第十章 第二話 |
「――はッ!」 頭のすぐ上から降ってくる気合いの掛け声、その途端馬が大きく地を蹴り、裂け目のような谷間をひとつ飛び越える。 着地の衝撃を、跨った鞍にしがみつくようにして耐える。 鹿毛馬の四肢が、力強く地を蹴立てる音。 その馬にはと、そして手綱を握る幸村が跨っている。単騎だ。はもちろん一人で問題なく馬に乗れるのだが、幸村の速駆けに着いて走れるほどの技量がないため(幸村の速駆けに対抗できる者は武田騎馬隊にもそういない)、二人を乗せて馬に負担をかけてでも、この方法がとられることとなった。自分は置いて行っていいとは言ったのだが、幸村が納得しなかったのだ。 そう、今は一刻を争う。 毛利の要塞を撃破し、その厳島で薩摩の兵たちとは別れ、一路東へと幸村達が戻り始めて一月と少し。 道中、豊臣秀吉が討たれたという報が入った。強大な力を持った者が姿を消せば、世がまた乱れるのは必定であり、できうる限りの速度で一行は移動を続けた。 そして、漸く甲斐の国の地を踏むころには、季節は秋へと移り変わっていた。 躑躅ヶ崎に詰める才蔵から、鴉が火急の報せを届けたのが昨日のことである。 曰く、病床の信玄の容態が急変したから、急ぎ戻れという。 忍術の鴉を用いたとはいえ、万が一にでも情報が漏れることを危惧して、信玄の病状については、文でのやり取りは行われていなかったのだ。 それが、昨日になって、文での報せが入った。 つまりそれだけ、状況は差し迫っているということだ。 幸村はそれでも、表面上は取り乱さなかった。 陣頭指揮を甚八に任せ、を連れて先に躑躅ヶ崎に向かうことを決め、すで一昼夜こうして走り通している。 漆黒の夜空に浮かぶ十三夜の月が、行先を照らしている。満月に至らずともその明るい光のおかげで最低限の視界は得られる。休まずに駆けるためには、ありがたいことだった。 馬には相当の無理を強いているはずで、なんとか躑躅ヶ崎まで踏ん張ってくれとただ祈る。 背に、幸村の体温を感じる。 ただただ前へ、先へ先へと、それだけを考えているのだろう気配を、感じる。 は、知っている。 本当ならば文を寄越した才蔵よりも、それを受け取った甚八よりも、そしてこうして傍にいる自分よりも、 誰よりも他ならぬ幸村が、焦っているのだと。 痛いほどの焦燥が、伝わってくる。 ぐ、と唇をかみしめる。 とにかく今は。 考えるよりも、前へ。 それだけを頭に、少しでも馬の負担を軽減すべく、は追い風を動かし続けた。 翌日、爽やかな秋晴れの空に、陽が高く昇りきったころ。 躑躅ヶ崎館の大手門に、砂ぼこりにまみれた騎馬の姿があった。 門を潜るなり、幸村はひらりと馬から降りて、館へと駆けていく。 「お館様ァ!」 一晩続けて風を使い続けたは、幸村より遅れてずるりと崩れ落ちるように馬から降りた。なんとか膝をつくことはなく、馬の首筋を撫でる。 「よく、がんばってくれた」 鼻息の荒いその馬をもう一度撫でてから、「労わってくれ」と門番の兵へ手綱を渡す。 そして眩暈のする頭を振ってから、幸村の後を追った。 「お館様!お館様ッ!幸村にございます!」 喉も裂けよとばかりの声が響いている。おかげで彼の場所はすぐにわかったので、は走ってその背に追いついた。 「幸村が戻りましてございます!お館様ァッ!!」 「幸村殿、」 気が付いた女中や下男たちが、驚いて道を開けるように避けていく。 そのように声を張り上げずとも、とは声をかけ、 「――そのように喧しく叫ばずとも聞こえておるわ」 まるで、冷水を頭からかけられたかのような、声だった。 幸村が立ち止まったので、もその背後に控える。 若い男だった。 背格好は幸村とそう変わらないだろうが、幸村と比べれば明らかに身体の線が細い。一寸の隙のなく着込んだ着物から見える手指はおなごのそれのように白く、細面の涼しげな顔立ちはまるで幸村とは対極のような男だ。 その、全身が凍てついた氷のような男の、切れ長の双眸だけが強くこちらを見据えている。 その視線の強さに、は既視感を覚える。誰かに、似ているような。 「・・・・・・諏訪殿」 幸村が声の調子を落として、そう言った。 立ち居振る舞いからして、武田の家老衆のうちの一人、幸村よりは上の立場の者であろうと推測された。幸村より目上ならば自分よりもよほど目上である、はそう思い至ってその場で膝をつく。 「案内(あない)はするゆえその耳障りな口は閉じろ」 諏訪というらしい男のその言葉に、は小さく眉を動かす。 しかし幸村が畏まった様子で「は、」と頭を下げたのを見て、言葉を飲み込んだ。 ふん、と不機嫌そうに鼻から息を吐いて、諏訪が踵を返したので、幸村が後を追い、もそれに続くべく立ち上がった。 数歩歩んで、諏訪は再びこちらを向く。 その突き刺さるような視線が、へと当てられる。 「――その者は」 「ッ、」 は再び膝をつこうとして、その前に幸村が口を開いた。 「某の、家臣にございます」 幸村の返事に、諏訪の視線がから外れた。 再び踵を返しながら、言う。 「入室を許すのは貴様だけだ、幸村」 「な、しかし、この者は!」 「国主の居室ぞ。本来ならば親族衆でもない貴様の立ち入りも許されぬところだ。が、貴様が戻れば通せとの仰せだ、それゆえ貴様ひとりは目通りを許す」 「しかし、」 なおも言い縋ろうとする幸村に、は声をかけた。 「幸村殿、構わぬ」 幸村がこちらを振り返る。 その顔を見上げて、は頷く。 「先に行かれよ」 「だが、」 眉を下げる幸村の双眸を、は問題ないと伝わるようにかすかに口の端を上げて見上げた。 「・・・・・・ならば、貴方が信玄公を見舞う間に、わたしは先に奥の方へ挨拶に伺おう」 「・・・・・・、すまぬ、」 「当然のことだ、謝るな」 そう答えて、はすでに先に歩き始めている諏訪の背を指す。 幸村はもう一度の顔を見てから、歩調を速めてその背を追った。 ――幸村殿を待つ気もない、か。 遠ざかる諏訪の背を見つめてから、は奥向きへ向かうべく踵を返す。 先ほど彼は「親族衆」という言葉を使った、ならば武田家と関係のある家柄なのだろう。諏訪、という家があっただろうかと思いを巡らせる。以前この館に身を寄せていたころ、の関心事はほとんど黄梅院ただひとりだったので、信玄の家臣団についてはあまり覚えていないのだ。これから先はそういうわけにはいかない。幸村の家臣としても、当然主家のことを把握しておかねばならない。 そして、理由はもう、それだけではないのだ。 歩きながら、は拳を握る。右の掌の傷はすでに完治し、包帯も外れている。 その手を見下ろしながら、思う。 幸村の隣で生きると、決めた。 「」の名を捨て、「」として生きると決めたのだ。 上田に戻った暁には、祝言を挙げようと。 ――幸村に、嫁ぐ。 武家の奥方に必要な素養など、には何一つ身についてはいないのだが、それでも夫たる者に関わりのある人物は把握しているのが当然だろう。 気を、引き締めねばならない。 これまで以上に周りに気を払わなくては。 考えながら、懐を探る。 荷物の中でもこれだけはと、大切に持ち帰ってきた包み。 布の包みを開いて、中から取り出したのは、螺鈿細工の櫛。 南国の、あの色とりどりの光景が頭に思い浮かぶ。そういえば、これを買い求めるときにうっかり騙されそうになって、武蔵に怒られたのだと思い出す。 の口元に、わずかに笑みが宿る。 何からお話ししよう。 驚かれるだろうか。・・・・・・いやきっと、笑ってくださる。 丸二日、睡眠もとらず力を使い続け心身ともに疲れ切っていたはずだが、の足取りは軽い。 記憶の中の華やかな笑みを思い返して、そこでは漸く気が付いた。 さきほどの、諏訪という男の、強い視線。 あれは、ふとしたときに黄梅院が見せるものと、同じ。 甲斐の虎の、眼だ。 ――おかしいと、気づくまでに、そう時間はかからなかった。 「・・・・・・?」 広大な館の奥殿に足を踏み入れた途端、人の気配が消える。 まずは取次を頼もうと思ったのに、首を巡らせても、侍女の一人も見当たらない。 なぜだ。 表向きの方はここを旅立った時と何ら変わらず、たくさんの人がそれぞれ忙しく働いているのを、見た。 それが。 奥殿に入った途端。 濡縁を歩く、の頬を風が撫でる。 秋が来ていることを差し引いても、どこかひやりと冷たい、風。 いったい、何が。 歩く足が、どんどん速くなる。 それに呼応するように、心の臓が早鐘を打つ。 何が。 やがて、黄梅院の居室に辿りつく。 締め切られた障子の前で、は膝をつく。 障子を開けてくれる侍女はもちろんいない。 「・・・・・・黄梅院、様・・・・・・?」 すでに悟っている。 この中に、黄梅院の気配は、ない。 それでもは居住まいを正す。 「に、ございます。失礼、いたしまする」 そっと障子に手をかけて、音もなく開く。 明るい、陽の光が、障子を開けたその分だけくっきりと、室内を四角に照らす。 「・・・・・・」 やはり、誰もいない。 はゆるりと立ち上がり、一歩、室内へ足を進める。 黄梅院の姿だけではない。 そこに在ったはずの文机、燭台、唐渡のものだと聞いた掛け軸に、その他の調度も全て。 まるで初めから何もなかったかのように、寒々しいまでに、そこには何も、ない。 どうして。何が。 そこで初めて、は風を使うことに思い至る。 己の風は、それが届く範囲内の気配を感じ取ることができる。 瞼を降ろす。 風に意識を向ける。 酷使しすぎた力に、頭が押さえつけられるように痛むが、それは無視する。 頬を風が撫で、そしてふわりと結い上げた髪が持ち上がる。 しばらくの間、そうしていて。 「・・・・・・」 ゆっくりと、瞼を持ち上げた。頭痛がひどい。 奥殿だけでなく、館全体、知りうる限りの躑躅ヶ崎の里、要害山城にまで意識を向けた。広範囲に拡散しすぎて、ひとりひとりの判別も難しかったが、それでも。 目当ての気配だけが、見つからない。 黄梅院の、気配、だけが。 いったい、何が、どうして。 最も近くの気配、というより自分に付いてきていたらしい気配の名を、呼ぶ。 「・・・・・・才蔵」 「ここに」 すぐ背後から、しばらくぶりに聞く忍びの、穏やかな声。 ふらりと、はそちらを振り返る。 膝をつく忍びの、そのいつもの笑顔を見下ろす。 そしてはついに、その問いを口にする。 「・・・・・・黄梅院様は、どちらに」 才蔵はあくまで、いつもの笑顔と、いつもの穏やかな声色を、一切崩さなかった。 ――の指から滑り落ちた螺鈿細工の櫛が、床に当たってかたりと音をたてた。 |
20121122 シロ@シロソラ |
http://sirosora.yu-nagi.com/ |