第十章 第十話 |
――風使いが生む風が、一番御しやすい。 迫る旋風に、同じ大きさ、同じ速さの逆さに巻く旋風をぶつければ、それだけで風は相殺し合って消え失せる。 その頃にはすでに刀を抜いていて、その動きのまま風使いの首筋を斬り払った。噴き上がる血飛沫、しかし断末魔の悲鳴がないのは忍びであるが故か。 抜刀の軸足をそのまま蹴って、氷使いに向かいながら、視線を炎使いに走らせる。途端炎使いの周りに陣風が巻く。炎使いを閉じ込めるように。この状態で炎を使えば、己の身に炎が撒いてしまう。バサラ持ちが自分の力で傷を受けることはないとは思うが、一瞬でも意識を逸らせればそれで充分。 地から生える氷柱がこちらに迫る。先ほどから見ていれば、すでに事切れた風使いにしろ、この氷にしろ炎にしろ、軌道が全て直線なのだ。 至極、読みやすい。 難なく氷柱を避けて、氷使いの背後に回り込み、一閃。 バサラ持ちと戦うときの最も効果的な手段は、バサラを使った直後の隙を狙うこと。 それを守って、さらに自分の得手である一対一の状況に持ち込むことができれば、例え相手が複数であってもそうそう敗けることはない。 氷使いが倒れるのを見もせず炎使いへ飛ぶ。陣風の切れ目から放たれた火の玉は風を使ってその軌道をずらして、生じた間隙に滑り込んで刃を振るう。 身に纏っていた風が、散って行く。 刃に付いた血を振り払って、鞘に納める。 その柄から離した右手を見下ろす、細かな傷痕が残る掌がわずかに震えているのを、納めるように拳を握る。 大丈夫だ、そう考えて、 ――視界が宙を舞った。 佐助は他人に対して容赦などしたことはない。 移動の残滓で闇色に滲む左腕で黒装束の胸倉を掴んで地を蹴り、広場を囲う石垣にその背から叩きつけた。 さすがに石垣が割れるほどの力は(出すだけ無駄なので)入れなかったが、衝撃に忍びの四肢が跳ねる。悲鳴をあげなかったことには、少しだけ感心した。 「・・・・・・ねェ、」 右腕を伸ばして、その忍びの頭と顔の半分を覆う黒布の頭巾を毟るように取り払う。 はらりと流れ出る結い上げた長い髪。 「――何やってンの?」 初めの風でわかった。 場にそぐわぬ、清すぎる風で。 叩きつけられた痛みをやり過ごしたのか、その深い色の双眸が佐助をひたりと見上げる。 だった。 「何やってンの、って聞いてるんだけど?」 佐助の声は低い。感情のない、声。 「俺様仕事中なの。邪魔すると殺すよ?」 「・・・・・・監視を、しに来た」 静かな声で、が言った。 「貴方が、無事に戻るまでの、監視だ」 ・・・・・・湧いた、感情は。 怒り、だったと、思う。 「・・・・・・何、ソレ」 そんな感情は、とうの昔に消えたはずだった。 佐助は何かに対して腹を立てるようなことはしない。相手を諭すための説教ならば、主に幸村にはよくやっている光景だが、それは怒りという感情に基づくものではない。忍びの身には不要な感情だ。怒りはときに、思考を狂わせるから。 「何なんだよ・・・・・・アンタは・・・・・・」 身に馴染まぬ感情、自分が何に腹を立てているのかもよくわからない。 が、自分の言いつけを守らずのこのこと現れたことについてか。 その身を自ら、危険に晒していることについてか。 そもそもが黒装束を着込んでいるということは忍隊の中に手引きした者がいるということで、その愚か者(十中八九才蔵だ)に対してのものなのか。 あるいはそのすべてなのかもしれない。 ただ、無性に、腹が立つ。 頭が、熱い。 血が昇っているのだと気が付くのに、少しかかった。 かすかに震える吐息に、声を乗せる。 「そんなに、殺されたいわけ?」 突き放したはずだ。 幸村の妻たる者として、相応しいようにと。 人間(ひと)と忍びは、別の生きものなのだと。 アンタたちとは住む世が違うのだと。 そう説いた、そのはずだ。 なのに、何故。 その一線を、軽々しく越えようとするのか。 理解ができない。噛みしめた奥歯ががちりと鳴った。 が一度躊躇するように口を噤んで、そして佐助と視線を合わせた。 「・・・・・・わたしを喪って落胆する幸村殿が見たいなら、そうすればいい」 「ッ、」 その言葉に、佐助は不快げに、目の下に皺を刻んだ。 は佐助から、視線を逸らさない。 「わかっている。貴方はどこまで行っても、幸村殿のために生き、幸村殿のために死ぬ、忍びなのだろう」 「・・・・・・そうだよ」 「そして、目的のために貴方がその生命を擲(なげう)ったとしても、主人たる幸村殿は悲しんではならない。貴方は、幸村殿の、道具だから」 「うん」 頷きながら、佐助は冷え切った眼で、を見下ろす。 が何を言っているのか、何を言おうとしているのか、わからない。 わかるのはただ、おそらくは自分にとって、都合のいいことを言おうとしているわけではないのだろうということ。 腹の底で、闇が鎌首を擡(もた)げるのがわかった。 殺せ。 「それ」が、言った。 殺せ。簡単なことだ。胸倉を掴んだままのその手を、ほんの少しずらせば、喉を締めることができる。少し力を入れる、それだけで殺せる。放っておけばろくなことはない。いつまたこうして、自分の思惑から外れたことをしでかすかわからない。不安要素は芽吹く前に刈り取るのが忍びだ。だから殺せ。 ――黙れ、と「それ」に応えた。 眼の前の御仁は「真田幸村の想い人」だ。幸村に次いで、その生命は守らなければならない。 だから、殺してはいけない。 風が、頬を撫でるように、吹き抜けた。 「・・・・・・しかし、わたしは違う」 の瞳の奥に、光が宿るのが見える。 強い、炎のような、輝き。 「貴方に何かあったら、わたしが悲しい」 胸倉を掴まれたまま、その身体を冷たい石垣に押し付けられたまま、それでもの瞳はわずかも揺れることなく、佐助を見つめる。 「痛くて、苦しくて、――涙する、だろう。それは許されるよな?わたしは貴方の主人ではない」 その言葉に、佐助は眉を動かした。 「別にアンタが、」 悲しもうがどうしようが、そう続くはずだった言葉を、が遮る。 「そう、わたしが哭こうが喚こうが心労のあまり倒れようが、そんなことは貴方が生きるための理由になりはしないのだろう、だが!」 まくしたてるように言ったはそこで一度言葉を切って、声の調子を落とした。 「だが、幸村殿は、違う」 「!」 「幸村殿は、わたしが悲しみに暮れる姿を見て、お心を痛めるぞ」 静かな声が、佐助の耳に、入り込んでくる。 「貴方に万一のことがあれば、わたしの喉はものを通らぬだろう。何しろわたしはそうやって思い悩むと他のことに頭がまわらなくなることを、先の旅で痛感した。そしてわたしが苦しんでいる姿を、あの優しいひとは絶対に見捨てない。幸村殿が貴方のことで悲しむことは許されずとも、わたしのことで心を痛めることは許されるだろう?わたしたちは夫婦となるのだから」 何を。 眼の前のこの小娘は、何を言っているのだ。 思考が空転する。 考えたが言葉が見つからず、佐助は呻くように言った。 「・・・・・・どんな理屈だよそれ・・・・・・」 の顔に、わずかな笑みが灯った。注意して見なければ、そうとはわからないほどの、ささやかな。 「どうもこうもない。貴方に何かあったら、わたしが悲しい。わたしが悲しめば、幸村殿が心を痛める。結果として、貴方は幸村殿の為に、いついかなる時も無事生きて帰らなくてはならない」 佐助は今度こそ言葉を失って、の深い色の瞳をただ見つめ返す。 その瞳に宿る光は幸村のそれに似ていると、佐助は思っていた。 しかしそれは違うと、今、気が付いた。 幸村の瞳に宿るのが触れるものを焼き尽くす業火なら、の瞳に棲むのは燐火。熱はないが、吸い寄せられるような光だ。 腹の傷が、疼いた。 燐火とはすなわち、鬼火。触れるものを惑わせるかもしれない、そんな得体の知れなさを孕む炎。 ――不快だと、思った。 そもそもが口にしたその理屈は。 佐助の死によってが悲しむことに起因する。 そんなことはありえないと、何故気づかないのか。 躑躅ヶ崎でも、忠告はしたのだ。 自分はにとって、決して安心安全な存在ではない。 今だって、こうして自分を見据える強い瞳に昏い光を灯してみたいとか、その清廉な心根を完膚なきまでに叩き潰してみたいとか、耳に心地いい綺麗ごとばかりを紡ぐその口から絶望を引きずり出したいとか、 ――『さァわれに見せてみよ、なにがぬしを絶望させる?』 ・・・・・・成る程。 佐助の口元が、自嘲に歪んだ。 あの異形は、やはり自分と同類だ。 大谷吉継の姿を思い出して、頭が冷えた。 そう、こんなところでと言いあっている時間はないのだ。 「・・・・・・とりあえず。先に進むけど。その調子じゃあ着いてくるつもり、なんだろ?」 ぱっと掴んだままだったの胸倉を離して、いつもの軽薄な口調で、佐助はそう言った。 わずかに乱れた黒装束の前合わせを整えながら、は是と答える。 「幸村殿より、ここでは貴方の指示に従うよう命じられている」 幸村の名が出て、佐助は眉を持ち上げた。 「っつうか、大将はアンタがここに来ることを了承してるわけ?」 てっきりが独断でやってきたのだと思っていた。 が忍びまがいの行動をとることを、幸村が許すはずがないと思ったのに。 「わたしから請うたかたちではあるが、幸村殿の命だ。貴方を無事、連れ帰るようにと」 ・・・・・・あの、馬鹿! いや、幸村も幸村だが、そもそもやはり、発端はこのなのだ。この馬鹿。 再び血が頭に昇りそうになって、佐助は眉間を押さえた。 「・・・・・・念のための確認だけど。アンタいつから紛れてたの」 「大坂城に入った時からだ。才蔵の計らいで、列に加えてもらった」 やはり才蔵か。 「ってことは、アンタのことを忍隊(あいつら)は知ってたわけだよな」 「そういうことになるな。貴方が気づかなかったなら、わたしの気配の断ち方もそれなりということだ」 「・・・・・・」 とりあえず才蔵は殺すとして。 残りの馬鹿は逆さづりにでもしてやろうか。 不穏なことを考えながら、佐助は大きく息を吐いた。 なんで自分の周りは馬鹿ばっかりなのだろう。 「・・・・・・わかった、どうせ言ったって聞かないんだからアンタは着いて来な」 その言葉に、は口元を緩める。その反応ひとつとっても、本当に不快だった。佐助はすべての表情を顔から落として、底冷えするような声で、言う。 「ただし、この先一切の手出しは許さない。気配を消して、どこかに潜んでろ。それで、俺様に何かあったら、初めの西の丸の屋根に戻ること。他のやつらにもそう言ってある」 「待、」 「答えは『はい』しか聞かない。アンタには今、俺様の命令が絶対だろ?」 銀色の月を背に、佐助の冷たい双眸が、を見下ろす。 は何か言いつのろうとして、しかし言葉を飲み込んだ。 「・・・・・・はい」 むすりとした様子でが答える。佐助がその頭を軽く撫でた。 「うん、いい子」 そう言ってにこりと笑って、佐助は踵を返す。 その背を、は眉根を寄せて見つめ、そして後を追った。 天守台、濃紺の毛氈を敷き詰めたその広間に、鴉から手を離して、佐助は降り立った。 近づくほどに強くなる、ひどく純度の高い、殺気。 人の一人や二人、その気だけで殺せるのではないかと思わせるような、研ぎ澄ました刃のような気配だ。 その、中心。 幽鬼のごとく佇む若い男を、佐助は見つめる。 具足の上から陣羽織を羽織った戦装束でもわかるほど、痩せた男だ。月明かりに浮かび上がる、病的なまでに白い顔。鼻にかかるほど長い、月の銀光の色の前髪の間で、神経質そうな双眸が眦を釣り上げている。 「・・・・・・貴様か」 ゆらり、と頭を擡げて、男が佐助を見た。 「ヒヒ。その通り、あれが徳川の間者よ」 男の背後に浮く輿の上で、吉継がその眼を愉しげに歪ませている。 その掠れた声に、佐助は小さく眉を動かした。 総大将を引っ張り出すための嘘ということなのだろう。確かに、これから同盟を結ぼうという相手方の忍びが自軍の忍びを殲滅したとなれば、石田軍の面目も潰れることになる。 そう、全てはこの、大谷吉継の「遊び」なのだ。 理解して、佐助は薄い笑みを口元に張り付けたまま、両の手に大手裏剣を構える。 「おのれ家康・・・・・・!影法師に襲わせるのが貴様の絆とやらか・・・・・・ッ!!」 その、言の葉ひとつひとつに、怨嗟の響きを滲ませて、男が吠える。 「貴様を斬滅する!拒否は一切認めないッ!!配下の死を、悔やめ家康ッ!!!」 斬撃の嵐が、明宵の闇に咲いた。 |
20121226 シロ@シロソラ |
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