第十章 第四話

 傾いた陽が、木々の影を長く伸ばしている。
 その木々の間を、はただ前だけを見つめて、走っていた。
 どこをどう走ったのか、よく覚えていない。
 初めは風で飛んでいたのだが、途中で限界が来た。そこそこの高さから文字通り地面に落ちた。落ちた先が枯葉の積もる山道だったのは不幸中の幸いだろう。無様に地に這いつくばることになったが、たいした怪我もなかった。
 風の使い過ぎだろう、頭痛がひどい。ぎりぎりと、締め付けられるようだ。
 それでも、足を止めなかった。
 立ち止まればそこで何かが崩れるような気がした。
 まるで追われるように、ただ走った。
 息が切れる。身体の方も限界だった。
 足が縺れて、もんどりうって倒れ込んだ。鼻をしたたかに打って、その痛みにしばらく耐えなければならなかった。
 なんとか痛みを噛み砕いて、そして肘をついて上体を持ち上げる。
 視界いっぱいに広がるのは、紅へと染まりつつある、木々。
 体勢を整えて、その場で膝を抱えて座り込む。
 見ごろはまだ、先だったか。
 もうしばらくすれば、この木々は見事な紅の錦の帯を作り出す。
 ――『ここは某の秘密の場所でござる』
 幸村の声が、聞こえた気がした。
 そう、ここは。
 幸村と出会ったばかりのころに連れて来られた場所だ。
 はあ、との口から息が漏れた。
 その吐息は、震えていた。
 吐息どころか、膝を抱える両腕も、その膝も。体中が。
 震えが、止まらない。
 どうして。どうして。どうして。
 それだけが、頭を埋め尽くす。
 黄梅院が、死んだ。
 肺の病、で。
 もう、二月も、前に。
 肺の病。
 信玄と、同じ。
 親子であることがなにか関係したのかどうか、病の知識に明るくないにはよくわからない。
 だが、発症してすぐに生命を落とすようなものではない、と思う。
 それなら。
 いつからあの方は、その病を抱えておられたのか。
「・・・・・・!」
 最後に、黄梅院に会った時。
 武田軍が徳川軍との戦に敗れて、が躑躅ヶ崎に駆けつけた、あのときだ。
 あのとき。
 黄梅院は、扇子で顔を隠していた。目元しか、見えなかった。
 ――あのとき、すでに。顔色は悪かったのではないのか。
 必死に記憶をたどるが、詳細を思い出せない。あのときの自分は、幸村や佐助の安否しか、頭になかったのだ。
 なんという、ことだろう。
 自分の都合にばかり、気を取られて。
 大切なひとの、体調の変化に、気が付かなかった。
「こうばいいん、さま・・・・・・ッ」
 どうして。
「――!」
 声に、頭を上げた。
 馬の嘶き。
 ゆっくりと、そちらへ、頭を向ける。
 幸村が、馬から飛び降りて、こちらへ駆けてくる。
!」
 立ち上がろうとして、失敗した。がくりと体勢を崩して、思わず手を地につく。震える膝に、力が入らない。
「ここにおったか、
 幸村が、の眼前に膝をついた。
「幸村殿・・・・・・、すまない、勝手に館を出た、」
「構わぬ。そなたがこの辺りで知る所はここしかないと、思ったゆえ」
 そう答えながら、こちらを覗き込むように視線を合わせてくる幸村の双眸を、は見つめ返す。
 ――その目元が、赤く腫れていることに、気が付く。
「幸村、殿?・・・・・・何か、あった、か?」
 幸村の纏う、気配が。
 あまりに、静かで。
 震える声でそう問うと、幸村はわずかに口を噤んだ。一度から視線を外し、眼を閉じて、そしてもう一度開いた瞳を、へ向ける。
「――お館様が、身罷られた」
「ッ、」
 愕然と、が眼を見開く。
 そして、目を伏せる。
「・・・・・・そう、か」
 容体が急変したと、聞いた。
 つまりはそういうことなのだと、想像はついていた、はずだ。
「そうか・・・・・・」
 はもう一度呟く。
 感情が絡むようで、思考が形にならない。
 そっと、幸村がの肩に触れる。そして、抱き寄せる。
 は茫然とした表情のまま、されるがままに、幸村の胸元に頬を寄せた。
「・・・・・・黄梅院様も、すでに、と」
「・・・・・・ああ・・・・・・」
 幸村の声に、は頷く。
 なんだか、もう体中が、痛い。
 眼が耳が喉が。鼻の奥が。心の臓が。どこもかしこも。
 だが、それは、幸村も同じはずだった。
 にとって、武田信玄という男は、腹の底では何を考えているかわからない信用のならない人物だった。
 それでも、絶対的な力を持つひとだった。
 簡単に、亡くしてしまえるようなひとでは、なかった。
 そして、幸村にとっては、武田信玄という男は。
 文字通り「全て」である、はずだ。はそう思っていた。
「・・・・・・幸村、殿・・・・・・」
 何を言えばいいのか、わからない。
 何かを言いたいのに。
「幸村殿・・・・・・っ」
 名を呼ぶことしか。

 抱きしめられる、腕の力が強くなる。痛いとも感じるそれが、今は幸村のこころを映しているようで。
「・・・・・・ッ、どうして、気づけなかったのだろう・・・・・・!」
 感情が、溢れる。
 堰を切ったように、口から言葉になって、漏れ出ていく。
「何も、なにもできなかっ、たく、さん、たくさん、もらった、のにっ、何ひとつ、返せなか、った」
・・・・・・っ」
 呼吸が苦しい。
 身が軋むようだ。
 どうして。どうして。口はそう、繰り返す。
「・・・・・・
 幸村の声が降ってきたのと同時。
 ぱちりと、左の頬に、小さな衝撃。
 驚いて、わずかに身を離していた幸村を見上げる。
 頬に添えられている、幸村の右の掌。
 軽い力ではあったが、平手打ちされたのだと、漸く気が付いた。
「幸村殿」
。我らは、武人だ。・・・・・・過ぎたことに、悔やむ暇は、ないのだ」
「・・・・・・」
 は驚きに見開いた眼で、幸村の、その双眸を見つめる。
 その瞳の奥の、わずかな揺らぎを。
 ――彼が、言っていることは、わかる。
 言葉として、理解できる。
 そうでなくとも、このところの戦で、武田は領地を大きく削られられていることを、旅路の途中で甚八から聞き及んでいる。
 「甲斐の虎」は、この関東のいわば要であった。それがなくなったとなれば、牙を剥く国は多かろう。越後の軍神、奥州の独眼竜、勢力を拡大する徳川に、その他周辺の領主たち。
 そのすべてに、これから幸村とは、立ち向かわなければならない。
 それは、も、わかっているのだ。
 だが。
 それでも。
「そんな、っ、」
 それで納得ができるほど、は大人ではない。
 そしてそれは、幸村も同じ、はずだ。
「っ、こんなときに強がるな!」
「強がってなど、おらぬ。今は、他に、すべきことがあるのだ・・・・・・っ」
 それも、わかっている。
 ここで立ち止まることを、信玄も、黄梅院も、誰も望むはずがないのを。
 だが、それなら、何故。
 痛いほど強く、この身を抱きしめるのだ。
 大好きなひとが、この世を去った。
 それをなぜ、耐えなければならないのだ。
 薄く開いた唇からつぶやくように、は言う。
「その、ことは、わたしも、よくわかっている」
 涙を流してはいけない。
 悲しんではいけない。
 ならば。
「――歯を、食いしばってくれ。幸村殿」
 幸村が、こちらを見た。
 その、わずかに見開かれた鳶色の瞳を見上げたまま、は息を吸い、
 右手に作った拳を、幸村の頬へ叩き込んだ。







 さすがに、幸村の身体を吹き飛ばすのは無理だった。
 殴った反動を使っては背後へ跳び、体勢を整えて着地する。
 視線の先で、わずかに上体をのけぞらせた幸村が、立ち上がる。驚いたように、目を丸くして。
 その顔を見据えながら、は再び拳を握る。体術の心得はあるとはいえ、殴ればこちらの拳も痛い。この痛みは、幸村の痛みだと心得る。
 息を吸う。
 そして口を開く。
「何を、呆けておるか!貴方はこうしていつも、信玄公と、――お館様と、大切なことを伝え合ってきたのだろう!!」
 さあ。
 その痛みを、この身にぶつけてくれ。
 涙を流せないなら、悲しむことも悼むことも許されないと言うのなら。
「奮えよ、――幸村!!」
 地を蹴る。風が巻き上がる。
 限界がきたとはいえ、まだ己の動きを速めるくらいの風なら、使える。
 一呼吸の間に距離を詰め。下から顎を狙う。
 容赦なく正確に打ち上げたその拳を、それまで固まっていた幸村がどこか動物的な動きで避ける。
「――ッ」
 避けたその動きの勢いを殺さぬまま、握られた拳が、の左頬を打ちぬいた。
「ッ!!」
 衝撃で宙に舞った身体を、一度腕を地について反転させてから、枯葉を巻き上げながら着地する。
 口の中が切れたらしい。溜まった血を吐きだしてから、は身構える。
「そうだ、ぜんぶ、ぶつけてくれ」
 他の方法など、思いつかなかった。
 慰め合うつもりなど、毛頭ない。
 ただ、心の底に押し込めてしまえばいずれ毒となって身を侵すだろう、その感情を、吐き出すために。
「そして、わたしのぜんぶも、ぶつけさせてくれ」
「――合いわかった」
 幸村が頷いた。
 拳を握って、重心を落としたのが、からも見える。
「行くぞ、!」
 眼前に迫る幸村から視線を逸らさず、は右腕に風を纏わせる。
「――幸村ッ!!」










 すっかり茜色になった陽の光が、並んで仰向けに倒れているふたりを柔らかく照らしている。
「・・・・・・しかし、拳の打ち合いに風を使うのは如何なものか・・・・・・」
「・・・・・・何を言う、生身のままで貴方と互角の打ち合いなどできるものか」
 互いにのろのろとした口調で、会話する。
 夕焼け空を見上げながら、は息を吐く。
 もう本当の本当に限界だ。
 指一本、動かせる気がしない。
 幸村も、同じであるらしかった。
 最後の一撃が互いの顔に正確に入って、そのまま倒れてしばらくたつが、起き上がる気配がない。
「・・・・・・
 さあ、と風が流れていく。
「ありがとう」
 ゆっくりと瞬きをする。眼尻に溜まった涙を、なんとか零れぬように堪える。
「・・・・・・礼を言いたいのは、わたしのほうだ。幸村殿、」
 なんだか、こころの中がからっぽだ。
 痛みも悲しみも、全てが吹き飛ばされたようなそこに、ひとつの言葉が落ちる。
「・・・・・・ありがとう」
 今だけ、今少しだけ、休もう。
 そしてまた立ち上がって、ふたりで、歩いて行こう。
 と同じことを、考えたのかどうか。
 左手に、暖かい感覚。
 首をそちらに動かすのも億劫だ、それに見なくてもわかる。
 幸村の右手が、握ってくれているのだ。
 遠い空の向こうに、一羽の鳥が見えた。
 旋回する、黒い翼。
「・・・・・・佐助だ」
「え?」
 幸村の声に、眼を細める。
 鴉の翼が、だんだんと大きくなる。旋回しながら、高度を落としているのだ。
 その足に掴まって降りてくる、なんだか懐かしいようにも感じる、暗緑色の忍び装束。
「・・・・・・本当だ、よく見えたな」
 あの大鴉は佐助の術なのだろうか。羽ばたいているように見えるが、羽音は無い。
 やがて忍びは鴉から手を離して、着地する。
 さく、という落ち葉を踏む音。頭の方から、さくさくと近づいてくる。
 視界に、佐助の顔が、逆さ向きに映り込む。
 風に揺れる髪の色が、空の色と同じだ。なんてきれいなんだろう。
「おかえり」
「おかえり、佐助」
 幸村とが同時に、そう言って笑う。
 笑みがぎこちないのは、顔中に痣を作って腫らしているからだ。
「・・・・・・アンタら・・・・・・、」
 その顔を見下ろして、佐助は言葉を探しているようだった。
「・・・・・・」
 見つからなかったらしい。
「・・・・・・、ただいま」
 その場でしゃがんで、佐助が両手を伸ばす。ふたりの頬を包むように掌を当てる。
「・・・・・・おかえり」
 鈍く痛む腫れた頬に、佐助の冷たい手甲が心地よくて、は眼を細めた。
 見えないからわからないが、きっと幸村も似たような顔をしているに違いない。

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20121204 シロ@シロソラ
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