頭中将が流したその噂は、やはり瞬く間に都中に広まった。 「あー・・・・・・気が抜けるー」 「何呆けてやがる、風来坊」 政宗が隻眼で傍らの公達を睨むと、公達は頬を膨らまして答える。 「だって今上が眼をつけるなんてさァ。あの方はこれまで、こういうことにはご興味がないようだったじゃないの。それがまさかかぐやの君だなんて・・・・・・。しかもずいぶんと足繁く通われてるって噂だ」 「・・・・・・よりによって、な」 政宗が同意のような言葉をつぶやいたのを、公達は聞き逃さなかった。 「あれ?なんだお前もなんだかんだ言いながらかぐやの君を狙ってたのか?」 「・・・・・・」 あからさまな殺気を公達にぶつけると、彼はこれ見よがしに肩をすくめて見せた。 「おー怖い怖い!」 刀を取れば、頭中将たる自分と引けを取らない実力の持ち主である彼の、茶化したようなその言葉がひどく不快に思えた。 「かぐや姫」 帝の声が聞こえたが、聞こえなかった振りをする。 この間幸村が鍛錬で破いてきた着物を繕う手元から、視線を動かさない。 「・・・・・・佐助」 そう呼ばれて顔を動かさずに答える。 「また来たの」 「ささ佐助、お前はまたそのようなッ」 「――いい加減てめぇも慣れろ、真田幸村」 三人の声に、佐助は歯で糸を切ると、漸く顔を上げた。 そこにはやはり狩衣姿の帝と、いつも付いてくる政宗と、参内帰りの幸村の姿。 「旦那、これ一応直したけど、次はもう無理だと思うよ」 立ち上がり、繕い終えたばかりの着物を幸村に渡す。 幸村は反射的に受け取った。 「う、うむそうか」 「っつうか、お前も毎度無視すンな」 嫌そうな声に、佐助は政宗の隻眼を睨んだ。 「毎度勝手に上り込んでくるのはそっちじゃないのさ、それに俺様は役人じゃないからね、尊いお方への作法なんざ知りませんよってね」 政宗がいよいよ眉間に深い皺を刻むのを、帝が窘める。 「よい、というかお前もそろそろ慣れたらどうだ政宗。それにわたしは腹が減っているのだ」 「ハイハイ用意するからあんたらはここで大人しく座ってな」 そう言うと、帝が口の端を上げた。 表情の変化に乏しい彼女の、これは上機嫌を意味すると、そろそろ佐助も理解し始めている。 夕餉を前に上機嫌なんて子どもかよ、と内心思いながら、佐助は今宵も膳の用意を始めた。 そう広くはない居間で、帝、政宗、幸村、そして佐助の四人で夕餉を取る、それがこのところの真田邸では珍しくない光景となっていた。 「ああ、やはり貴方の用意するものが一番美味だな」 相変わらず上機嫌の帝がそう言い、政宗が椀に口を付けながら答えるように言った。 「アンタから『腹減った』なんて言葉が聞けるとはな」 というかお前は文句ばっか言うんだから食うな、と佐助は思う。どうもこの伊達政宗という男が気に入らない。 「・・・・・・何、帝サンは腹も減らないほど大量に飯食ってンの」 「逆だ、食わねぇんだよこの人は」 「宴の際にも滅多に箸をお付けにならぬと、某も聞いておりまする」 二人の部下の証言に、帝は眉を動かす。 「それは言い過ぎだ、二人とも。必要があれば食っているぞ」 「その『必要』ってのがなかなかないだろうが」 なおもそう言いつのる政宗を、帝が半眼で見つめて息を吐いた。 「・・・・・・貴方は本当にうるさくなったな、政宗」 「誰のせいだ、誰の」 「――だいたい、内裏でわたしが食事を摂るとなると、大騒ぎになるんだ、あれでは時間がかかって仕方がない」 非難するような政宗の視線を受け流して、帝はそう言う。 「だから、食べないの?」 佐助が聞くと、帝はうなずく。 「政務があるときはな。手を離す間も惜しい」 遊びほうけている都の公達は、この帝の爪の垢でも飲めばいいと、佐助は思う。 先帝に他に子がなかったために女性ながら後を継いだというこの帝は、文字通り寝食を惜しんで政務に明け暮れている。 狩衣の袖から覗く手指の細さに、佐助は小さく息を吐く。 そして帝の膳からすでに空になっていた椀を取ると、鍋から残っている吸い物をよそい、再び膳に置いた。 「なら、ここにいるときくらいはちゃんと食べな」 そう言うと、帝は驚いたように眼を見張ってこちらを見上げ、 そして笑った。 「ありがとう」 そのささやかな笑顔が眩しくて、佐助は眼を逸らした。 その顔にわずかに朱がさしていることに気づいたのは、終始面白くなさそうな面持ちでその様子を見ていた政宗だけだった。 その夜、佐助は屋敷の簀子(すのこ)縁から、夜空に浮かぶ丸い月を見ていた。 このところ、都の役人たちは忙しいらしい。 幸村も家に帰るのが深夜だったり、また帰らない日もあり、今宵もまだ帰って来ていない。 そういえば、今宵は七夕。 宮中では乞巧奠(きこうでん)なる宴が催されると、以前幸村が言っていた。 技芸の上達を願って、夜通し詩歌を詠むのだという。 ――こんな時にそのようなことをやっていられるか。 そう言う帝の姿が明確に頭に描けて、少し面白く感じられて佐助は口の端を上げる。 「――楽しそうだな」 「ッ!?」 唐突に声が聞こえて、背後を振り向く、そこには今しがた脳裏に描いたばかりの帝の姿。 佐助は視線を動かす。 「・・・・・・ひとりなの」 とりあえずそう聞くと、帝は自然な動きで佐助の隣に腰を下ろして小さく笑った。 「ああ」 その姿が、いつもの貴族の略装である狩衣ではなく、正装である束帯であるのに気付き、佐助はわずかに眉を上げる。 「――今日って、宴なんじゃなかったの」 「ああ、」 帝は頭に乗っていた冠を外してぽいと放り、清々したとばかりに首を回しながら答えた。 「抜け出してきた」 「抜け出したって、あいつは?」 「政宗のことか?あ奴はあ奴で、今宵は色々と忙しいはずだからな」 供もつけずに正真正銘の一人で、内裏からここまで移動してきたと言うのか。 「アンタってほんとに、部下泣かせだね」 気付けば慌てふためくだろう頭中将に柄にもなく同情の念を覚えてそう言うと、帝はこちらを見上げる。 「そもそも姫君のもとに通うのに、部下を伴うこと自体が女々しいとは思わんか」 「・・・・・・アンタは男じゃないでしょ、」 呆れたように眉を下げた佐助は、ふと気づいて、帝の腕を掴むと、その袖を上げる。 「何を、」 驚いた様子の帝に構わず、佐助はその細い腕を見下ろして、吐息した。 「ねェ・・・・・・いつから食ってないの」 怒気すら孕んだその声色に、帝がびくりと肩を震わせる。 「な、何を言うか、食事ならきちんと、」 いつでも潔い彼女らしからぬその物言いが、最近まともに食事を摂っていないと裏付けていた。 はー、と佐助は大きく息を吐き、立ち上がる。 「ちょっと待ってて」 「――はい」 そう言って目の前に出された前に、帝は眉を上げた。 「・・・・・・わたしは病人ではないぞ」 その膳には、椀がひとつのみ。その中身は、粥だった。 佐助は隣に腰を下ろしながら、半眼で言う。 「最近食べてないのにいきなり普通の飯食べたらお腹壊すよ」 「なんだ、せっかく貴方の料理を楽しみにしていたのに」 ぶつくさ言いながら帝は匙を口に運ぶ。 「・・・・・・美味い」 「でしょ」 ゆっくりと、匙を動かす姿を、佐助は横目で眺める。 こういうところはさすがは貴人、ゆるりとした所作が神秘的にすら見える。 ・・・・・・やってることは、腹を空かせた人間が粥食ってるだけなんだけどね。 そのまま帝は無言で粥を食べ続け、佐助も頬杖をつきながら、無言でそれを見守っていた。 椀の中身が空になって、帝は息を吐く。 「――馳走になった」 「ん」 いつもなら、ここには政宗と幸村がいて、だいたいはその二人がやかましいがゆえに、真田邸の食卓は賑やかなものだった。 今宵は佐助と帝のふたりだけ、会話が切れれば静寂が落ちてくる。 ふたりは、しばらく言葉もなく月を見上げていた。 吐息が聞こえて、佐助が傍らを見ると、帝が眼を閉じている。 「・・・・・・寝ちゃった?」 返事はない。 食事をまともに摂っていなかったくらいだ、睡眠も足りていなかったのだろう。 褥を用意して彼女を運ぼうかと考えたが、抱きかかえると起きてしまいそうだと思い至る。 内裏に戻ればまた政務に忙殺されるのだろう。ここにいる間くらいは、静かに寝かせてやりたい。 しかし座ったままでは首を痛めるだろうと思って、佐助は小さく息を吐いた。 そうっと帝の身体を引き寄せて横たえると、己の膝にその頭を乗せる。 月光が、その顔を柔らかく照らす。 長い睫毛、通った鼻梁、滑らかな肌。 普段はその意志の強そうな瞳から、男と見えなくもないのだが、こうして眼を閉じていれば、帝はまごうことなく美しい女性だった。 膝の上の帝の口から、小さく吐息が漏れる。 その様子に、佐助はぴく、と眉を動かす。 吸い寄せられるように、佐助は身を屈めた。 帝の、その小さな唇に、己の唇を合わせる。 「――ッ」 我に返って起き上がる。 今、俺様は、何を。 「思ったのだが」 帝の声が聞こえて、さすがに身じろいだ。 「ッ、起きてたの」 「今しがたな」 そう答えて、帝の深い色の瞳が、佐助の眼をまっすぐと見つめる。 なんてきれいな瞳だろう。 「――思ったのだがな、わたしはどうやら貴方がすきだ」 「・・・・・・何それ」 思いもかけない言葉を発した帝を、佐助は眉を下げて見下ろす。 「何とは心外だな」 「いやだってどうやらとか言うから」 「仕方なかろう、わたしはこれまで恋心なるものを抱いたことがなかったのだから」 「そうなの?あいつは?」 「政宗のことか?」 いつでも「あいつ」で通じるあの男が、佐助はいつも気に入らない。 そのこころの内を見透かすように、帝は小さく笑う。 「あ奴は、身寄りのないわたしの、唯一の兄のようなものだ」 そして、帝は身を起こして佐助の顔を覗き込む。 「わたしに口づけた、ということは、貴方もわたしに好意を抱いていると、解釈してもよろしいのか」 「・・・・・・」 佐助はがしがしと頭を掻いて、息を吐く。 「・・・・・・そうなのかもね」 帝が苦笑する。 「天邪鬼だな、貴方は」 その言葉が挑戦に聞こえて、佐助は帝を抱き寄せると、噛みつくようにその唇を奪った。 「――ッ、!」 驚いた様子の帝から唇を離す、吐息が触れそうな距離で佐助はその口を弧に歪めて言う。 「いいの?俺様ヒドイ男だよ?」 乱れた息を整えて、帝は佐助の、昏い光を宿した瞳を受け止めるように見つめる。 「・・・・・・だから天邪鬼だというのだ」 そして、佐助の頭を抱えるように手を添えて、唇を合わせる。 作法を知らないのだろう、触れ合うだけの、口づけ。 「ひどかろうがなんだろうが、貴方ならいいさ」 その、力強さすら感じさせる笑みに、佐助は何故だかいたたまれないような気持ちになって、帝の身体を抱き寄せる。 「・・・・・・ていうかさ、帝サンの名前、俺様知らないんだけど」 「だ」 「・・・・・・、いやそれは『今上帝』の名前でしょ。アンタの名前は」 「そんなもの聞いてどうするのだ」 今となっては、筒井筒である政宗しか知る者のない、そして誰も呼ぶことのない、名だ。 しかし佐助は、帝の肩に顎を置いて、言う。 「俺様がアンタを呼びたいの」 その言葉に、帝はゆっくりと瞬きをする。 そして、吐息に、その名を乗せた。 「・・・・・・、だ」 20120725 シロ@シロソラ |