第九章 第九話 |
窓から入り込んできた鴉が、例によって佐助の差し出した手に止まることなく文へと姿を変えた。 今ばかりは軽口のひとつもなく、佐助は無言でそれを広げて中身に眼を走らせる。 内容を確認して、一息。 「――っていうわけで、毛利の要塞は武田(ウチ)でなんとかしましたよ」 文から視線を上げて見つめる先、腰を下ろしているのは豊臣軍の軍師だ。 「毛利元就を殺りそこねたそっちの『名軍師』の尻拭いをウチでやってあげたんだから、借りは返してくれるだろ?」 小田原城、三の丸の一室。 外の剣戟と怒号が、ここまで届いてくる。豊臣軍の城攻めが始まっているのだ。 「・・・・・・ああ、お前さんの話に乗ろう。というか、もう兵たちには下達済だ。お前さんの言うとおり、深追いするなと」 吐息交じりのその声に、佐助はにいと口角を上げる。 「さっすが黒田の旦那」 「何とでも言え。どっちにしろ、これ以上の犠牲は無意味だと思ってたところだ」 「へえ。アンタ豊臣でいじめられない?」 「・・・・・・余計なお世話だ」 不機嫌そうにそう言って顔を背ける様を見て、ずいぶんと人間臭い男だと思った。 太閤秀吉の参謀・竹中半兵衛に負けず劣らずの慧眼を持っているのに、これではいつか足元をすくわれるんじゃないかなどと頭の隅で心配してみる。 まあ足元をすくわれようが踏み外そうが、事が露見してどこぞに幽閉されようが、武田に害がないのなら佐助の知ったことではないが。 人好きのする笑みを口元に張り付かせて、佐助は立ち上がると窓の外を眺める。 ちなみに仮にも一軍の軍師を相手に傲岸不遜な態度で接しているのは、なめられてはいけないと初めは意図的にやっていたのだが、だんだん板についてきたのはこの軍師の態度によるものも大きいと思う。なんだかおちょくりたくなるのだ。 「それで?本陣、太閤殿下は石垣山だっけ。城攻め丸ごと任されてるなんて、『黒田殿』は信用されてるんだねぇ」 「手並みを見られてるだけだろう」 皮肉っぽく言えば、冷静な声が返ってくる。そう、この男は馬鹿ではない。 「で、乱入してくる伊達軍のお世話は」 「三成が任されている」 「石田三成、ねぇ」 豊臣秀吉の左腕と、聞いている。まだ実際に見たことはないが、報告によればあの秀吉に大層心酔しているらしい。 主君への心酔と聞けば思い浮かぶのは己の主人・幸村だが、彼といい勝負だという報告があった。よほどの熱血なのだろうか。 何にしろ、あの独眼竜をどうにかしてくれるんなら誰でもいい。 だいたい豊臣の伏兵戦術に踊らされて一斉に挙兵した周辺国との戦で、今度こそ竜の命運も尽きたかと思っていたのに。戦場への乱入は伊達軍のお家芸とはいえ、奥州再統一を果たしてわざわざ小田原征伐にちょっかい出しに来るあたり、あの独眼竜の悪運の強さは折り紙つきだ。 「それにしても・・・・・・なんかキナ臭いね」 わざとらしく鼻を鳴らすような仕草をしながら、佐助は眉をひそめた。 「な?小生はちゃんとお前さんの言うとおり、」 軍師が慌てたように腰を上げかけたのを見て、眉を下げてぱたぱたと掌を振るう。 「やだな、黒田の旦那を疑ってるわけじゃないさ。アンタには感謝してんのよ?わざわざコッチのお誘いに乗ってくれてさ」 「・・・・・・ほとんど脅迫だったくせによく言う」 「あは。いや正直な話、俺様アンタみたいな人は嫌いじゃないから、安心して。――そうじゃなくて、なんかね。『場』の空気が、ひりついてる。なんかあったかも。アンタそろそろ自分のとこ帰んな」 「ああそうさせてもらう、長々とこんなとこにいたら誰に見つかるか」 きょろきょろと周囲を窺うように顔を動かしてから、軍師は立ち上がった。小心者ではないはずだが、こういう動作のひとつひとつがやはり人間くさいのだ。 何やら毒気が抜かれたような気分になった佐助はへらりと笑って指示を出す。 「じゃ、鎌之助、案内宜しく」 「うっす」 豊臣軍の具足姿の鎌之助が現れて、軍師を先導して行った。 ひとり残った佐助は、窓の外へと視線を戻す。 とりあえず、この場はこれで収まる。 小田原に駐屯している武田軍はすでに撤退を始めているし、あの軍師の指揮下の豊臣軍はそれを追わずに戦ごっこを続けてくれている。 大筒や鉄砲隊の姿も見えるが、実際に火薬は使われていないようだった。豊臣軍としても、関東の要になるこの城をできるかぎりは無傷で手に入れたいはずだ。 今は戦を避け、被害を出したくない武田軍と、同じく被害を最小限に小田原城を手に入れたい豊臣軍――あの軍師の利害は一致した。 武田にとっては、理想的な幕引きだ。 それに。 甚八からの報告書をもう一度見下ろす。 「・・・・・・やるじゃん、旦那」 「なるほど、長がそういう顔をしているから天変地異が起こったわけですね、ええわかりますまったく人騒がせな」 場違いなほどのんびりとした声に、佐助は思わず報告書を握りつぶしそうになった。 「何、才蔵」 どんな顔していたのかと思いながら平静を装って、現れた忍びに問う。 そこで膝をつく才蔵が、声の調子を落とした。 「――豊臣軍で、謀反あり」 「は?」 今度こそ、佐助の顔から表情が消える。 才蔵はあくまで穏やかな声色のまま続ける。 「徳川家康が、豊臣秀吉を、討ち取りました」 「・・・・・・」 さすがに、言葉を失った。 佐助は何度か瞬きをし、大きなため息を吐く。 「やるならもうちょい早くやってくれたら、こんなまどろっこしいことしないで済んだんじゃないの」 あのくそタヌキ。 再び窓の外へと視線を投げて、佐助は頬杖をついた。 「天下、天下と、本当にどいつも揃って馬鹿だねぇ」 その日は、幸村たちが救った村の傍で野営することになった。 宿や寺のあるような所ではなかったので村の外れに陣幕を張ることになったが、民たちから感謝の気持ちだと酒や米などの食料を差し出されたのでありがたく頂戴することにし、兵たちは傷の手当をしたり、祝杯をあげたり、思い思いに過ごしている。 陽は暮れ、月が昇っている。 「しかし、殿の大喝には恐れ入り申した!」 「確かに!お若いながらなかなかの肝の据わりよう、拙者も御見それしましたぞ!」 「・・・・・・そのように、お褒め頂くほどのものではございませぬ」 武田の将兵たちに囲まれて、酒を勧められたりしているの顔は、完璧なまでの無表情。 実はこの無表情も、が浮かべる立派な表情のひとつなのだということを、少し離れた場所からそれを眺めている幸村は知っている。 あれはきっと、困っているのだ。 思えば甲斐を旅立ってからこっち、この武田の行軍において、が甚八以外の者と話しているのを見たことがなかった。厳島で倒れた小山田信茂あたりは、自分との会話の中で二・三言言葉を交わしたことがあったと記憶しているが、幸村を除いた状態で武田の将兵たちと会話をするのはこれが初めてだろう。 例えば島津や武蔵は、今回は彼らの協力を取り付けなければならないという目的があったから、は比較的進んで彼らに話しかけていた。そういう明確な目的がなければ、他人と歓談をするということはまだには敷居の高いことのようである。 武田の将兵たちも、これまで進んでに話しかけるようなことはなかった。もともと面識もなかったうえに、はあのとおり初対面の人間には少し取りつきにくい性格だ。 それが、今日の戦で変わったようだ。 「俺も聞きたかったぞ」 少しばかり恨めし気にそう言って、幸村は傍らの甚八を見た。 「そなたは聞いたのだろう」 「・・・・・・幸村様を、信じろと。皆の眼の色が変わりました」 「頼もしいことだ」 笑み交じりのその言葉に、甚八はわずかに眉を動かした。 それには気が付かない様子で、幸村は笑みを納める。 「しかし、相当無茶をしたのだろう。天の雲を、動かすなど」 実のところ、そのことを理解しているのは本人と甚八、そしてそれを直感のように感じた幸村だけだった。武田の将兵たちは、風のバサラを見慣れていない。日が陰ったことに気が付いた者がいたとしても、それがによるものとは思ってはいないだろう。 「幸村様が仰ることでもないかと」 甚八の、この忍びには珍しく呆れたような声色に幸村は眉を下げる。 「まぁそう言うな。目的は果たせたのだからよかろう?」 そう言ってから、幸村は以前甚八に言われた言葉を思い出した。 「・・・・・・成る程、俺と殿は似ている、か」 何を今更、と心の底では思いながら、甚八は視線をいまだ将兵たちに囲まれているに向ける。 「そろそろ助けた方がいいのでは」 幸村が「そうだな」と答えてそちらへ歩いて行く。 その背を眺めながら、甚八は息を吐いていた。 その口元に、小さな笑みを浮かべて。 幸村は将兵たちに労いの言葉をかけ、を陣幕の外まで連れ出していた。 「幸村殿、」 右手を引かれているが、狼狽えたような声を上げる。 陣幕の近くには川が流れていて、その土手まで来て幸村は立ち止まった。 を振り返る。 満天の星空の下、陣幕の中ほどとまではいかないが、月明かりで互いの顔は見ることができた。 「――手が、震えておられるな」 「!」 が反射的に手を引こうとするのを、幸村は握った手を捕らえたまま見下ろした。 「すまぬ、もう少し早く声をかければよかったか。あの者たちが殿と親しく話をしているのを初めて見たので、そなたが打ち解けるきっかけになればと思うたのだが」 ぴくりと、握ったの手が反応した。 「・・・・・・違うんだ、これは」 言葉を選ぶ、の声。 「その、ここに着いたときからずっとで。武者震いというか、」 暗がりの中でも、が視線を少し泳がせたのがわかった。 「・・・・・・戦の間は、もう大丈夫だったんだ。だが終わって、落ち着いたら、」 「恐ろしさが戻ってきたのでござるか」 静かな声でそう問うと、はゆっくりと頷いた。 「・・・・・・もう、大丈夫だと、思ったんだが」 「そのように簡単にはいかぬだろう」 幸村は言いながら、握ったの右手を撫でる。 「殿が戦うのだと決めたのならば、某はもうそれについては何も言わぬ。ただ、苦しいと思うことがあるのなら、どうかこの幸村を頼ってくれ」 右手に感じるあたたかさを感じながら、は眉を下げる。 「貴方はよくよく過保護だな」 「そうだろうか?某としては当然と思うのだが」 そういうところが過保護なのだと、これはこころの中でつぶやく。 撫でているの右手を見下ろしていた幸村が、その動きを止める。 震えの収まったの、右の掌に巻かれた、包帯。 その手を眼の近くまで持ち上げる。 「幸村殿?」 「・・・・・・殿、この包帯、まさか替えておらぬのか」 「は、――ああ、そういえば。もう出血は止まっているから」 問題はないだろうと言うに、しかし幸村は眉を動かす。 「しかし、これはその血が止まる前に巻いたものをずっと使われているだろう!傷口は清潔にせねば悪化することもあるのだぞ」 わずかに怒気を含んだその言葉に、が瞬きをした。 なぜ幸村が、知っているのか。 この包帯が、初めに巻かれた時からずっと替えていないことを。 ――そうか。そうだったのか。 「・・・・・・貴方だったのか」 「え?」 つぶやくようなの声に顔を上げた幸村の、その双眸をまっすぐと見つめる。 「この包帯。初めに巻いてくれたのは、貴方だったのか」 の言葉に幸村は一度言葉を探すように視線を動かした。 「・・・・・・その。薩摩に着いたあの日、島津殿の屋敷の方にこの傷のことを教えられて、某が手当をいたした、・・・・・・すまぬ」 「なぜ謝るのだ」 「その、勝手に。殿に触れた、ゆえ」 は驚いたように眼を見張ってから、ふと口元を緩めた。 「貴方が謝るようなことは何もない。この包帯を巻いていると、なぜだか安心するのだ。あたたかくて。その証に、もう無駄に掌に傷を作ってはおらぬ。刀を握るときも、風を繰るときも、いつもこの包帯を感じていたのだが、――そうか、貴方だったのか」 の小さな笑顔を惹きつけられるように見つめて、そして幸村は我に返った。 暗がりでからは良く見えなかったが、頬がわずかに朱に染まっている。 「と、とにかく。包帯が必要なら、新しいものをまた某が巻くゆえ、取り替えようぞ。ああ、こんなに汚れているではないか、確か甚八が包帯を持っているはずだから、」 まくしたてるようににそう言って幸村は陣幕に戻ろうとして、 その手をが引いた。 「殿?」 幸村がこちらを振り向く。 やっと少し、理解できたような気がする。 自分が幸村へ向ける想いと、幸村が自分へ向けてくれる想い。 幸村をずっと過保護だと思っていたのだが、それは違うのだとやっとわかった。 幸村は、自分を大切に思ってくれているのだ。 そしてそれは、にとっても同じことで。 どちらかがどちらかを、一方的に守るのではなく。 互いを尊重して、信じて、手を取りあって、支えあって、歩いて行く。 それが、自分と、幸村の、関係だ。 ああ、やはり。 貴方から、離れたくない。 貴方の、隣で生きていきたい。 これからも、ずっと。 「殿、いかがされた」 そう言ってこちらを見つめる、その幸村の穏やかな顔を見て、は、決める。 ――「」を、捨てよう。 なに、たいしたことではない。 おなごの身でも、武人として戦うことは可能だ。今までと、なんら変わりはしない。 変わるのは、この自分の、こころの有りよう。 「・・・・・・、という」 幸村の、鳶色の双眸を、まっすぐと見つめる。 「相模の国の、風使いの一族。清一郎和重の、ひとり娘の名だ」 幸村が、眼を見開く。 そう、これが、 「――わたしの、名だ」 幸村はその言葉の意味を咀嚼するように一度口を噤んだ。 降るような星空の下。 幾分涼しく感じられるようになった夜風が、二人の間を吹き抜けていく。 「・・・・・・」 幸村が、ゆっくりと口を開く。 「そうか、では改めて言おう、」 こちらに向き直って、幸村がこちらを見つめる。 その双眸を、見つめ返す。 「この幸村の、妻になってくれ」 わからないことも、不安も、山ほどある。 だが迷いは、ない。 「ああ、不束者だが、どうぞよろしくお願いしまする」 「ッ」 握ったままだった手が引かれて、抱きしめられる。 「い、痛、幸村殿、」 「すまぬ、しばし耐えてくれ。力の加減が効かぬ」 返ってきた答えに、言葉を失う。 耐えろとは。おなごの身体を何だと思っているのだ。 とはいえ、自分は半ば男のようなものだ。身体も、一般的な女性に比べれば、頑丈にできているから、耐えること自体は何ら難しくはない。 まったく仕方のないことだ。そう思えば、なんだかそれが愛おしいようにも思えてきた。 幸村の胸元で、先ほどぶつけて痛かった顔を動かして、苦しくない位置に落ち着ける。 その分またぎゅうと抱きしめられたが、今度は何も言わない。 背に両腕を回せば、幸村の髪が指先をくすぐる。 「、。そなたのような者を迎えられる俺は、果報者だ」 連呼されれば、それが自分の名であったと、身体が思い出すような感覚が湧き起こった。 幸村の腕の中は暖かい。 もう、臆することなく、ここにいていいのだと。 そう思って、 ――は、笑った。 |
20121101 シロ@シロソラ |
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