第十章 第三話 |
信玄の居室の、その次の間には、武田の重臣たちが顔を揃えていた。 どの者も皆顔色を失っていて、中には涙で眼を腫らしている者もいる。 旅装のままの幸村が立ち入れば、彼らは弾かれたように顔を上げた。 「おお、幸村殿・・・・・・!」 「よう戻られた」 労うような声、先導する諏訪四郎はそれらを冷たく一瞥して先に進む。 幸村はその場で一礼し、その後に続いた。 薬草を潰すときの、独特な香りが、鼻先をくすぐっていく。 室内に張られた御簾を潜れば、そこに仰臥する、師と慕った男の、姿。 予想をはるかに超えて痩せ、老けたようにも見えるその姿に、幸村は眼を見開いて、言葉を失った。 「・・・・・・、」 何を言えばよいかわからず、ただ口だけがわなわなと、震える。 「――いつまでそのようなところで立っておる、御前であるぞ」 突き刺さるような四郎の声に漸く我に返り、幸村はその場で膝をついた。 「お館様、幸村にございます!真田源二郎幸村、本日只今この躑躅ヶ崎に帰還いたしました!」 四郎が眉をひそめるほどの大声だった。 その声に、信玄の顔がわずかに動く。 「・・・・・・幸、村、か・・・・・・」 閉じられていた瞼が、ゆるりと持ち上がった。 「幸村・・・・・・、近う」 「お館様!」 膝を擦って、幸村は信玄の顔を見下ろせる位置まで移動する。 「お館様ッ」 「幸村よ・・・・・・」 上掛けから、のろりと信玄が持ち上げた手を、両手で握る。 何度となく己が身に叩き込まれてきた力強い掌は、肉が落ち、まるで別人のように細い。 「最期におぬしと会うことが叶うとは・・・・・・、儂の強運もなかなかのものよ、のう」 「お館様・・・・・・ッ」 信玄は今、最期と、言った。 才蔵からの文を受けた段階で、差し迫った状況なのだろうと、ある程度の予想はしていたつもりだった。 それでもまさか、これがもう、最期なのか。 「首尾は聞いておる・・・・・・、よう、やった、幸村」 苦しげな吐息交じりの信玄の言葉に、幸村は姿勢を正す。 「勿体なきお言葉にございます」 信玄がひとつ頷き、幸村を見上げた。 「・・・・・・強さの。なんたるか、を、理解、したか」 その問いに、幸村は一度口を引き結ぶ。 旅路でのことは全て甚八から佐助を経由して報告が上がっているはずだった。だから状況の説明は不要である。 何を学んだのか。失ったもの、得たもの、それぞれを脳裏に思い描いて、幸村は口を開いた。 「はッ、この幸村、お館様の背を追うだけでなく、その志を継ぎ、越えて、この身燃え尽きるまで戦い抜く所存!」 はっきりとそう言いきって、幸村は信玄の眼を見つめる。 信玄が、ゆっくりと、瞬きをした。 「この儂を、越えると、そう申したか」 「はッ!!」 「そうか・・・・・・、この儂を、のう・・・・・・」 生気のなかった顔に、笑みが宿る。 「フフ、言うようになったではないか、幸村よ」 「お館様ッ」 視界が滲む。 涙など、見せるわけにはいかない。そう思って、眼の淵に溜まる水を落とさぬように瞬く。 「ッ、なれば、こそッ、まだまだお館様には、ご教示いただきたいことが、たくさん・・・・・・ッ」 「何を言うか、お前はもう、自分の足で、立っておろうが」 「しかしッ、まだ・・・・・・ッ、殿、いえにも、会っていただきとうございます」 「のことも、聞き及んでおる」 信玄が、ゆっくりと言う。 「よいか幸村。戦の世にあっておなごは道具ぞ。・・・・・・儂はそうやって、生きてきた」 幸村はその言葉に、黙ってうなずく。 信玄には正室、継室、その他にも多くの側室がいた。すでにこの躑躅ヶ崎で暮らしている者はないが、側室のほとんどは家臣の娘や同盟した家の姫君で、生まれた娘たちも黄梅院のように政略結婚でこの館を去った。そのことを、幸村も知っている。 家の存続のためには子を成すことが必要不可欠であるから、武家の男が妻を複数娶るのは当然のことで、そして同盟の足掛かりとして他家へ嫁ぐのは武家の女の務めである。 「――だが。まことに好いたおなごならば、生涯それを守り抜くのも、また男の戦だ」 「この、幸村ッ、しかと心得まして、ございまする!」 その幸村の返事を聞いて、信玄は満足げに笑むと、ゆるりと瞼を降ろした。 「ッ!お館様ッ!!」 眼を閉じたままのろのろと、信玄は言葉を紡ぐ。 「・・・・・・四郎、そこにおるな」 「は」 「武田の家は、おぬしに、任せるぞ」 「承知仕りました」 「戦では、幸村を総大将と致せ」 慇懃な様子で、四郎が頭を下げる。 「心得ましてございます」 それに頷いて、信玄はもう一度、眼を開いた。 「・・・・・・幸村よ」 力を取り戻した瞳。 それが最期の光なのだと、幸村も悟る。 「お館様ッ」 「虎の、魂」 持ち上げていた腕を動かす。驚いたように幸村がその手を離し、そこで握った拳が、幸村の胸元をひとつ、突いた。 「――確かに、伝えた、ぞ」 そして。 ゆる、と瞼は降りていき。 拳を握ったままの腕が、 ――力なく、褥に、落ちる。 「お館様・・・・・・ッ」 堰を切ったように、幸村の眼から、大粒の涙が零れ落ちる。 それを拭おうとすらせず、ただ幸村は追いすがる。 「お館様、お館様アァッ!!!」 その幸村の様子を、何か目障りなものでも見たかのような眼で一瞥してから、四郎は立ち上がる。 いまだ信玄の亡骸に涙を落とす幸村には見向きもせず、次の間で同様に涙している重臣たちを見渡した。 「鎮まれ」 静かな声だ。 その声に重臣たちが顔を上げ、幸村もそちらを振り向いた。 「只今をもって、私は武田姓を復する。武田四郎勝頼、これより武田家第二十代当主である。武田の家を、甲斐の国を、これから立て直さねばならぬ。皆それを忘れず、励むように」 重臣たちが姿勢を正して、平伏する。 それに倣うように、幸村もその場で額を床に擦りつけた。 その眼から零れ落ちる涙はいまだ、床に染みを作り続けた。 陽が、傾き始めていた。 表立っては信玄の死は伏せられることとなり、諸外国へ容易に漏れることのないよう、大々的な葬儀は見送られることとなった。武田勝頼による家督の相続も、表向きには信玄の隠居によるものと記されることになる。 幸村自身も、その方が今はいいように感じていた。 これから葬儀とあっては、何やらこころがついて行かぬような気がして。 躑躅ヶ崎に滞在するときにはいつも使っている室内で、幸村はただぼんやりと腰を下ろしている。 思考が、形を成さない。何を考えても、おぼろげに霞んでいく。 信玄の病の進み具合については確かに報告を受けていなかったが、それでも出立前の薬師の見立ては聞いていたのだ。恐らくは助からぬと。 いつかはこういう日が来るのだと、覚悟を決めていた、つもりだった。 「・・・・・・いかんな」 ぽつりとこぼすようにつぶやいて、ふと己以外には誰もいない室内を見回した。 そういえば。 は。 この半年ほど、傍にいるのが当たり前であったせいか、いないとわかると心もとない。 確か奥向きへ、黄梅院へ挨拶に行っているはずだ。 だがそう言って別れてから、ずいぶんと時間がたっている。 近くには、気配がない。 「才蔵」 「は」 現れた忍びを振り返る。 「はどこだ?まだ黄梅院様のところか?」 「いいえ」 才蔵はいつもどおりの穏やかな調子で否と答え、す、と幸村へ両手を差し出した。 その掌に、乗っているのは。 「これは、」 あの、南国の市で買い求めた、櫛だ。らでん、と言ったか。不可思議な文様を浮かび上がらせる装飾の。 黄梅院に贈るのだとが言っていた。 それが何故、ここに。 「様、いえ様が、落としていかれました」 甚八あたりから、こちらの事情はすでに知れ渡っているのだろう、の名を呼び換えて、才蔵はそう言った。 櫛を受け取りながら、幸村は首を傾げる。話が見えない。 「それでは、どこへ」 「一刻ほど前に、館を出られたまま戻られません」 「ここを出た?何故」 「黄梅院様は、すでに亡くなられております」 「・・・・・・」 何を言われたのか、わからなかった。 言葉の意味を咀嚼する。 「・・・・・・、な、に・・・・・・?」 「ああ、そういう反応は確かによく似ておいでですね。様も先ほどそのようなお顔をされて」 「待て!そのようなことは聞いておらぬぞ!」 「ええ、ご報告しておりません。二月ほど前になりますか、それまで患っておられた肺の病で」 ほぼ無意識に、才蔵の胸倉を掴んだ。 踏み出した右足が、だんと床を踏んで音をたてる。 「どういうことだ!報告をしていないとは!黄梅院様はの、」 「その黄梅院様の命にございます。御身に何があっても、様には何一つ伝えぬようにと」 「・・・・・・ッ」 ば、と幸村は才蔵の襟元から手を離す。 言いたいことは山ほどあったが、今は才蔵を責めている場合ではない。 「――それで、はいかがしたのだ」 「大変驚かれた様子でその櫛を落とされ、そして風を使って飛んで行ってしまわれました」 「・・・・・・、そなたそれをなぜ早く言わぬ!」 「聞かれませんでしたので」 わざとなのか違うのか、この才蔵は事実として佐助と同等に有能な忍びなのだが、佐助とは違い幸村の意図を口にせずとも理解してくれるようなことはしない。幸村にとっては、佐助以上に手厳しい相手なのである。 己を落ち着けるように息を吐いて、幸村は立ち上がった。 「よい、詳しい事情は後で聞く。馬を引け。を探しに行く」 「一応は、鎌之助が追っているはずです。連絡を取りますか?」 「――要らぬ」 そう言い捨てて、幸村は大股で濡縁へ出ていく。 は、この躑躅ヶ崎に明るくない。 館を出たら、他に行きそうな場所は、ひとつしか思い浮かばなかった。 |
20121204 シロ@シロソラ |
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