下ろしていた。
「――月影」
 名を呼ぶと、月影は鼻先を近づけてくる。
 右手を持ち上げて、その鼻先を撫でてやる。
 ――その右の掌に、痣が広がっていることに気が付いた。
「・・・・・・!」
 痣は、確実に広がっている。
 その事実に、幸村は息を吐き、力の抜けた右腕がぱたりと地に落ちる。
「気が付いたか」
 声が聞こえて、視界にあの少女が現れた。
 少女は自然な動きで月影に歩み寄り、その首筋を撫でながら言う。
「月影に、礼を言うのだな。貴方を、傍でずっと守っていた」
「・・・・・・何故、月影の、名を・・・・・・?」
「話してくれたのだ。自分のこと、貴方のこと、そして貴方の故郷のこと」
 答えながら、少女がこちらに歩み寄る。その仏頂面が、こちらを見下ろす。
「シシ神様が、貴方を生かした。だから、助ける」
 幸村の傍らに腰を下ろした少女が、手にしていたものを歯を使って噛み千切って、幸村の口に押し込む。
「食べろ」
 干し肉だと、思われた。固い。
「噛むのだ」
 そう言われて、なんとか顎を動かす。
 しかし、固いそれは弱っている幸村の口では噛むことができず、噎せてしまう。
「・・・・・・」
 少女は表情を動かさずにそれを見て、干し肉を取り上げると、自らの口へ運ぶ。
 口の中で幾度か咀嚼し、すいと幸村に顔を近づける。
「!!」
 幸村が身構える間もなく、その口に少女の唇が触れる、その感触の、あまりの柔らかさに肩が強張った。
 ――おおおおおおなごと、口づけ、などッ・・・・・・!
 常の自分であれば、飛び上がってしまうのだろう、なんて破廉恥な、そう思うものの、身体じゅうに力が入らない今はどうすることもできない。
 どうしよう、どうしたら、と意味をなさない思考が頭を駆け巡り始めたころ、己の口の中に何かが押し込まれた。
 干し肉だった。
 少女の口の中で、噛んで柔らかくなったそれを、飲み込む。
 味はよくわからなかったが、弱った身体に染み入るような感覚が、あった。
 相変わらず表情を変えないまま、次の肉を噛み千切ろうとしている少女を、見上げる。
「・・・・・・かたじけない、狐の姫」
 少女が、こちらを見下ろしてわずかに眼を見張る。
 そして眼を逸らし、ぽつりと言った。
「・・・・・・名なら、だ」
「そうか」
 幸村は、小さく笑う。
「ならば、。――ありがとう」
 は答えず、黙々と干し肉を噛み砕くと、再び幸村に口づけを落とした。




 ぴくりと、月影が耳を動かして頭を擡げる。
 それに気づいたをその背に庇うように、闇色を滲ませて佐助が現れた。
「佐助、」
 名を呼んで、そして、佐助の視線の先の気配に気づく。
 森の、木々の間から、ぞろぞろとイノシシたちが現れる。
 嘶きのような、鳴き声に交じって、かろうじて言葉が聞こえる。口の構造が人型のそれではないからか、ひどく不明瞭だ。
『俺たちゃぁ、シシ神を守るために来た!』
『ニンゲン共をぶっ殺すために!』
『なんでここに、ニンゲンがいやがる!?』
 その言葉に、が肩を強張らせる。
「天狐の一族の者さ。ニンゲンなんてどこにだっているだろ、殺したいんなら自分の縄張りで好きに殺りな」
 さもつまらなさそうに、佐助が半眼でそう答えた。
 しかしイノシシたちは納得しないとばかりに声を荒げる。
『ニンゲンから、この森を守るために来たんだ!』
『なんだってニンゲンが、そこにいやがるんだ!!』
 イノシシたちの言うニンゲンが幸村のことだとわかり、は幸村の身体を越えて一歩前へ出た。
「シシ神様がこのニンゲンを癒したのだ。だから殺さず、このまま返す」
『シシ神がニンゲンを癒した!?』
 の言葉に、イノシシたちが興奮したような声を上げる。
『シシ神がニンゲンを助けただって!?』
『じゃあなんで毛利の野郎を見殺しにした!!』
『シシ神は俺たち森のモンのカミだろう!!』
 佐助が、呆れたようにこれ見よがしに溜息を吐いた。
「シシ神は命を与えもするし、奪いもする。そんなことも忘れたのか?」
『違う!狐どもがシシ神を独り占めしてやがるんだ!』
『あんた昔っから毛利の野郎と仲悪かったもんな、好機だとでも思ってニンゲンに手でも貸したんじゃねぇだろうな!!』
『狐はずる賢いって相場が決まってらァ!』
「――黙れッ!」
 が眉を跳ね上げて、腰の刀に手をかける。
「無礼な物言いは許さない!」
、」
 佐助に、窘められるように名を呼ばれて、は渋面のまま、刀から手を離す。
「この身にも、毛利の旦那と同じニンゲンの毒礫が入ってる。アイツは死から逃げた。俺様は逃げずに、死がこの身を食らうのを待ってる」
 そう言って、佐助は左手でかるく右の肩を叩く。
 あの日、撃たれたこの肩は血こそ止まったが、中には銃弾が食い込んだまま。そのせいで、右腕はもうあまり動かない。
「佐助!だからシシ神様にお願いして、」
「俺様はもう永く生きた。シシ神は俺様を休ませてくれるだろうけど、生憎俺様にはまだやり残したことがあるから、ね」
『――騙されねぇぞ!』
『毛利の野郎はいけすかねェけど誇り高かった!逃げるはずがねェ!!』
『まさかてめぇらが喰ったンじゃぁねぇだろうな!?』
「なッ、」
 声を荒げるイノシシたちに、今度こそ刀を抜こうとしたの耳に、幸村の声が聞こえた。
「――イノシシ神たちよ。毛利殿を、殺したのは、この幸村だ」
 その声に、イノシシたちが静まる。
 静寂に包まれた森に、幸村の静かな声が通る。
「某の村を襲ったタタリ神を、やむなくこの手にかけた。美しいカミだった。――これが、」
 幸村が、右腕を持ち上げて、着物の袖を捲る。
 その、腕から掌にかけて広がる、黒々とした痣。
「これが、毛利殿を殺した、証だ」
 が、わずかに眉を動かす。
「あるいは、シシ神がこの呪いを解いてくれるかと、思っていた。だが、シシ神は傷は癒しても、痣は消してくれなかった」
 幸村の声は、どこまでも静かだ。
「呪いが我が身を食い尽くすまで、苦しみ生きよ、と」
 その声色には、恨みも憎しみも感じられなかった。
 ただ、その事実を、受け入れようとしているように。
 イノシシたちが、道を譲るように退いていく。
 その背後から現れた男の姿に、佐助が息を吐いた。
「――ちょっとは話のわかるヤツが来てくれた」
「よォ、久しぶりじゃねェか、佐助よぅ!」
 肩を揺らしながら大股でゆっくりと歩み寄る、大柄な男の姿をしたカミ。
 大きなチカラを持つカミだと、は悟る。
「鬼の旦那、あのうるさい舎弟をどーにかしてくんないかな」
 佐助の言葉に、男は豪快に笑う。
「ハハ、変わらねぇなァお前も!」
 鬼の旦那。
 佐助から、聞いたことがあった。
「・・・・・・貴方が、『西海の鬼』・・・・・・」
 つぶやくように漏れたの声に、男がわずかに鼻を鳴らして、こちらを向いた。
「――あァ、アンタが天狐の娘、か。噂は聞いてるぜ?俺ァ長曾我部元親、よろしくな!」
 左目を眼帯で覆ったその男の、何も映していない右目を見て、は気づく。
 この元親は、眼が見えていないのだ。
「しっかしあの佐助が子育てたァな!雌をはべらすわりに子作りはしねぇお前が、どういう風の吹き回しだ?」
 不思議な男だ。
 嫌味のようなことを言っているのに、その言葉に厭らしさが微塵も感じられない。
 佐助が、左腕でがしがしと頭を掻く。
「五月蠅いよ、てゆうか何しにきたのさ、わざわざ海越えてまで」
「野郎共が言ったとおりさ、この森を守るために来てやった」
「・・・・・・頼んだ覚えはないけど」
 佐助の言葉は無視して、元親が幸村の傍らに近寄る、彼を守ろうとは立ちふさがったが、背後から幸村に「いいから、」と言われて仕方なく退いた。
 元親がその場にしゃがみ込む、肩に担いでいる大きな槍に付いた鎖が、じゃらりと音をたてた。
「すまなかったな、そして礼を言うぜ、兄さん。毛利の野郎が世話になった」
「・・・・・・すまなかった・・・・・・」
 幸村の言葉に、元親は「いいんだよ」と一言言って立ち上がる。
 眼が見えていないのに、その動きに澱みはない。においや気配で、周りを察しているのだろう。
「悲しいことだ、一族からタタリ神を出しちまった」
 元親の言葉に、イノシシたちが眼を伏せる。
「森を去りな、兄さん。次に会ったときには、アンタを殺さなくちゃならねぇ」
「・・・・・・鬼の旦那、数じゃぁニンゲンの石火矢には勝てないぜ?」
 佐助の言葉に、元親は笑う。
「見ろよ、佐助、ウチの野郎どもを。代を重ねるごとにチカラを失い、もはや変化ができるヤツもいねェ。このまま放っておけば、やがてニンゲンどもに狩られる立場になるンだろうさ」
 その、自嘲じみた声に、佐助は眉を動かす。
「決死の突撃のつもり?そんなのニンゲンたちの思うつぼだよ、お勧めしないね」
「狐の力を借りようなんざ思っちゃァいねぇ、安心しな。これは俺たちの戦いだ」
 元親が槍を地に突き立てる、がちゃん、と鎖の鳴る音。
 その矛先に足をかけて、にいと笑う。
「たとえ最後の一頭までくたばろうとも、ニンゲン共に思い知らせてやらァ」
 は唇を噛んで、西海の鬼の姿を見つめていた。


   


「月影」は、史実の幸村の愛馬の名前らしいです。ネット情報なので創作かもしれませんが・・。
20120824 シロ@シロソラ