奥州の秋は早い。 夜が明けるまでにはまだ時間があり、月夜が冷やした清冽な空気が肌を刺すようだ。 片倉小十郎は、右手で愛刀の鯉口を切る。 抜刀の風切り音。 振りぬいた左腕を戻し、その刀身に刻まれた文字を目で追った。 「・・・・・・梵天、独眼の竜と成りて天翔けよ」 つぶやきと同時、刻まれた文字の溝が淡く光る。稲妻を生む、蒼い燐光。 視線を動かす。 その先には、主君が、自分が、民たちが愛してやまないこの国が映る。 「・・・・・・そのために俺は、刃を取る・・・・・・!」 渦巻くすべての感情を圧殺して、刀を握る左腕に力を籠める。 ――ここはこれから、戦場となる。 時を同じくして、この夜の終わりを告げる風が、徳川家康の外套を揺らす。 頭にかかった頭巾を外しながら、黄金色の双眸は竜の気配を嗅ぎ取る。 「流石はは北の雄、どんな時でも牙は抜かないか」 大軍をその背に従えて、総大将は悠然と笑む。 「解った、心ゆくまでワシの腹を覗いてくれ!」 ――東の空が、白み始める。 |
第十章 第一話 |
瀬戸内の海では、海戦が始まっていた。 大海原に木霊するのは剣戟と怒号、銃声、そしてほら貝の音である。 波穏やかな海を埋め尽くす水軍の船の中でも一際大きな旗艦。龍を模した意匠のその大船に組まれた、小さな城と言っても差支えのなさそうな立派な櫓の中、その天井に走る梁と梁の交差部分に身を潜ませて、佐助は眼下の様子を窺っていた。 暗がりにあってはほとんどその姿を目視することの叶わない、潜伏用の黒装束。口元まで闇色の布で覆って、唯一晒している目元は視界全ての情報を何一つ逃さぬよう、鋭い視線を動かし続けている。 徳川家康に討ち倒された豊臣秀吉。しかしさすがは覇王軍と言うべきか、統制の整った軍勢は大将を失ったからとて霧散するようなことはなかった。今この瀬戸内で、彼らが掲げる旗印は豊臣の五七桐ではなくその傘下、左腕と称された石田三成のもの。豊臣秀吉には世継ぎがいたがまだ年若い子どものはずで、豊臣軍の実権はそのままこの石田軍に移ったものと見て間違いはなさそうだった。 水軍が掲げる、もう一つの旗印は一文字三ツ星。毛利軍である。 先の戦いで幸村たちがその大要塞を撃破したが、毛利元就本人は健在。崩落する要塞から運良く逃げおおせたらしい。そこで追いすがってとどめを刺さないところが幸村らしいと言えばそうなのか。確かにあのときの武田軍の目的は安芸の国の征服ではなく、毛利元就の大坂侵攻の阻止だ。そのための要塞撃破ではあったが、結局こうして海戦が開かれたとなれば佐助としては何やら釈然としないものがあった。 そう、大将は健在、水軍もほぼ無傷のようだから、同盟関係の失われた豊臣軍、――現在の石田軍と、改めて戦をすること自体は理にかなっている、ようには見える。 ――覇王が掌握しかけた天下の趨勢は、再び大きく乱れ始めている。 豊臣秀吉を討った勢いのまま、急速に勢力を広げ始めたのは徳川家康。佐助がこの戦に紛れたのと入れ違いで、彼の男は奥州に現れたとの報告があった。奥州国主の独眼竜は、先の小田原征討の際に乱入を試みて、石田三成に手ひどく返り討ちにあったという。これは個人的には、少し胸のすく思いだった。伊達軍は命からがら奥州へ逃げ帰ったはずだが、そこは腐っても竜だ。徳川家康の侵攻に容易く落ちるとは思えない。それでも万が一徳川に制圧されたり、あるいは同盟が成立するようなことがあれば、甲斐は東と西から挟み撃ちに合うことになる。 かつては関東一円に勢力を広げた武田も、先の戦で相模を失い、そして同時に宇都宮も手放していた。戦を避けるための判断ではあったが、結果として領地は大きく削られ、巷でも虎の牙は折れたのだと噂がたっている。 その噂は、まったくの嘘ではない。 まだ報告はないが、おそらく今頃、信玄は。 領地を大幅に狭めた武田の立て直しに、何よりもまず必要なのは、正確な情勢把握だった。 そのために今日、こうして海戦の中に紛れ込んでいる。 戦とは情報戦。西国の勢力図が大きく書き換わるやもしれないこの戦場は、無数の情報が泳ぐ文字通りの海だった。 ・・・・・・それにしても、妙な戦だ。 各軍にあらかじめ潜り込ませておいた部下たちからの報告や、佐助自身がそれとなく戦場となっている船を巡って兵たちの会話を聞いた限り、この戦は単純に毛利と石田の潰しあいを意図するものではないらしい、ということが浮かび上がってきた。 毛利軍の兵の会話で、毛利元就は兵を温存しようとしているらしいことがわかった。残虐非道と名高い凶王・石田三成を相手にそんな余裕があるのかと疑問に思っていたら、石田軍はその大将たる石田三成本人が出陣どころかこの瀬戸内にも来ていないのだ。石田軍の指揮は、石田三成と同じ豊臣秀吉の家臣で、石田軍の事実上の参謀である大谷吉継という男が執っているらしい。 ・・・・・・どうも、嫌なにおいがするねェ。 においと言えば。 思い出して、佐助は闇色の布の下ですん、と鼻を鳴らした。 山育ちということも理由のひとつだろうが、佐助は海のにおいがどちらかというと嫌いだ。仕事柄海に来るのは何もこれが初めてというわけではないが、この強い潮のにおいにはどうにも慣れない。忍びの身には物事に対する好き嫌いは存在しえないのだが、強いにおいは他のにおいを嗅ぎ取るのに邪魔になる、そういう理由で嫌いだ。 その、潮のにおいの中に。 ・・・・・・また、だ。 時折、異なるにおいが混じる。 潮の、ねばつくようなにおいとは違う、もっと軽い、先の透けるような、 ――清廉な、風の、におい。 知ったにおいだと思って記憶を探れば、それはの風のにおいだった。 もちろんはこの場にはいない。 佐助とはすれ違いで今頃は幸村とともに甲斐へ戻っている頃合いだ。 ふたりのことは、甚八から逐一報告を受けている。なんだか最近はあいつ単に出歯亀してンじゃねぇのかとか思ったが、元をたどればそもそも幸村とのことはどんな些細なことでも報告するようにと命じたのは自分だ。 佐助自身はもう、半年近く、ふたりの顔を見ていない。 きっと最後に見たときからは見違えるような顔つきをしていることだろう。 ようやく旦那も、一人前になってきたってことだ。 そう思って、――気配の動きに改めて息を殺す。 眼下に、人影が現れた。 船一掃を丸ごとひっくり返してこの大船への橋渡しをするような大規模な忍術を使ってまでここに忍んだ目的は、この戦の黒幕たちの意図を把握すること。 乱れ始めた世において、幸村が正しく道筋を判断するための、その材料になるはずである。 信玄の跡目は、すでにあの四男に決まっている。しかし戦になれば、大将を任せられるのは幸村だと、信玄は常日頃から口にしていた。 幸村は、武田家家中でも、どちらかといえば信玄の信頼が厚かった老将たちから高く評価されている。多くが、信玄が「我が目」と称した幸村の父、真田昌幸の活躍を知る者たちで、生き写しのような幸村へ称賛の声を送る手合いは多い。だが、たかが外様の次男坊があれほどまでに重用されてきたことをよしとはしない武将とて、それなりには存在しているのを忍隊は把握している。 家督を継いだ当主と、戦で力を振るう総大将の二頭体制は、きっと均衡を崩す。それがわからぬ信玄ではなかろうにと、佐助は思う。甲斐の虎の眼を狂わせたのは、結局は幸村への、あるいは父・昌幸への、執着なのだろう。 「お館様」という大きな指針を喪う幸村は、それでも己の足で立って、国を背負って全てに立ち向かわなければならない。 ――ここから先は、どの一手も誤ることが許されない。 すべては、この日ノ本中に武田菱の御旗をたてるため。その六文銭が、誇らしげに掲げられる世のため。 幸村が、その志を全うして生きるため。 ・・・・・・久々に、忍びらしいお仕事だ。 内心でそう、軽口をたたく。 もとより表に立つつもりなど、なかったというのに。 炊事洗濯裁縫その他なんでもやったし、天狐仮面と持て囃されたこともあった。 笑って、呆れて、説教して、また笑って。 あのどこまでも奔放かつ熱い主人と、腹黒かつ熱い主君。 そして最近もうひとり増えた、手のかかる難儀な御仁は、それでも幸村にとってかけがえのない女性(ひと)となった。 ずいぶんと、――良い夢を、見せてもらった。 もう、遊びは、終わりだ。 闇色の布の下、佐助の口元から、笑みが消える。 猿飛佐助は、忍びである。 血で血を洗う修羅の道を直(ひた)走る、ただ一把の草である。 手指から頭からこころから、温度が無くなっていく、感覚。 さァ。 ここからが、忍びの本領発揮だ。 眼を細めた、その瞬間。 「・・・・・・客か。許せ、茶菓子は残っておらなんだ」 一瞬、耳を疑った。 くぐもったような、わずかに枯れたような声だ。佐助の位置から見下ろせる側に腰を下ろした男が、その声に反応してこちらを向く。 あの顔は知っている。翠の色の鎧兜と装束。毛利元就だ。 ――バレた。 そう判断して、即時に次の行動に移る。 気配は完全に断っていたはずだし、見破られない自信はあったのだが、事実として気取られたなら致し方ない。 梁を蹴って、佐助は下へ降りる。音もなく着地するそのころには、先ほどまでの黒装束からいつもの暗緑色の忍装束へと変化を遂げている。 鼻までを覆っていた布も消え失せて、その口元には薄い笑みが宿る。 「面白そうな話だね、俺様も混ぜてくんない?」 毛利元就が、不快げに眉をひそめた。その手に音もなく、輪刀が現れる。 元より忍びのこの身は人ではないが、それを差し引いても、まるで小さな虫でも見るかのような眼だ。煩わしいとばかりに細められたその双眸に、佐助はどこか安心感すら覚える。いかに能面のごとき顔立ちであっても、感情が見えるなら相手取るのも容易いことだ。今の視線だけで毛利元就の、己以外の人間を捨て駒呼ばわりするその性格が見て取れた。 問題は、それよりも。 「やれ、毛利よ。そう無下にするな」 佐助の存在を見破った、この男。 大抵のモノは見慣れている佐助の眼にも、それは「異形」と映った。 輿に胡坐をかいて座っている、顔はおろか指の先まで包帯で覆った身体。その包帯の隙間から、爛と光る眼がぎょろりと佐助を見据える。 この場では大物の密談が行われると、報告を受けている。状況から考えて、毛利元就ではないこの男は消去法で石田軍の参謀、「大谷吉継」である、はずだ。 それがわかっても、佐助の本能が告げる。 なんだ、コレは。 「その暁の色の髪、それにここまで誰にも悟られずに入り込んだ腕。ぬしのことはよぅく知っておるぞ、虎の影よ」 虎という言葉にだろう、毛利元就がその柳眉を持ち上げる。 「・・・・・・武田の」 佐助は口角を上げて、笑みを顔に張り付ける。 「どうも本気の戦に見えないからさ、裏があるなら見たくなるのが性分でね。こうして両軍の大将が膝を突き合わせる場に遭遇できたし?」 「・・・・・・ヒヒ、なかなかよく滑る舌よ。なに、たいしたことではない、われと毛利の手繋ぎよ」 引きつるような笑い声を発して、大谷吉継の座る輿が、ふわりと持ち上がる。 その背後に一つ一つが子どもの頭ほどある珠が八つ浮かび上がるのを目の当たりにすれば、もはやこれが人であるとは思えなかった。物の怪か妖(あやかし)の類と言われた方がまだ納得がいく。 毛利元就が輪刀を構えながら、吐き捨てるように言う。 「大谷、貴様密約という言葉の意味を知らぬのか」 「まァ落ち着け、知られたからには取り込むがよかろ」 その声がくぐもっているように聞こえたのは、口までを包帯で覆っているからだと気付く。幼子をあやすかのような、笑み交じりの声色。それなのに感じるのはただすら昏い、闇の気配。 ――これはまた、ずいぶんとえげつないのが現れたもんだ。 頭の隅で考えながら、佐助は両の腕に大手裏剣を現出させる。 それと同時。 輪刀の刃が閃き、不可思議な力で動く珠が佐助に殺到した。 |
20121119 シロ@シロソラ |
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