第十章 第五話

 それから、一夜が明けた。
 躑躅ヶ崎館の人々は、表面上は平静を保っているようだった。
 公には伏せられることになったとはいえ、館で働く者たちや、武田家の家臣団の者たちにとっても、信玄の死は周知の事実である。それでも皆、己の仕事に励んでいた。当主の代替わりに伴う雑事は多い。甲斐周辺の従属関係にある領主たちへの招集もかかっている。それぞれ己がなすべきことを、ただ粛々とこなしていく、そうすることで悲しみを紛らわそうとしているのかもしれなかった。
 ともすればいつもより、そういった者たちの声や足音が大きく聞こえるような、朝。
 幸村にあてがわれているその室内で、幸村とは並んで正座している。ふたりとも揃えたように、軟膏や薬草で顔中をべたべたにしていて、そのにおいが鼻につくのだが、今ばかりは文句ひとつ言わず、背筋を伸ばして神妙な顔つきで、前方を見つめている。
 ふたりの視線の先、鉄壁の無表情で薬類の後片付けをしているのは、今まさにふたりの顔にそれを塗りたくった張本人である佐助だ。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 幸村も佐助もも、誰ひとり口を開かず、ただ思い沈黙が、室内に漂っていた。
 正確には、佐助の沈黙が恐ろしくて、ふたりは口を開けないのだ。
 昨日あの後、佐助は鎌之助を呼び出し(の後をつけていたらしい、は全く気が付いていなかった)、「何故黙って見ていたのか」と叱り倒していた。あれは可哀想だったと、は思う。止めたかったが如何せん本当に指一本動かせない状態だった。幸村も同じだったようで、鎌之助に対する説教が終わってから、も幸村もふたりに担がれて館に戻ってきたのだ。その頃からの記憶は曖昧で、気が付いたら褥で寝ていて朝だった。
 身支度を整えた後、同じように顔中を腫らした幸村と顔を合わせて、互いの無様っぷりがなんだか面白くて少し笑ったのもつかの間、朝餉と共に完全な無表情の佐助が現れたものだから、正直なところ朝餉の味がよくわからなかった。幸村とが黙々と朝餉を飲み込む間ただ黙って佐助は室の隅に控え続けて、ふたりが食べ終わるのを見計らって昨日の殴り合いによる打ち身や怪我の手当てを施したのである。
 そして、今に至る。
「・・・・・・、その、佐助、」
 沈黙に耐えかねたか、初めに口を開いたのは幸村だった。
 佐助が、薬箱から視線を上げる。
 その鋭い視線の、なんと冷たいこと。
 幸村はぎくりと眉を動かして、口を噤んだ。
 その視線を幸村に固定したまま、佐助が口を開いた。
「――聞かせてもらうよ」
 どこまでも温度の無い、声色。
「何やってンのアンタら」
「先に手をあげたのはわたしなんだ」
 たまりかねて、がそう言うのを、幸村が見下ろす。
、」
「昨日は、その、・・・・・・色々なことが、あって。わたしは、どうしても、感情が抑えられなくて、それを、――幸村殿に、ぶつけた」
「それを言うなら、俺もだ。納得せねばならぬと思えば思うほど、抑えが効かなかった、それゆえ」
 二人の言い分を、佐助が溜息で遮った。
「・・・・・・あのね、旦那。サンはお館様じゃないんだよ」
「・・・・・・わかって、おる」
「すまなかった、佐助。手数をかけて、申し訳ない」
 それぞれしゅんと俯くふたりを見つめて、佐助はもう一度息を吐いた。
 何しろほとんど半年ぶりの再会である。
 ふたりともきっと見違えているだろう、そう思った。
 思ったが。
「・・・・・・見違えるってそういう意味じゃねぇよ・・・・・・」
 げっそりと嫌そうに言って、佐助は掌で顔の半分を覆った。
「一応言っとくとサンは謝る場所が違うから。手当がどうより怪我しないことを先に考えてくれないかな、痕でも残ったらどうするつもりなのさ」
 が顔を上げる。その頬には、見るも無残な青痣。
「・・・・・・今更痕が一つ二つ増えたところでどうということはあるまい」
 予想はしていたが、平坦な声色で返ってきたその言葉に、佐助は不快げに眉を動かした。
「・・・・・・あのねぇ」
 顔を覆っていた掌を降ろす。
 露わになった佐助の双眸が、すうと細められる。
「アンタはもう、そういうわけにはいかないの、『ちゃん』」
 その呼び名に、が肩を小さく動かした。
 佐助は、が甲斐に来たころから、「」の名を知っていた。だが他の誰かがいる場で、――幸村の前で、その名を呼ぶことは決してなかったのだ。
 平坦な声色で、佐助が続ける。
「真田の家に、輿入れするんだろう。それならアンタの容姿や素養、教養はそのまま『真田幸村』の評価に繋がる。武家に嫁ぐとはそういうことだ」
「ッ、」
 が、言葉に詰まった。
 隣で聞いていた幸村が、眉を上げる。
「佐助!俺はにそのようなことを望んでおるわけではない」
「望もうが望まなかろうが、そういうことなのはアンタだってわかってるだろ?」
 視線を幸村に移して、佐助は言った。口調は軽いが、その顔は一切笑っていない。
 幸村が言い返そうと口を開いて、しかし言葉を飲み込んで、膝の上で拳を握った。
「それに、今度の『お館様』はそういうことを人一倍気にするお方だ。ただでさえあの人の『真田嫌い』は筋金入りだ、いらない火種をこれ以上増やすことないだろ?」
 反論の言葉が見つからず、幸村は口を引き結ぶ。その様子をちらと見てから、が口を開いた。
「・・・・・・今度のお館様、とは」
「昨日、ここに着いたときにそなたも会っただろう」
 幸村の返事に、は思い出す。
 ふたりを出迎えた、あの細面の若い男。
「あのお方、か」
「四郎勝頼殿、と仰る。故あって諏訪家の当主であられたが、お館様の実のお子だ」
「諏訪の家はそもそも武田が潰したものだからね、遺された姫君を大将が側室に迎えて、生まれたのが勝頼様なんだ」
 佐助がその顔に薄い笑いを宿しながら、幸村の説明を継ぐように言った。
「当然大将との折り合いもよろしくなくって、とりあえずは諏訪の家を継がせてたわけだけど、兄君が三人とも死んだり出家したりしたものだから呼び戻されたってワケ。そりゃ色々面白くはないよねぇ」
「・・・・・・佐助」
 窘めるように幸村が言う。
 信玄が亡くなった今、ここは新たな当主の居館である。あまり大きな声でしていい会話ではない。
 しかし佐助は張り付かせた笑顔を変えない。
「別にいいでしょ、どうせ聞いてるのは真田(ウチ)の忍びだ。三ツ者(みつもの)なんてとっくに途絶えてンだから」
「三ツ者とは?」
 の問いに、幸村が答えた。
「武田家が本来召し抱えていた忍びのことだ。父上がお館様に仕え始めたころに真田忍びが役割を継ぐことになり、結果として『三ツ者』は姿を消した」
「ま、俺様たちの方がよっぽど優秀だったってこと」
 それぞれ帰ってきた答えにうなずきながら、は考えた。
 実は以前より、不思議に思ってはいたのだ。
 この戦乱の世に名を知らしめる甲斐の虎、その武田家が、独自の忍びを持たないのは何故なのか。
 乱世にあって、大名と冠される家々はどこも忍びを飼っているのが通例である。上杉然り、伊達然り、北条家だってそうだった。
 それなのに、信玄は独自の忍びを持たず、家臣である真田の忍びを使っていた。つまりそれだけ、真田家を信用していたということ。
「大将はそれはもう、真田を愛しちゃってくれてたから」
 幸村がぴくりと眉を動かす。
 佐助の言葉に、揶揄めいた響きがあったからだ。
「・・・・・・それが、今度の『お館様』が真田家を好かぬ、理由ということか」
「そーいうこと」
まで、そのような物言いはすべきではない」
 幸村の言葉に、は目線を下げる。
「・・・・・・すまない」
「『お館様』がどう思っておられようと、我らは戦にてお役にたち、それによって信頼いただければいいのだ」
「・・・・・・そうだな、貴方の言うとおりだ」
 と幸村は視線を合わせて頷き合う。
 その様子をどこか冷めた眼で見つめてから、佐助は口角を上げた。
「と、いうわけで。早速お役立ち情報を持って帰って来たよ」
 そう、昨日は幸村とが全力の殴り合いなどしたものだから、まだ佐助の報告を聞いていなかったのだ。
 ふたりが姿勢を正す。
「うむ、よう戻った。瀬戸内へ行っていたと聞いたが」
 幸村の声に、佐助も畏まった様子で膝をついて頭を下げた。
「――申し上げます」








 瀬戸内での毛利と石田の海戦は、その実同盟を前提とした力の見せ合いであった。
 そして、石田軍のあの場においての大将であった大谷吉継という男から、居合わせた佐助へ武田軍との同盟の打診もあったという。
 報告を聞いて、幸村がわずかに眉をひそめた。
 隣のがちらりとそれを見てから、佐助へ視線を戻す。
「つまり、毛利と豊臣と、武田とで同盟を結ぶということなのか?」
 幸村が一団を率いて薩摩まで赴いたのは、豊臣の全国制圧に対抗するためだった。そして、同盟関係にあるにもかかわらず大坂へ攻め入ろうとした毛利の要塞を撃破した。そのことはまだ、記憶に新しい出来事だ。その毛利・豊臣と同盟など、ありえるのだろうかと、は思った。
 しかし、佐助は薄く笑って否と言う。
「『豊臣』って勢力は、現状無くなったと考えていい。今大坂で陣取ってるのは、豊臣秀吉の家臣だった石田三成っていう奴で、豊臣軍はそのまま石田軍にすり替わったと思えばいいかな」
「凶王三成(きょうおうさんせい)、わたしたちもここに戻ってくる途中で噂は聞いている。豊臣秀吉公の仇討を掲げているというが、しかしそれならば自らの軍とするのではなく豊臣軍として後を継ぐのが筋ではないのか」
「それが、石田三成ってのはずいぶんと豊臣秀吉に心酔しててね、自分が豊臣を継ぐなんて畏れ多すぎて考えもつかないってとこじゃない?」
 心酔する主君を喪った、男。
 がそっと、幸村へ視線を向ける。
 何か考えているのか、幸村は眉根を寄せた表情のまま、視線は床板に向いているようだった。
「・・・・・・そうすると、毛利と石田、そして武田の同盟ということになるのか。それにしても、特に毛利元就公は、わたしたちも顔を合わせて戦っている。その、・・・・・・わたしの心情としては、あの男と手をつなぐというのは何と言うか・・・・・・」
 そこでは口ごもった。どう言っていいかわからなかったのだ。あの要塞での、毛利元就の犠牲を厭わぬ非情な様子は今でも頭に思い浮かぶ。人を人とも思わぬような口ぶりが、は苦手だった。幸村だって、危うく焼き尽くされるところだったのだ。
「それに、わたしたちは豊臣軍とも戦うつもりだったのだ、それを石田殿が知らぬ道理もないだろう」
 の様子を見て、佐助が呆れたように眉を下げた。
「アンタ確か北条では直参の家臣だったんじゃなかったっけ?そんな甘いことでよくやってこれたねェ」
 侮蔑の色の濃い口調に、はわずかに眉を動かした。佐助はそれに気づかぬふりで続ける。
「同盟ってのは別にお友達じゃァないんだ、腹の底で何を考えてようが、とりあえずは互いに刃を向けません、ただそれだけの約束なんだから。で、そういうただの『お約束』として、石田の参謀殿からわざわざお声掛けいただいたってわけ」
 の脳裏に、薩摩での、島津義弘の言葉が響いていた。
 ――『あらゆる手練手管を用いても己が目的を達成するのも、またこの乱世の生き方のひとつ。それをよう、覚えておきんしゃい』
「・・・・・・、そうだな、貴方の言うとおりだ。事実として、同盟を破棄したはずの毛利と豊臣、いや今は石田か、そのふたつがまた同盟を成そうとしているのだから」
「そういうこと、信じる信じないよりも役に立つか立たないか、それが奴さんの判断基準なんだろうさ」
 薄笑いを張り付けている佐助の言葉に、は頷いた。そう、毛利の要塞を相手にしたときにも学んだはずだ。世の中すべての人間が、幸村のように真っ直ぐとものを考えているわけではない。その人それぞれの信念が、異なるのだということを。
「――して、佐助」
 難しい顔つきでそれまで黙っていた幸村が、顔を上げた。
「お前はどう思う」
「どうって?」
「その、石田軍との同盟。為すべきと、考えるか」
 その問いに、佐助がぴくりと眉を持ち上げて、そしてその顔から笑みを消した。
「・・・・・・それは、アンタが考えな」
 突き放すような、言い方だった。
 幸村とが、同時に反応する。幸村は膝の上で拳を握り、は驚いたように眼を見開いた。
「材料になる情報を持ってくるのが、忍び(俺ら)の役目だ。そしてそこから判断するのは、アンタの役目だろう」
 佐助の射るような視線が、幸村を貫く。
「アンタはもう、『大将』なんだ」
「ッ、」
 幸村がぎくりと、肩を強張らせた。
 それを見て、が佐助へ視線を移す。
「佐助、そのような言い方は、」
「よいのだ、
 幸村の制する声に、はぐっと言葉を飲み込んだ。
 幸村が、控えめな笑みを口元に宿して、佐助へ視線を向けた。
「よくわかった。報告は以上か?」
 佐助は再び、口元に笑みを張り付ける。
「あともう一つ。徳川軍が、奥州に攻め入った」
「!」
「何?」
 幸村が弾かれたように顔を上げ、は眉をひそめた。
「徳川家康殿が?」
「戦国最強まで連れて行ったらしいからほとんど全軍なんじゃないかな、まあ双竜を相手取ろうってんだからそれくらい必要だろうけど」
「・・・・・・政宗殿は確か、先の小田原の役で」
 幸村の言葉に、佐助が頷く。
「そ、石田三成にこてんぱんにやられて敗走したって。しぶとく生きてるみたいだよ?悪運だけは強いんだから」
「そこへ、徳川軍が?」
「目的は殲滅か同盟か、まだはっきりしたことはわからないけど、何らかの接触は確実にしたはずだよ」
 軍を率いて同盟というのも物騒な話だと、は思う。しかし、さきほど佐助に諭された通り、同盟とは仲良くなることを目的とするものではない。
「政宗殿のことだ、・・・・・・めったなことでどうにかなることはあるまい」
 思案顔の幸村の言葉には答えず、佐助は畏まった様子で、頭を下げた。
「報告は、以上です」
 幸村が、頷く。
「うむ、大義であった。ゆるりと休め」
 幸村の言葉に、佐助はもう一度頭を下げて、姿を消した。
「・・・・・・」
 は佐助が姿を消してからもしばらくの間、彼がいた床のあたりを見つめていた。
 何かがおかしいと、思った。
 の知る、幸村と佐助は、こんな他人行儀なやり取りをするような間柄ではなかったのに。主従というよりもまるで兄弟のように笑いあっていたのを、は覚えている。
「――?」
 幸村の声に、は我に返った。
「ッ、すまない」
「何を謝る」
 苦笑してから、幸村は視線を遠くへ向ける。
 ここではないどこかを、見つめているような。
「・・・・・・呆れておるのだろうな」
「?」
 ぽつりとつぶやくような声に、が幸村の方へ顔を向ける。
「佐助だ、俺があまりに不甲斐ないから、呆れておるのだろう」
「不甲斐ないだなど、」
「あ奴の言うとおりだ。俺は武田の総大将となるのだから、いつまでもあ奴に頼り切っておるわけにはゆかぬのだ」
 まるで自分自身に言い聞かせているような口調だった。
 幸村の言葉は、正論だ。
 佐助は忍びであって、軍師ではない。彼の言葉通り、忍びの役目とは情報収集であり、それに伴う判断ではないのだ。
「・・・・・・」
 それは分かっているが、なぜだが釈然としない。
 黙りこくったを見て、幸村が少し笑った。
「そのような顔をするな、俺が一人前の将として、しっかりすればよいことだ。まずは石田殿との同盟だな、お館様への進言の前に、どうすべきか考えなければ」
「・・・・・・貴方は、どう思うのだ?」
は何やら不服そうだな」
 図星を突かれて、は視線を逸らせた。
「・・・・・・毛利、豊臣、先の戦ではどちらも腹の探り合いであまりいい気はしなかっただろう。豊臣が石田になったからとて、それが変わるとは思えないし、武田に害があってはならないと、思うから」
「・・・・・・俺は、石田三成殿とは一度お会いしたいと考えておった」
 が顔を上げた。
「そうなのか?」
「凶王三成の噂は確かに聞いている、だがやり方はどうあれ、石田殿が手にかけるのは豊臣に刃を向けた者、・・・・・・それは忠節の志の表れなのやもしれぬ」
 遠くを見るような眼でそう言って、幸村はを見下ろした。
「俺はまだまだ、考えねばならぬな。たくさんのことを見て、知って、考えなければ」
 その双眸の、強い光を正面から見つめ返して、は頷いた。
「貴方の、言うとおりだ。わたしも、考えよう」
 その言葉に、幸村がわずかに眼を見張ってから、微笑んだ。

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20121207 シロ@シロソラ
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