どんな理由があったか、実のところあまりよく覚えていない。
 それぐらい、自分にとってはどうでもいい理由だった。
 ――下界で頭を冷やしてくるがよい。
 お偉いさんがそう言って、気づけばここにいた。
 身体が重くて、なるほどここが下界であるかと気づく。
 何もかもが、もうどうでもよかった。
 このままここに突っ立っていれば、自分は飢えて死ぬだろうか。
 その死骸は、この野山に棲むものたちの糧となるだろうか。
 ああ、それならこの身も何かの役にたつのかもしれない。
 そう思っていたら、手を差し伸べられた。
「そなた、どうしたのだ、このようなところで」
 若い男だった。
 どうせなら美女がよかった、と思った。
「親御とはぐれたのか?」
 なんだこいつ、俺様のことを子どもだとでも思っているのか。
 無性に腹が立つ。
 殺してやろうか。
 男が膝をついて、自分と眼を合わせた。
「なあ、俺の家がすぐそこだ」
 見たことのない感情を宿した眼だった。
「飯くらい食っていかぬか」
 その言葉は、人攫いの常套文句だ。
 それでも結局その手を取ったのは、
 ――その声が、あたたかいと、思ったから。






 それから三月の時が過ぎた。
「Hey、何やってんだ」
「何って今流行りの『垣間見』だろ?こうでもしないと、お前だっていい人にめぐりあえねぇぜ?」
「・・・・・・俺はいいよ、そういうのは」
「そう言わずにさァ」
 月明かりの下、二人の公達がこそこそと会話をしている。
 一人が、垣根の合間から、その屋敷を覗いていて、
「!」
 息を呑んだ。
「・・・・・・どうした、風来坊」
 呼ばれても、しばらく返事がなかった。
「おい?」
 肩を叩かれて、ようやくこちらを向く。
 その顔が、どこか茫然としている。
「どうした」
「・・・・・・すっごい美女がいた」
「ah?」
「これはうかうかしてらんねぇな、早速帰って文の用意だ!」
 飛躍している友人の思考に、男は眉を顰めた。
「おいどんな美人か知らねぇが名前もわからないのに文出す気か」
 すぐさま牛車に飛び乗ろうとしていた友人がこちらを振り返り、笑顔を見せる。
「名前は教えてもらえばいいさ、それまではこう、振り向いてもらえそうな名で呼ばせてもらおう」
 そう言って思案する。
 今宵は、月が明るい。
「輝く夜、でかぐやの君ってのはどうだ?」
「・・・・・・好きにしろ」
 呆れて答えると、友人はばんばんと男の肩を叩く。
「いいねいいねぇ!命短し、人よ恋せよッてね!」
「・・・・・・お前は声がでけぇよ」
 

 そうして、都にある噂が瞬く間に広がった。

 曰く、兵部省役人、真田幸村の邸宅には、それはそれは美しい姫君がいるという。
 初めてその姿を眼にした前田家の風来坊の言葉から、そのうち姫君はこう呼ばれるようになった。








「・・・・・・だからあのような恰好はやめろと言ったのだ」
「えーだって似合ったんだもん」
 困ったようにそう言っても当の本人はどこ吹く風、幸村はすでに何度目かわからない溜息を吐いた。
 目の前には大量の文と、その文の宛先人であるが文の内容には毛ほどの興味もない、男。
 三か月前に、竹林で拾った子どもだ。
 佐助と名付けた子どもは見る間に成長し、今では養い親である幸村よりも背が伸びて、美しい男となった。
 ことの発端は、ひとり身の幸村の邸宅で家事を一手に引き受けている佐助が衣装の虫干し中に見つけた小袿だった。
 鮮やかな緋色で、目を奪われたが、しまいこまれてずいぶんとたっていたようだったので、まだ着れるものなのだろうかと思って羽織ってみたら、存外似合って気に入ったのである。
 そのままの格好で帰宅した幸村を出迎えたら腰を抜かされた。
 その小袿は幸村の今は亡き母上のものだったことがわかったので、虫干しした後にまた丁寧にしまいこまれたのだが、問題はその後だった。
 小袿姿の佐助を、垣間見た男がいたらしい。
 噂が噂を呼んで、都中の公達から、真田邸に文が届くようになった。
 どれも宛先は「かぐやの君」、あるいは「かぐや姫」。
 佐助としては、これほど滑稽なことはない。
 太平の世が長く続いているおかげで、都の公達、特に内裏に上がれる殿上人以上の男たちは概して一様に暇を持て余しているのだ。
 だから、愛だの恋だのという事柄に、殊更力を入れる。
「ほんと、くっだらない」
「そう言うな、これも世の習わしだ」
 幸村はそう言いながら、積み上げた文の差出人をいちいち確認している。
「でも旦那は興味ないんでしょ、そういうの」
「俺は、この命を賭して畏れ多くも今上(きんじょう)をお守りする身であるからな、妻などいらぬ」
「それはそれで」
 くだらない、と口から出そうになったのを意識して止める。
 今上、とはこの国で一番偉い「帝(みかど)」のことだと聞いた。
 幸村はその帝に大層な忠誠心を持っていて、常日頃から二言目には「畏れ多くも今上」、この腐りきった都の頂点に君臨する者がどれほどのものなのかと佐助は冷めた心で思っていた。
 とはいえ幸村の、その真面目一徹で、遊び人が多い都の公達らしからぬ人柄は、佐助としては気に入っている。
「しかし、この文はどうしたものか・・・・・・、これなど中納言殿からだぞ」
「全部捨てればいいじゃない、どうせ『かぐや』なんて姫君は存在しないんだから」
 どうやらこの都でけっこう偉い人からも恋文が届いているらしい。
 いったいどれほど暇なのかと、佐助は呆れながら投げやりに言った。
 しかし幸村の顔は晴れない。
「それはそうだが・・・・・・、しかし返事をせずにおいてお前の身に何かあったら」
「は?」
 何を言っているのかわからず聞き返すと、幸村は言いにくそうに口ごもった。
「その・・・・・・、強硬手段に出る方もおられるやもしれぬ」
「強硬手段?」
「・・・・・・夜半に忍んで来られることも、」
 佐助は眉を跳ね上げる。
「何それ夜這いってこと?」
 幸村は頷く。
「そうだ」
「うわぁサイテー」
「だから、世の習わしだと言っておろう」
 あっちはあっちで腐った世界だと思っていたが、下界もなかなか負けていないようだと、佐助は溜息を吐く。
 自分の身ひとつくらい、それに幸村の身だって、手段を選ばなければいくらでも守りとおすことはできると佐助は思っているが、幸村が役人である以上そう簡単な話ではないらしい。
 殿上人であるからには、幸村とて都中の役人の中では高位なのだが、上には上がたくさんいる。
 「かぐや姫」宛の恋文は、その上級官僚たちからのものも多くあり、あまりに無下な対応をしていると結局は幸村に迷惑がかかることになるのだ。
 もちろん幸村は、身分による摩擦など気にはしないのだろうが、それが自分に起因するとあってはさすがに佐助も目覚めが悪い。
 なんて生きにくい世の中なのだろう。
「・・・・・・要は、無視はしないで適当にお断りすればいいんでしょ」
「それは、そうだが、しかしそのように上手い返事ができるだろうか」
「簡単だよ」
 これは遊びだ、と佐助は思う。
 どうせこの文を送ってきている連中だって愛だの恋だの言いながら、結局は娯楽なのだから。
「俺様ってば欲深だからさァ」
 そう言って、佐助はその口を笑みの形に歪めた。





 数日後、かぐや姫からの返答に、都中の公達は頭を抱えていた。
 曰く、あるものを持って来れば、会ってもよいという。
 「あるもの」はその返答により異なったが、どれもこれも伝承が残るだけの、入手困難と思われる品物だった。
 大半の公達は、それによりかぐや姫との逢瀬をあきらめたのだが、あきらめきれなかった五人の男は、その品を求めて東奔西走することとなる。





 会議は終わり、役人たちはそれぞれ持ち場へ戻ったようだが、頭中将(とうのちゅうじょう)・伊達政宗はがらんとした陣座(じんのざ)でひとり腰を下ろしたままだった。
 周囲に人影がないことを確認して、降ろされた御簾の向こうを、その隻眼でじろりと睨む。
「・・・・・・まァたアンタは、ひとりでうろつきやがって」
 ため息交じりのその言葉に、御簾の向こうの御仁は小さく笑ったようだ。
「そう言うな、こうでもせねば貴方たちの会議を聞くこともままならんのだ」
「・・・・・・会議の内容は報告があがってるだろ」
「あの脚色だけの報告を信じろと?」
 そう言われて、政宗は苦笑する。
「それにしても、相変わらず気配を殺すのが上手いなアンタ。誰も気づかなかったみたいだぜ?」
「貴方は気づいていたのだから、まだまだだな」
 先ほどの会議の場にいた者たちは、政宗を除いては誰も気づいていなかった御簾の向こうの御仁の存在。
 バレなきゃいいって問題でもねぇんだが、と政宗は内心溜息を吐いた。
「それで、最近中納言の姿を見かけんと思っておれば、大蔵卿も都を出ているのか?他にも何人か旅に出たりしているようだが、何事だ。この時期に内裏を空けられても困るのだが」
「Ahー、」
 政宗は口ごもる。
「アンタの耳に入れるほどのモンでもないと、思ってたんだが」
「・・・・・・何だ」
「最近巷で流行りの姫君に、どいつもこいつも懸想してやがるのさ」
 御簾の向こうからいぶかしげな声が聞こえてくる。
「・・・・・・姫君?」
「かぐやの君、とかって言われてる、そいつがどうもずいぶんと欲の張った女らしくて、会いたかったら宝を寄越せと言ってるそうだ。おかげでその宝を求めて、中納言殿も大蔵卿殿も、他の奴らも都を空けてる」
「・・・・・・」
 御簾の向こうの御仁が、黙り込む。
 呆れているのだろう、と思って政宗は付け足すように言った。
「だから言うの嫌だったんだ、くだらなすぎるだろ?」
「・・・・・・、ふむ、そのかぐやの君とやらに会ってみよう」
「・・・・・・は?」
 聞き間違いかと思ったが、御簾の向こうからは何やら楽しそうな声色が聞こえてきた。
「どれほどの姫君かは知らぬが、そうそう上達部(かんだちめ:高級官僚)に仕事を放棄させられぬからな、さっさと誰かひとりに決めてもらうがよかろう」
「・・・・・・ってまさかアンタまたひとりで出かけようとしてやがるな!?」
「当たり前だ、姫君ひとりに会うのに何をぞろぞろと供を連れる必要がある?」
 政宗は額を押さえて言う。
「わかった、場所は俺が知ってるから案内する」
「なんだ、貴方も仕事があるだろう」
「アンタを守るのが頭中将(オレ)の仕事だ」
 昔から、この御仁は言い出したらきかないのを、政宗はよく知っている。
「そうか、では」
 扇子で御簾を上げて、その御仁はこちらに歩み出てきた。
「参ろうか、政宗」
「・・・・・・、だから軽々しく出て来ンなって・・・・・・」
 顔を覆うように押さえて苦々しく言う政宗に、その御仁はわずかに口の端を上げて見せた。






 鍋の中身をかき混ぜながら、味見する。
 うん、我ながら美味い。
 陽の傾き加減から、そろそろ旦那も帰ってくる頃かとぼんやり思っていると、慌ただしい足音が近づいてきた。
「佐助ェ!!」
「・・・・・・どしたの旦那、そんなに腹が減ってンの」
 ものすごい形相で駆け込んできた幸村に、佐助は半眼で答えた。
「腹、は減っておるが、いや違う!一大事だ!!お主はどこかへ隠れ、いやそれもおかしいか、」
「・・・・・・どしたの?」
 幸村の顔は百面相がごとく、赤くなったり青くなったりしながら唸っている。
「えっと、何、俺様隠れたらいいの?」
 助け舟のつもりで、訳は分からないがとりあえずそう言うと、幸村ががっしと佐助の両肩を掴む。
「いやならぬ!畏れ多くも、隠し立てなどできようものか!」
「・・・・・・じゃぁどうしたらいいの」
「ずいぶんと騒がしいな、真田幸村?」
 戸口の向こうから現れた人影に、幸村がびくりを肩をすくませたのを見て、佐助はその人物に目を向けた。
「ま、政宗殿!ずいぶんと早いお着きであったな、」
「まぁな、アイツ馬駆るの久しぶりだからってtension上がっちまってな」
「・・・・・・何、アンタ」
 幸村の前に一歩出て、佐助はその人物を睨む。
「ささ佐助!落ち着け、これなるは――」
「そいつの上司ってとこだ、you see?」
 その隻眼の男がなぜだろうか気に入らなくて、佐助は表情を変えない。
「ところで、真田幸村。この家他に人がいねぇようだが、まさかコイツが?」
 幸村が、佐助の傍らに立つ。
「・・・・・・そのとおりで、ござる」
 隻眼の男がこちらを見てひとつ口笛を吹く。いちいち癇に障る男だと佐助は思う。
「――だ、そうだ。こいつはオドロキだな?」
 そういう隻眼の男の背後から、もう一人現れた人物に、幸村がその場でがばっと平伏した。
「え、旦那?」
「――成る程。しかし美しさは噂通りなのではないか?」
 幸村の行動に驚いて、しかし次に聞こえた声に、佐助はその人物に視線を戻す。
 狩衣に立烏帽子、品の良い公達という風貌の、しかし今の声と言い、その顔つきといい、
「・・・・・・女?」
「さッ、佐助!」
 平伏していた幸村ががばりと身を起こし、佐助の頭を掴むと、
「頭が高いィァ!!!」
 無理やり佐助をねじ伏せて、自らもその横で再び平伏した。
「〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」
 したたかに額を床に打った佐助は声にならない悲鳴を上げ、
 隻眼の男の声が頭上から降ってきた。
「ま、命が惜しけりゃ主人に倣って頭下げときな、こちらのお方は――」
 佐助はちらりと目線を動かして、その人物を見上げる。
「――今上の帝だ」
「!」
 さすがに驚いて眉を動かした佐助の眼前に、帝が膝をついて、眼が合った。
 深い色の瞳。
 吸い込まれるような、その色合い。
「お初にお目にかかる、かぐや姫」
「・・・・・・ッ」
 なぜだろうか、佐助は自分の顔が熱を持ったのがわかった。  





「ほう、これは美味だな」
 椀に口をつけるなりそう言って、帝はわずかに目元を緩めた。
「勿体なきお言葉にござりまする!」
 先ほどから平伏しっぱなしに幸村に、足を崩して脇息にもたれかかっている政宗が口を曲げる。
「アンタはいいから頭を上げろ、話が進まねぇだろうが」
「し、しかし!御簾もなく、畏れ多くも今上のご尊顔を拝見する、など・・・・・・ッ」
 幸村一人分として作ったはずの夕食を、三人分に分けて配膳を終えた佐助は、とりあえず他にすることもないので、政宗というらしい隻眼の男を睨み続けていた。
 当の政宗はもちろんそれに気づいているのだろうが、反応はない。
「――よい、そもそも前触れもなく突然参ったのはこちらだ。楽に致せ、幸村」
 幸村が頭を上げられない原因である御仁がそう言って、ようやく幸村は頭を上げた。
 あれではせっかくの飯が冷めてしまう。
 都で一番偉いんだかなんだか知らないが、なんて迷惑な奴だろうと佐助は思っている。
「で、どうするよ?かぐや姫が野郎だってンなら、適当に誰かとくっつけるわけにもいかねぇだろう」
 政宗がそう言って帝を見た。
 先日、幸村と二人で苦労して、文に全て返事を書いた。
 無理難題を書いておいたおかげで、ほとんどの者たちが手を引いたようだったが、しつこい男が五人ほど、無理難題に正面から挑戦しているらしい。
 佐助としては、五人まで減ったならもうそれでいいだろうと、その五人だってそのうち諦めるだろうと思っていたのだが、その五人というのがどうやら内裏でも重要職を務める高級官僚で、長い間都を空けられては政務に滞りが出るのだという。
 帝は官僚たちを呼び戻すために、「かぐや姫」に誰か一人に決めてもらおうと、わざわざ出向いてきたらしい。
 考え方が妙に律儀だ、と佐助は思う。
 その帝がふむ、と頷く。
「なに、簡単なことだ」
 帝の、深い色の眼が、すうと動いてこちらを見る。
「『帝』のお手付きとあれば、他の男どもは手をひくだろう?」
 ゆっくり一呼吸の間があった。
「・・・・・・は!?」
 先に口を開いたのは政宗だ。
「なッ、アンタ、何のjokeだそれは!」
「わたしがこれまでに冗談を申したことがあったか」
「いやねぇけど!」
 帝が政宗に視線を向ける。
「この場合、『かぐや姫』の相手はわたしが適任と思うが」
「ッ、馬鹿かお前、」
「――政宗殿!いかに今上とは筒井筒の仲であられるとはいえ、そのような物言いは」
「だーもううるせぇな真田幸村!!」
 口をはさんだ幸村に政宗は烈火のごとく怒鳴り、それから我に返ったように長く息を吐くと脇息にもたれかかった。
「貴方は心配性だな、政宗。何もこの者を後宮に迎えようとは言っておらぬ」
「形だけのことなら、俺だっていいだろうが」
 幾分落ち着きを取り戻した政宗に、帝が扇子を広げて言う。
「『頭中将』を相手に、中納言がその恋路を諦めると?」
「・・・・・・」
 政宗が小さく舌打ちするのを、佐助はぼんやりと見つめている。
 何を真剣に話し合っているのだろう、やはりこの二人も愛だの恋だのにうつつを抜かす他の男どもと同じなのだろうか。
「決まりだな」
 帝はそう言って扇子を閉じると、まっすぐと佐助を見つめた。
「よろしく頼むぞ、かぐや姫」
 俺様かぐや姫なんて名前じゃないんですけど。
 それを言うのすら面倒で「はあ」とか生返事をしてみたら、憤死しそうな勢いの幸村にまた頭を掴まれて下げさせられた。
 今度は力を入れて、額を床に打つことだけは防ぐ。
 ほんとくだらない、とりあえずの感想はそれだけだった。


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20120725 シロ@シロソラ