第十章 第八話

 今宵の満月は、一際巨(おお)きい。
 降り注ぐ白銀の光の帯は、荘厳な天守を煌々と浮かび上がらせている。
 秋の虫の音が遠くに聞こえる。気を張り巡らせている肌には心地よい、ひやりとした空気。
 風は、無い。
 月下の大坂城、西の丸の屋根瓦の上。
 そこに、佐助の姿がある。
 左足一本で身体を支え、右足は胡坐のように組みながらその膝に肘をつく独特の姿勢で、眼前に広がる城郭を眺めている。
「潜り込ませていた連中に反応はなし、か・・・・・・」
 独り言のように漏れ出たその言葉に、背後に控える忍びが頷いた。
「は、おそらくはもう既に・・・・・・」
 控える忍びの数は六。
 いずれも潜伏用の、黒装束である。
 忍びの返事に、佐助は表情を無くしたままの顔をで何か思案しているようだった。
 瀬戸内海戦の折に、石田軍に潜り込ませた斥候は、そのまま軍の動きに従ってこの大坂に入っていた。城内への潜入に成功したところまでは報告があったが、その後の連絡が途絶えているのだ。
 背後の忍びの言葉通り、すでに正体を見破られたものと見て間違いなさそうだった。
 凶王の方はまだお目にかかっていないからわからないが、少なくとも大谷吉継の眼を掻い潜るのは至難の技である。
 あっさり見つかった瀬戸内でのことを思い出して、佐助はわずかに吐息した。
「――長」
 忍びの一人が、口を開いた。
「何故この刻限に忍び込むのです・・・・・・?光足(ひかりあし)を避け、影を落とさぬは忍びの常道・・・・・・」
 忍びの言葉どおり、星の散らばる天に坐する月は、銀光をここにも落としている。
 黒装束の忍びたちはともかく、いつもの暗緑色の忍装束姿の佐助は光の中に浮かび上がるようであり、そしてその佐助を含め、忍びたちの足元にはくっきりと影ができていた。
 潜伏が目的であるならば、せめて雲が流れて月が隠れてからにすべきである。
 それが忍びの、常道。
 しかし佐助は城郭から視線を外さぬまま、面白くなさそうに答えた。
「決まってるだろ、奴さんに気付いてもらう為さ」
 忍びたちにわずかに動揺が広がるのが、佐助にも気配の変化で知れた。
 その様子には構わず、どこまでも温度のない声で、言う。
「同盟の前にたっぷり思い知ってもらわなきゃならないからな、武田軍の恐ろしさと、――悍ましさってヤツを、さ」
 背後の忍びたちの気配が、鎮まっていく。
 彼らはそれぞれ、忍隊の中でも佐助自身が選らんだ精鋭である。
 これが何を意味する任務であるか、全員が理解した。
「――話は終わりだ、行け」
 佐助の命令に、忍びたちは一様に頭を下げ、そして音もなく姿を消す。
 残った佐助は、頬杖をつきながら、ただ月下の城郭を見つめていた。
 その瞳が宿すのは、――ただの、虚無。








 大坂城二の丸に続く物見の櫓、誰かが梯子を上がってくる音に、見張りの兵は振り向いた。
「お疲れさん、交代だよ」
 現れたのは同僚の見知った顔で、彼は無意識に安堵の息を吐く。
「なんだお前か」
「なんだって何だよ」
 見張りのために緊張していた肩をほぐすように回しながら、兵は小さく笑った。
「いや、侵入者があるかもしれねぇから注意しとけって大谷様が仰ってただろ?」
 伸びをすると首のあたりからいい音がした。
「へえ?んなこと言ってたっけ?」
「お前は相変わらず人の話を聞いてないな」
 呆れ顔で言うと、顔見知りの兵はへらりと笑う。
 その表情に、兵はため息を吐いた。
 どうもこいつは、能天気でいけない。
 豊臣軍の有力な武将であった徳川家康の謀反は全軍に大きな衝撃を与えた。軍の立て直しには、今が肝心な時であると、ただの一平卒である彼も理解していた。
 それなの、こいつときたら。
「いつか三成様のお耳に入ったって知らねェぞ俺は」
 同僚は笑顔を変えずにのんびりと答える。
「それはどーも、心配してくれてアリガトウ」
 ――たいした音も、無かった。
 その顔に飽きれた表情を張り付かせたまま、兵士の身体が崩れ落ちる。
「まったく大谷様も詰めが甘いよなぁ、」
 笑顔を張り付けた「同僚」の身体が闇に滲み、
「ちゃんと変姿の可能性も伝えといてくれなくちゃねぇ?」
 笑いの形に口元を歪めた佐助が、床に臥した兵士を見下ろした。
 もちろん佐助の声に応える者は、ない。
 佐助は笑顔を顔から落とすと、己の立つ櫓から二の丸へと続く門に視線を動かす。
 冷めた双眸で固く閉ざされたその門見つめながら、ここを如何に通過すべきかと考える。いくら気づいてもらう為とはいえ、ここで力に訴えるのも憚られた。派手な動きはそもそも忍びの本分ではない。
「門をぶち破る忍びってどうよ、実際」
 つまらなさそうに言って、その足元にずるりと闇が這い出た、その時。
 ふよ、と目の前に現れたそれに、佐助は一瞬で間合いの外に跳んで身構えた。
 何の仕掛けか、支えもなしにちょうど佐助の肩あたりの高さに浮かぶ、子どもの頭ほどの大きさの、珠。
 見覚えは、もちろん、ある。
 あの、厳島の海戦の。
 大谷吉継の。
 思い出して、未だ血の止まらぬ腹の傷口が、ずくりと疼いた。
『・・・・・・やれ、そう警戒することもあるまい』
 視線を走らせる。気配はない。
 声は、中空に浮かぶそのひとつの珠から、聞こえる。
『よく来た、ましらよ』
「・・・・・アンタか」
『ヒヒ。われを訪ねてきたのであろ』
 どのような仕掛けなのかなど、考えるだけ時間が無駄だ。
 忍びの頭は事実だけを受け入れる。
 この目の前の珠越しに、彼の男はこちらの様子を見ることができ、そして会話が成り立つのだと。
『よい月夜だ、どれ、同盟夜和(やより)と興じるか』
 ふよふよと、珠が揺れる様は、まるで彼の男の笑いを示しているようだ。
『・・・・・・歯牙の抜けた虎を養う余裕などありはせぬが』
 調子を落としたその声色に、佐助は眉を動かす。
 顔に、薄い笑みを張り付ける。
「疑いはごもっとも、――ま、杞憂だと思うけどね」
『われは心配性でな、』
 ふわりと珠が浮き上がり、閉ざされた門の前まで動く。
『・・・・・・ひとつ遊んで試すとしよ』
 重い音をたてて、ひとりでに門が開いた。
 それを見つめていた佐助が、わずかに眼を細める。
『われは知りたい、同胞(はらから)が誇るその器を。瓦葺の試練、見事超えて見せ』
 珠が、門をくぐって宙で止まる。
 まるで、佐助を待っているように。
 佐助は小さく吐息して、構えを解く。
 そして足を踏み出す。足音はない。地に体重をかけない、踊るような足取りだ、
「いいぜ。忍びを試したこと、後悔するんだな」
 門を潜りぬけた。
 二の丸へ連なる屋根瓦、珠はふわふわと先を行く。
 案内のつもりか。
 櫓の床を蹴って、その屋根へと降り立つ。
 次の瞬間、四方八方からクナイの閃き、ずらりと現れる忍び装束。
 あくまで温度の無い双眸でそれを一瞥し、佐助は両の手に大手裏剣を構える。
「――さァ、アンタに見抜けるかな?」
 その口元に、昏い笑みが宿る。
「今宵の猿が、何処で嗤うのか」
 静かな、そして熾烈な戦いが、幕を開けた。








「――刑部?」
 声をがかかって、吉継は輿ごとゆらりと背後を振り返った。
「どうした」
 石畳の向こう、戦装束を解かない石田三成が立っている。
「・・・・・・三成よ、夜は更けた。眠らねば、身体がもたぬぞ」
「惰眠など私には不要だ。貴様こそ休め」
 身も蓋もなくそう言い捨てる三成に、吉継は引きつれたような笑いを口から漏らした。
「ヒヒ、ぬしに心配されるとはわれもまだまだよの」
 その言葉に、三成は鋭い視線を吉継へ送る。
「貴様に倒れられでもしたら我が軍の痛手となるというだけだ」
 吉継は、手遊びに珠の一つを撫でる。
「案じるな、ちと遊んだら、休むゆえ」
「・・・・・・、そうか」
 納得したのかどうか、三成は一応はそう言って頷く。
 それを満足げに見つめてから、吉継は手の上の珠に視線を戻した。
「さて、手並みを拝見と行こうか、ましらよ」
 そこに映るのは、――ヒトの皮を被った、猿(ましら)の姿だ。

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20121221 シロ@シロソラ
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