その一瞬、他の全ての音が聞こえなかった。
 ただ、その首が、弧を描いて地に落ちる音だけが、耳に響く。




「――シシ神様ッ!!!」
 腕の中のに意識が戻ったらしく、腕を伸ばしてもがくその動きに、幸村は我に返った。
 小十郎は相変わらず幸村の槍を阻んでいるが、積極的にこちらに危害を与えるつもりはないらしく、その視線は政宗の方に向いている。
 地に転がったシシ神の首を、政宗が掴んで放る。
「松永!約束の首だ!」
「ふむ、確かに」
 受け取った松永が鷹揚に頷き、その背後に首桶を持った部下が駆け寄る。
「おのれッ!」
 もがくを抱きしめる力を強くする。
 何か、ひどく嫌な予感が、する。
「さて、神殺しは後が大変だ。卿らも早めに退くことを、お勧めするよ」
「何・・・・・・?」
 用は済んだとばかりに踵を返し、部下たちとともに木々の間へ消えていく松永の背を、眉を顰めて政宗は見送り、
『あ・・・・・・にいさま・・・・・・』
 女の声が、その場に響いて、シシ神に視線を戻した。
 首から上を無くしたシシ神の身体を、今しがた闇から浮かび出た女が抱きしめている。
 人の形をしているが、声を出す方法が常人とは異なるらしい、頭に直接響くような声だ。
『にいさま・・・・・・にいさま・・・・・・』
 その女の足元、歪んだ闇色のそこに、何かが蠢く。
 何だ。
 身の毛のよだつような感覚に、幸村は槍を退いて一歩後ろへ跳ぶ。
 同じく何かを感じているのか、小十郎も追撃はせずに政宗の元へ駆けだす。
『にいさま・・・・・・にいさまの・・・・・・首・・・・・・』
 女がへたりと、その場に座り込む。
『・・・・・・返して・・・・・・』
 その足元に広がる、闇色の何かが、一度収縮するように動きを止め、
『返してえええええぇェェェェェ――――!!!!!!』
 文字通り、爆ぜた。
 四方八方に突き抜けるように進むそれは、闇色の、腕。
「!」
 幸村はの身体を庇いながら横へ跳び、小十郎は駆けながらそれを避け、
「政宗様!!!」
 同じく寸前で避けた政宗の右肩に、深々と刃が食い込む。
「ッ!!」
 よろめいた政宗の身体を、小十郎が支える。
 血が噴き出す肩を押さえながら政宗が見据えた先、木の幹に突き立ったのは、天狐の大手裏剣。
「Ha、狐のヤロウ・・・・・・!」
 すでに地に臥した天狐の姿は、闇色の腕に埋もれてしまっている。
 その腕が触れた木々が、そこから茶色く変色して枯れていく。
 あの腕に、触れてはいけない。
 そう悟った小十郎は政宗の身体を支えながら逃げ道を探し、
「――こちらへ!」
 池から上がってきた幸村が手招きする池へと駆けた。




 眼を付けられたら後が大変だから見てはいけないと、佐助から教えられていた。
 だから、この眼にするのは初めてだった。
 池の中央の小島に運ばれたは、立ちすくんだまま茫然とそれを見ている。
 シシ神の、夜の姿。
 女の姿の神は、嘆きの言葉を口にしながら座り込んでいる。
 闇色の腕はあらゆる方向に伸ばされていて、触れた木々が一様に枯れていく。
 枯れて根元から折れた大木が池に倒れて、大きな水柱が上がる。
 森が。
 死んでいく。
 池を泳いできた幸村が、あの男を担いでいる。
 全身の血が、湧くように熱くなるのがわかる。
「・・・・・・その男を寄越せ・・・・・・!その喉笛噛み千切ってやるッ!!」
 小島にたどり着き、岸にあの男を横たえた幸村は、己の着物を脱いであの男に巻きつけながら答えた。
「すでに佐助が仇を討った、もう罰は受けている」
 その、静かな声。
 どうやらあの男は、右肩に大きな手傷を負っているらしい。幸村の言葉を信じるならば、それは佐助の、最後の一撃。
 佐助は、もういない。
 元親も。
 眼の前の、この男たちは、
 皆、ニンゲン。
「・・・・・・ッ、余計な、マネを・・・・・・!」
 呻くような男の声、しかし幸村は止血のために巻きつけた着物をきつく結びながら言う。
「そなたを連れ帰ると、民たちと約束したのでござる」
 応急処置を終えて、幸村が対岸のシシ神を振り返る。
 女の姿のシシ神の足元に、新たな闇の腕が現れる。
 それはまるで台座のように女の身体を支え、上へと持ち上げていく。
『返して・・・・・・にいさま・・・・・・返して・・・・・・』
「・・・・・・首を、探しているのか」
「ここも危ねェな」
 答えたのはあの男の部下だ。
 幸村はその男に一度頷いて、こちらを見た。

 その、まっすぐとこちらを見据える鳶色の瞳。
 幸村が一歩、こちらへ踏み出す。
 ニンゲン。
 この男は、ニンゲンだ。
 は半ば無意識に、一歩後ろへ下がる。
「シシ神に首を返さねばならぬ。力を貸してほしい」
「・・・・・・いや、だ」
 首を横に振る。
 どうして。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 佐助も、元親も、自分も。ただ森を守りたかった、それだけなのに。
 どこで、間違えたのだろう。
 ――この、ニンゲンを助けたからか。
 自分が、このニンゲンを助けたから、何かが狂ってしまったのではないか。

 聞くな。
 名を呼ぶこの声に、惑わされてはいけない。
 このニンゲンが現れるまで、自分をその名で呼ぶのは佐助ただひとりだった。森の仲間は「天狐の娘」と呼んで、中には可愛がってくれる者もいた。ニンゲンたちは「もののけ姫」と呼んで、恐れ、蔑んだ。
 それでよかったのだ。
 それ以上何も望んでなど、いなかったのに。
 なぜ。
 自分はこのニンゲンに名を教えたのだろう。
 それが全ての誤りだったのではないのか。
、」
 幸村がこちらに近づいてくる。
「来るな・・・・・・!お前はニンゲンだ、その男を連れてどこなりと失せろ!」
「・・・・・・そうだ、俺は、人間だ」
 幸村は足を止めない。
「そなたも、人間だ」
 びくり、とが肩を強張らせる。
「・・・・・・違う・・・・・・」
 怖い。
 このニンゲンが、恐ろしい。
「違う・・・・・・!!わたしは、狐だッ!」
 もはや、幸村との距離は腕一本分もない、眼前に迫ったその男が、どうしようもなく恐ろしい。
 この男は、否定する。壊してしまう。
 がこれまで築いてきた、天狐の娘としての、矜持を。
「来るな!」
 怖い。
 恐ろしさに、足が竦んで動かない。
 来るな。
 そんな眼で、見るな。
 どんなにきれいな、優しい眼をしていようと、所詮お前は――
、」
 とうとう幸村の掌がの頬に触れ、
 そして抱き寄せられた。
「ッ!」
 離せ、という言葉が、出なかった。
 ぴたりと寄せた己の胸に、幸村の心の臓が動く音が、感じられる。
 あたたかい。
 そのあたたかさが、冷たく凝り固まったのこころを、溶かしていくようだった。
 そう。
 どんなに頑張っても、ニンゲンである己は、天狐にはなれないのだ。
 わかっていた、ことだった。
 それでも、どうしても認めたくはなかったのだ。
 天狐としてでなければ、生きる意味などなかったから。
 ニンゲンとしてのに、居場所などどこにもない。
「・・・・・・終わりだ・・・・・・」
 薄く開いた唇から、つぶやくように声が漏れた。
 森が死に、狐としての己も死んだ。
 ニンゲンとしての己など、生きる価値もない。
 ならば、もはやこの生命に、何の意味もない。
 なのに、幸村は身を離して、こちらを見据える。
「まだ、終わりではない」
 その眼は、苦手だ。
 こちらを見透かすような光を宿した、その鳶色の瞳が。
 苦手なのに、できることなら逃げ出したいのに、逸らせないのは、何故だ。
「そなたが、そして俺が、生きている」
 幸村が、こちらに手を差し出す。
「俺に力を貸してくれ、
 はその眼を、見返す。
 己が震えているのが、わかる。
 わたしは、生きていても、いいのか。
 幸村が、こちらを見て、微笑む。
 大丈夫だと、言われたような気がして、
 そして震える手で、幸村の手をとった。


   


20120829 シロ@シロソラ