第十章 第七話 |
風の吹きぬける、躑躅ヶ崎館の屋根の上。 佐助は数人の忍びに指示を出し、忍びたちは無言でうなずいて姿を消す。 残ったのは才蔵だった。 「・・・・・・すいぶんと強行手段に出ましたねぇ」 その声に、佐助は面白くなさそうに答える。 「お前らしくないな、これくらいは当然だ。虎を舐めてもらっちゃぁ困る」 才蔵はいつもの穏やかな笑みを絶やさぬまま、ただ佐助を見つめている。 「・・・・・・大谷吉継は、それほどの者でしたか」 佐助は温度のない眼で、才蔵を見つめ返した。 「何が言いたいわけ?」 「・・・・・・何をそんなに急いでいるんですか?」 才蔵から視線を外して、佐助は躑躅ヶ崎の街を眺める。 「そう見えるのか?」 「ええ。先の小田原から、瀬戸内まで駆けて、戻ったその足で今度は大坂。――まるで生命を削っているようです」 「単に稼ぎ時なだけだろ、世の乱れは忍びの飯の種ってね」 当然のように言う佐助の言葉に、才蔵はゆっくりと瞬きをした。 「・・・・・・、まぁ、色々大きく動いていますからね。信玄公が亡くなったことで幸村様は否が応でも武田の総大将になられる。ちょうど嫁取りもなさるようだし、いよいよ『佐助』はお役御免ですか」 揶揄めいた響きの声に、しかし佐助は口を噤んだままだ。 風の吹く音だけが、二人の間を通り抜ける。 「・・・・・・否定なさらないので?」 「なんかもうどうでもいいわ、お前の戯言は」 平坦な調子の佐助の返事に、才蔵はにこりと笑う。 「それはようございました」 才蔵の方を見もせずに、佐助は言い捨てた。 「どうでもいいからとりあえず消えてくれる?」 言われた才蔵は特に気にした様子もなく、慇懃に腰を折る。 「それでは、失礼」 才蔵の姿が消えたのを気配で感じ取ってから、佐助はどかりと腰を下ろした。 手を身体の後ろについて、空を見上げる。 その視界がかすかにぶれる。 「・・・・・・ち」 小さく舌打ちして、懐から丸薬を取り出すと口に放り込む。 ひどく苦いそれをがりがりと噛み砕きながら、血が足りないな、と考えた。 ――大将級の人間を二人同時に相手取るのは、さすがに文字通り骨が折れた。 同盟を呼び掛けておきながら、ずいぶんと派手な歓迎をしてくれたものだと、先の瀬戸内海戦を思い出す。 毛利元就の輪刀の捌きもさることながら、大谷吉継のあの謎の珠は動きが読めないだけに苦戦した。 帷子(かたびら)を着込んだ忍び装束の上から、腹のあたりに触れる。 ・・・・・・まさかにおいでばれるとは。 痛みがないわけではないがそれを客観的に感じることには慣れているし、肋骨は何本かやられたが手足は自由に動くから、怪我を悟られるような動きはしなかった。事実として、そういう相手の変化に敏感な幸村にも気づかれなかったというのに。 血のにおい、ねぇ。 潜むのが仕事の忍びはにおいを残さない。うまく隠したつもり、だった。 今でも、常人より優れている自信がある己の鼻でさえ、血のにおいなど感じない。 ――気配を感じ取って、佐助は嫌そうに息を吐いた。 「・・・・・・いったい何だってのさ、風使い」 そこにふわりと風が巻いた。 佐助が見上げる視界に、こちらを見下ろすの仏頂面。 「・・・・・・流石にこんなとこにまで上がってくるのはどうなの」 表情を変えずに、がその場に腰を下ろした。初めは足を崩して座り込み、ふと気が付いた様子で一度立ち上がってから膝を合わせて屋根瓦についた。 どうやら昨日の、その立ち居振る舞いは「真田幸村」の評価に繋がるのだと、佐助が言ったことを気にしているらしい。相変わらず生真面目なことだ。 「なに、屋根に上がれるのは貴方たちだけではない」 は風を使って文字通り飛ぶことができる、それは佐助も知っている。 だが問題はそこではない。 「ふつーのひとはこんなとこ上がってきちゃいけません」 口の中に残っていた丸薬の欠片を飲み込んで、佐助はに視線を流した。 「それとも何、俺様と逢引でもしようっての?」 「・・・・・・話を、しにきた」 逢引、と言う言葉にだろうか、僅かに顔を赤らめてから、が佐助と視線を合わせた。 恐らく否定の意であろう、「話を」の部分を強く発音して。 の深い色の瞳が、き、と佐助を見据える。 「どういうつもりだ」 「どうって、何が」 「大坂へ、――石田殿のところへ、行くのだろう。それ自体は確かに忍びである貴方たちの役目かもしれないが、だが先ほど幸村殿に言っていたあれは何だ。『使う生命はここにある』だなんて、まさか死ににいくつもりではあるまいな」 佐助はふうと息を吐く。 「・・・・・・アンタもなんだかんだで『草』の何たるかを知らないんだね。『伝説の忍び』はアンタにそんなことも教えなかったのかな」 の眉が、不快げに動く。 こんな物言いひとつで、表情を変えるようになった。 ――ずいぶんと人間らしく、なったものだ。 「・・・・・・小太郎から学んだのは戦い方、それだけだ」 むすりとした声色でがそう言うのを聞いて、佐助は上体を起こす。 「あぁそう。ならこれを機によく覚えておいて」 は黙って、佐助の言葉を聞いている。 「俺らにとって、自分の生き死になんざ三の次だ。何よりもまず、目的の達成のために動くこと、それが忍びの生き方」 そこで言葉を切って、佐助はにいと口角を上げる。 「今回の任務は石田軍との同盟をつつがなく結ぶための下調べ。――安心しなよ、俺様は優秀だ、必ず目的は果たす」 「・・・・・・、そこで生きて帰るとは、言わないのか」 「だから言ってるでしょ、生き死には問題じゃねぇの」 幼子にものを教えるような調子でそう言うと、が眉を跳ね上げた。 「だが!貴方の主は、幸村殿は、貴方が死んでいいなどとは考えていない!」 しかし、佐助は一切表情を変えない。 「大丈夫だよ、あのひとはもう、何が大切なのかがわかってる」 佐助の様子に痺れを切らしたように、が口を開く。絞り出すような、声だ。 「何故だ・・・・・・?貴方はこれまでずっと、長く幸村殿と共にあったのだろう?それを、何故突然そのように、離れようとしているのだ?・・・・・・まるで、己が、ひとではないような口ぶりではないか」 「忍びはひとじゃないんだよ」 「・・・・・・ッ」 身も蓋もないような佐助の返答に、は唇を噛む。 それを見て、佐助はこれ見よがしに天を仰いで、息を吐いた。 「・・・・・・なんかちゃん、ずいぶんと面倒くさい女になったねェ」 「何だと!?」 「そうやってすぐ腹を立てたりさ。ほんと表情豊かになったもんだ、挙句の果てに大将と殴り合いまでしちまって」 半眼でそう言う佐助の顔を、が怪訝そうな眼で、見つめる。 「・・・・・・何が言いたい」 佐助はゆっくりとの顔に視線を移し、薄く笑った。 「俺様はさァ、アンタの、どっか人間離れしたとこが、気に入ってたんだ」 佐助の脳裏に浮かぶのは、まだ春が遠かったころの、の姿だ。 あの頃、世を白銀に染めていた、降り積もる雪のような。 己に向けられた、まっさらな殺気の心地よさ。 そう、あの頃のは。 刃でこころを鎧った冷たい氷のようで。 人の世の清濁など与り知らぬかのような、その風のように透明な、眼をしていた。 ――それを、汚してみたいと何度も思った。 「それがまぁ、ずいぶんとかわいいただの女の子になっちゃって。マジ興醒めもいいとこ」 は口を噤んだまま、ただ佐助の双眸を見つめている。 言われていることの意味がわからないのだろう。その真意を問うような、視線だ。 佐助は身を乗り出して、右手を持ち上げる。手甲に包まれた指先で、微動だにしないの顎を捕らえる。 その瞳を覗き込む。 「ねェ。そのこころを壊したら、前のアンタみたいになる・・・・・・?」 「・・・・・・何、を」 「人間を壊すのってけっこう簡単なんだよね、そうだな、光も音も風も通さない地下牢かどこかに手足縛って一月も放り込んでおけば、他に何もしなくたってたいていの人間は壊れる。薬でも使えばもっと手っ取り早いかな、毒の依存で思考を奪う劇薬なんてのもある」 まるで天気の話でもしているかのような気安さですらすらとそう言って、佐助はうっそりと笑む。 「――俺ならそんな手間も小細工も使わずに、堕とせる」 佐助の視線を、は正面から受け止めた。 その瞳の奥がかすかに揺れるのを、佐助は見逃さない。 の顎を捕らえていた右手を、離した。 「・・・・・・、なんて、ね」 にこり、と佐助は笑う。 「冗談だってば。アンタが大将の想い人である限りは、アンタを守るのも俺様の仕事だ」 そう言って、佐助は立ち上がって伸びをする。 は動きを止めて固まったままだ。刺激の強いことを言い過ぎたかと、ほんの少しの後悔が頭の隅を通り過ぎた。まあほとんど本音だし、構いはしない。そもそも真田幸村の妻になるひとが、たかが草に気を回すのが間違っているのだから。 悪い男に関わっちゃいけません、なんてな。 「じゃーそろそろ行くから、そうだな、余裕があったらなんか甘い物でも買ってくるから、ふたりでいい子で待ってるんだよ?」 「待て佐助!」 我に返ったの制止など聞こえていない様子で佐助の姿が闇色に滲む。 「話はまだ・・・・・・ッ」 伸ばした手が触れた瞬間、闇色が風に霧散して消えた。 残されたは伸ばした手を戻しながら、拳を握る。 「・・・・・・佐助・・・・・・」 夜の帳が落ちている。 すでに館は寝静まっており、虫の音だけが耳に届いた。 一度は床に就いたは、しかし眠ることができず、むくりと上体を起こす。 障子越しに届く月の光は、明るい。ぼんやりと青く浮かび上がるような褥の上で、は膝を抱えた。 ぐるぐると渦を巻く思考、考えているのは昼間の、佐助のことだ。 「草」という呼び名の示す通り、忍びは人として扱われないのが世の常であると、知識として理解はしていた、つもりだ。 小田原にいたころ、伝説の名を冠する風魔小太郎と親交があったとはいえ、はこれまで、実際に忍びを使う立場になったことはなかった。 幸村の家臣となってからは、真田忍びは常にの傍にあったが、彼らはにとって、同じ主に仕える同士のような存在だったのだ。 ――仲間だと、思っていたのだ。 佐助の、捉えどころのない笑みが、脳裏に浮かぶ。 ――『アンタはもう、そういうわけにはいかないの、ちゃん』 そう。自分はもう、自分のことだけを考えて生きるわけにはいかないのだ。それは、わかっている。 ――『大丈夫だよ、あのひとはもう、何が大切なのかがわかってる』 幸村は、武田軍の大将になる。多くの兵が、その采配で動くことになる。そして当然、「多くの兵」の生命は平等ではない。その必要があるならば、真っ先に切り捨てられるのは。 ――『忍びはひとじゃないんだよ』 わかっている。どれだけ佐助が幸村にとって大切な存在であっても、彼は忍びだ。幸村のために生きて死ぬ、ただそれだけのために動く、忍び。 幸村も、それがわかっているから、佐助の大坂行きに何一つ口を出さなかったのだ。 「面倒くさい女」云々の発言については正直なところ意味が解らないし、意味も分からず貶されるのは不本意だったが、それ以外のことについては、佐助が言ったことはすべて正論だ。 それが正しいのだと、わかって、いる。 ・・・・・・それでも。 なんだか無性に腹が立つ。 は、佐助を仲間だと、思っていたのに。 当の佐助は自らを草だと言って、そもそも幸村やとは生き方が違うのだと言って、 信頼を裏切られたような気すら、する。 ――違う。 これは八つ当たりだ。 本当に腹が立つのは。 佐助が本当に死地に赴くのだとしてもそれを止められず、そしてそれを受け入れんとする幸村にも何も言えない、力のない自分自身だ。 ――『今、すごく悩んだでしょ』 脳裏に響いた声に、は顔を上げた。 「・・・・・・黄梅院、さま・・・・・・?」 思わず、周囲を見回す。もちろんそこは調度のない、静まり返った自室で、人影などない。 ――『それが今のあなたの気持ちなのよ、。その気持ちから、今後どうしていくのか、考えておきなさい』 考える。 かつて黄梅院に、繰り返し言われた言葉。 「・・・・・・そうだ、」 物事の正しさは、初めからそう決まりきっているわけではない。 正しいかどうか、考えて、判断するのは、自分自身だ。 考えろ。 何が、正しい? 幸村にとって、佐助にとって、――の、大切なひとたちにとって、何が最善なのか。 「・・・・・・!」 拳を握って、立ち上がる。 褥を抜け出て、夜着の単衣に、上着を羽織る。 幸村の室との間を遮る襖の前まで歩き、そこで膝をついた。 「――?」 「!」 襖の向こうから声がして、は眼を見はった。 「・・・・・・幸村殿。起きておられたか」 「・・・・・・あぁ、如何した?」 気配が動いたように、感じる。 この襖を隔てたそこに、幸村がいると、悟る。 その、姿の見えぬ幸村を見据えるように真っ直ぐと顔を上げて、は口を開いた。 「今から、わたしを大坂へ遣ってくれないだろうか」 突拍子もないことだと思われたのだろう、返事までに間があった。 「・・・・・・何?」 訝しげな、幸村の声。 はただ襖の先にいるであろう幸村を、見つめる。 「今からなら、わたしの風なら恐らく、忍びたちに追いつけるはずだ」 「、如何したのだ」 幸村が、遮るようにそう問うた。 は膝の上の両手で、拳を握る。 「・・・・・・佐助を、あのまま放っておけないのだ」 幸村の返事はない。 握った拳にぐ、と力を入れる。 「貴方も、おかしいと思っただろう?佐助はまるで、貴方やわたしとは違うというが如く、・・・・・・まるで、貴方はもう大将だからと突き放すように、自ら生命を捨てることも厭わぬ様子だった」 幸村は、すぐには答えなかった。 秋の虫が鳴き始めたのが、遠く聞こえてくる。 しばし逡巡するような気配、幸村の、遠慮がちな声が聞こえた。 「・・・・・・。ここを開けても、よいか?」 「ああ」 が頷いてから、一呼吸ほどの間があって、音もなく襖が開く。 予想通り、そこには幸村が立っている。 その顔を、は正面から、見上げる。 幸村がその場で膝をついて、と視線の高さを合わせた。 「・・・・・・本気なのだな」 「本気、だ」 の返事に、幸村はわずかに眉根を寄せた。 「・・・・・・佐助の様子がおかしいのは、俺も分かっていた。本当ならば、俺こそが真っ先に、馬を駆っただろう」 「だが、貴方はそういうわけにはいかない。大将が、おいそれと国を空けて動くものではない」 後を継ぐようなの声に、幸村は沈痛な面持ちで、頷く。 「大将、とは・・・・・・、なんと重たい名だろうな」 俯き加減に呟いた、その幸村の言葉に、はそうっと、腕を伸ばした。 幸村が膝の上で握っている拳に、触れる。 「預かるのは武田全軍、その重さはいかばかりか・・・・・・、わたしには、それを想像することしかできない。・・・・・・だが、貴方はひとりではない」 幸村が、顔を上げる。 「これまでの貴方の働きを、『お館様』はご存じなくとも、他の家老衆方はよく知っておいでのはずだ。その皆が、貴方を支えてくれる。佐助や才蔵や、他の忍びたちも」 その鳶色の双眸を、は真っ直ぐと、見つめる。 「――わたしも、貴方を支えるひとりでありたい」 「・・・・・・」 「頼む、幸村殿。わたしを大坂へ、遣ってくれ」 それでも、佐助が万全の状態であるならば、ここまで気に掛けなかったのかもしれない。あの忍びは、例え誰が相手であろうとも、滅多なことでは後れを取らない。は、そして誰よりも幸村は、それをよく理解している。 だが、は知っている。佐助は、傷を隠している。いまだ出血の止まらぬ、大きな傷であるはずだ。 それを口にはしなかったが、幸村はの視線から、何かを感じ取ってくれたのかもしれなかった。 「・・・・・・わかった」 幸村が、口を開く。 「俺は今、ここを動くわけにはいかぬゆえ、そなたに三つ、命じる」 は無言で頷いた。 「まず、無茶はするな。己の身を一番に案じるように」 満月に近い月は、障子越しにも明るく、ふたりを照らす。 「そして佐助の元では、必ず佐助の指示に従うこと」 頷くを見つめて、幸村は漸く目元を緩めた。 「――そのうえで、佐助を無事、連れ帰れ」 伸ばしていたの手は、幸村の手が包み込んでいる。 そのあたたかさに、は眼を細める。 「委細、承知した」 の返事にひとつ頷いて、幸村は天井を見上げる。 「才蔵」 「は」 背後に降り立った忍びに、幸村は命じる。 「聞いていたな?を佐助の元へ案内せよ」 才蔵は深く頭を下げたまま、是と答えた。 |
20121215 シロ@シロソラ |
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