警鐘を聞いて、里の人々は慌ただしく動き始めていた。
 刀や槍、そして先ほど政宗が手にしていたような石火矢を片手に、それぞれの持ち場へと走っていく。
 人々の流れの間を縫うように、幸村は走る。
「――出たぞ!」
「もののけ姫だ!!」
 声が聞こえて、幸村は立ち止まる。
 明確な殺気が、近づいてくるのがわかる。
 連なる家屋の屋根からひらりと、幸村の眼前に少女が舞い降りた。
 その、深い色の瞳が、ぎらぎらと狂気じみた光を湛えて、こちらを見据える。
 先日谷底の川辺で出会った、あの少女――もののけ姫。
「――ッ!!」
 何の予備動作もない動きで、少女が抜刀する。その刃を、紙一重で躱して、幸村は一歩後ずさる。
「待て、そなたと争う気はない!」
 その言葉が聞こえたか、少女はぱちりと刀を鞘に納め、再び屋根の上へと跳び上がる。その身のこなしはまるで猫のようだ。
「行ったぞ!」
「大屋根の方だ!」
「逃がすな!」
 民たちが声を荒げる中、幸村は手近なところに積まれていた木箱から、屋根の上へと上がる。
 すでに少女の姿は小さく、あの鈩のある大屋根を目指しているようだった。
 彼女を止めなければならない。
 なぜだろうか、強くそう思って、幸村は少女の後を追う。
 大屋根の手前まで達したところで、その頂に佇む少女の姿が、里中に焚かれた篝火に照らし出された。
 彼女からも見えているのだろう、大屋根の先の広場に、民たちに囲まれながら、政宗が立っている。
「Hey、どうした!俺はここだぜ?」
 政宗の、挑発の声が聞こえる。大屋根の頂で、少女が刀に手をかけるのが見える。
 ちりりと、少女の物とは別の殺気を感じて、幸村は視界をめぐらせる。
「!」
 先ほど、自分もいたあの館の物見櫓。
 そこから、大屋根に向けて石火矢を構える人影が見えた。
 ――いけない!
 これは、罠だ!
 幸村は一歩踏み出し、少女へ声を張り上げる。
「狐の姫よ!山へ帰れ!!みすみす命を捨てるな!!」
 少女は、こちらを見ない。ただ、眼下の政宗を見下ろしている。
「退くも勇気だ!山へ帰れ!!」
 幸村の声は、広場で刀を構える政宗と小十郎にも聞こえた。
「――あの野郎、やはり物の怪の類か!」
 気色ばむ小十郎に、政宗は表情を変えずに言う。
「言わせておけ。――来るぜ」
 幸村の言葉を合図としたかのように、少女が大屋根の頂から一直線に駆け下りてくる。
「ッ!」
 止めようと、幸村も駆け出す。
 ちょうど少女に近づいたそのとき、風切り音がして足元の屋根が爆ぜた。
 櫓からの銃撃だったが、一発撃てば次の一発までに間があるはずで、幸村は飛び散る木っ端を手で払いながら、屋根を転がり落ちていく少女を見る。意識を失っているように見える。
「落ちるぞ!」
「首を取れ!!」
 里人たちが駆け寄ってくる、幸村は先ほどの銃撃で痛んだ屋根の板を引き剥がして眼下に投げ落とす。
「近寄るなッ!!!」
 屋根板がちょうどそこに焚かれていた篝火に直撃し、火の粉が散ったので、里人たちが慌てて飛び退く。
 その間に幸村は屋根を駆け下り、地に倒れた少女の元に飛び降りた。
 力なく伏せられた瞼、影を落とす長い睫毛。
 一瞬その顔に眼を奪われてから、幸村は我に返って、少女の身体に怪我がないことを確認する。意識を失ったのは、足元への着弾の衝撃によるものだろうと判断して安堵の息を吐いてから、そうっとその滑らかな頬に触れた。
「しっかりなされよ」
 その言葉か、あるいは頬に触れられた感触によるものか、少女が唐突に眼を見開く。
 己を見下ろす幸村の顔を納めたその眼が憎々しげに歪み、少女がばねのように体を動かして飛び起きた。
「――ッ!」
 そのまま流れるように抜かれた刃が、避けようとした幸村の頬を浅く裂き、少女は幸村の脇を駆け抜ける。
「待て!」
 幸村の制止の声も空しく、少女は槍を突き出す里人たちの頭上を飛び越えて行った。




 政宗は、一振りだけ腰に差している刀の感触を確かめながら、傍らの腹心に言う。
「手ェ出すな」
「しかし、」
「shut up、俺があの小娘に後れを取るとでも?」
 そう言うと、小十郎は渋面のまま抜きかけた刀を納める。
 里人たちの頭上を飛び越えた少女が、一直線に政宗に詰め寄る。
「ッ!!」
 その抜刀の刃を、政宗は同じく抜いた刀で弾き返した。
   



 容赦なく右の首筋を狙って抜刀した一撃は、難なく弾かれてしまったが、もこの男を初撃で殺せるとは思っていない。
 この男は、右目に眼帯をしているから、右側が死角になりやすい。
 立て続けに二度、抜刀の刃を浴びせるが、そのすべてが防がれる。
 余裕すら感じさせる、その笑みが気に入らない。
 ――頭に血を昇らせてはいけない。
 意識して、感情に流されそうになった太刀筋を引き戻す。
 こうやって、相手を挑発するのがこの男の常套手段なのだ。
「Hey kitty、どうした?今宵はひとりで『おつかい』か?」
 嘲りを含んだ声を、表情を変えずに無視する。
 ――この男が現れてから、すべてが変わってしまった。
 この地はシシ神の森の一部で、もともとニンゲンは恐れて近寄らなかった。
 ニンゲンが現れて、森を荒らし始めたのはが生まれる少し前のことだと、佐助から聞いた。
 ニンゲンは、弱い。
 牙も爪も、大きな身体も持たない。何もなければ、その命を奪うことなんて簡単だ。
 だが、ニンゲンたちには卑劣極まりない知恵と、その非力さを補う武器がある。
 その最たるものが、この男と、この男が連れてきたあの石火矢を持つ男たち。
 あの元就すら、歯が立たなかった。
 毛利元就は、この辺り一帯のヌシだった。
 高慢で、己以外を見下すような態度がも気に入らず、佐助とも長年折り合いが悪かったということだったが、森で一番の知恵を持っていたし、森の安寧だけを追い求めるその姿勢はいっそ潔くもあった。
 だが、この男たちの武器がこの一帯の森を焼き払い、元就の身体に毒の礫を打ち込んだ。元就はこの地を去り、どうなったのかは知らない。
 ――には、何もできなかった。
 真夜中の森を煌々と照らしながら、木々を燃やし、たくさんの生きものたちを殺したあの炎が、恐ろしかった。ただ震えて、見ていることしかできなかった。
 そして、己の非力を呪った。
 振るった刀が避けられて、その反動のように繰り出された刃をなんとか防ぎきる。
「筆頭!」
「やっちまってくだせぇ!!」
 取り囲む里人たちが、己に槍を向けているのがわかる。
 退路はない。
 だが、退く気も、ない。
 この男は、危険だ。
 他のニンゲンたちとは、何かが違う。
 生かしておけば、必ず森に、災厄を呼ぶ。には、先見のようなチカラはないが、それだけは、わかる。
 ここで。
 殺す。
「――ッ!!!」
 短く息を吐く、右足を踏み出す、体重を乗せて刀を振るう。
 鋼と鋼のぶつかり合う、硬質な音が、耳を劈いた。
 の刃には、予想したような衝撃がなく、見れば腕が、掴まれている。
「・・・・・・!?」
 視線をあげる、そこにはあのニンゲン。
 鳶色の瞳が、を見下ろしていた。




「何のつもりだ、真田幸村!」
 闖入者に、政宗は眉を跳ね上げた。
 政宗の刃は、幸村が左手に持つ槍に阻まれており、もののけ姫の刀を握る腕は、幸村の右腕が掴んでいる。
 もののけ姫は腕を振りほどこうと足掻いているが、少女の細腕ではびくともしない。
 幸村の、その鳶色の瞳が、政宗を捕える。
「この娘の生命、某が貰い受けまする」
 その言葉に、政宗が眉を上げる。
「Ha?なんだ、その女を嫁にでもする気か?」
 幸村は答えず、ただその鳶色の瞳が、政宗の爛と光る隻眼を見つめる。
「――そなたの中には、夜叉がいる。この娘の中にもだ」
 幸村の、もののけ姫の腕を掴む右腕から、ゆらりと闇の色をした蛇のようなものが立ち上がる。
 里人たちが、悲鳴を上げる。
 少女が驚いて、飛び退こうとするが、腕を掴まれているので離れられない。
「皆、見ろ!これが我が身に巣食う恨みと悲しみの姿!骨まで届き、死に至る呪いでござる!」
 実体のない、幻のようなその無数の蛇が、幸村の身体を包むように蠢く。
「これ以上、憎しみに身を委ねるな!」
 政宗は隻眼の下に皺を刻み、不快だとばかりに、吐き捨てるように声を荒げた。
「賢しらにチンケなunhappinessを見せびらかしてンじゃねェよ!そんなに邪魔ならその右腕、切り落としてやろうじゃねぇか!!」
 その言葉の終わらぬうちに右腕を狙って突き入れられた刃を槍でいなし、
「――ッ!!」
 その石突で、政宗の鳩尾を突いた。
「がッ、」
 政宗の身体ががくりと力を失うのを幸村は肩で支え、少女に対しても同じように突きを入れて気絶させる。
「――政宗様!」
 今にも斬りかからんばかりの小十郎に、幸村が視線を向ける。
 幻の蛇が、溶けるように消える。
「片倉殿、政宗殿をお頼み申す」
 幸村のその声に、小十郎は眉間に皺を刻んだまま、刀を納めて手を差し出す。
「気を失っておられるだけだから、大事には至らぬ」
 そう言われて、政宗の身体を抱きかかえながら、小十郎は幸村を睨みつけた。
「・・・・・・テメェ、自分が何してんのか、わかってンだろうな」
 底冷えするようなその声に、しかし幸村は槍を納めて少女を背負い直し、答えずに踵を返した。
 集まっていた里人たちが、幸村に気圧されたように退いて道を開ける。
「――ま、待ちやがれ!」
 声がかかって、幸村は振り返る。
 小十郎の傍らに駆け寄った男が、こちらに石火矢を向けている。
「よくも、筆頭を!!」
 見たところ、「石火矢衆」の装束ではない。政宗を慕う、ここの里人だ。
 その、石火矢の震える銃口を静かな眼で見つめて、幸村は再び踵を返し、歩き出す。
「待てッ!」
 小十郎が、溜息を吐いてその男を見やる。
「やめねぇか、良直」
「――ヒッ!!」
 極度の緊張状態にあったのだろう、その男の、撃鉄にかけられていた指が、小十郎の一言でびくりと震えた瞬間に引き金を引いてしまう。
 銃声、続いて驚いた民たちの悲鳴。
 ――銃弾は狙いを違わず、幸村の腹を貫通していた。
 その衝撃に幸村はわずかに体勢を崩し、しかしそのまま少女を背負って歩いて行く。
「・・・・・・当たったのに、歩いてやがる・・・・・・」
 やはり化け物か、と小十郎はつぶやいた。


   


20120822 シロ@シロソラ