第九章 第四話 |
東の空が白み始めるころ、島津義弘居館の街道に面した北門には旅装を整えた幸村たち武田軍と、島津からの命を受けて武田軍に随行することとなった薩摩の兵たちが集まっている。 幸村とは、島津に挨拶をしていた。島津の隣には、何やら不機嫌そうな顔つきの武蔵が両腕を頭の後ろで組んで立っている。 「貴方には、稽古をつけてもらおうと思っていたのに時間が無くなってしまったな」 そう言って、はわずかに眉を下げて武蔵を見た。 武蔵は「けっ」と悪態をついて、を睨む。 「いンだよ、おれさまは強い奴をぶっ倒すために旅してるんだ、じっちゃんを倒したら今度はそっちに行ってやらァ」 「そうか、ではそれまでにわたしも腕を磨いておかねばならないな」 小さく笑ってそう言うをもう一度睨みつけてから、武蔵はその視線を幸村へと動かした。 「おめぇをタコ殴りにしに行ってやるよ、待ってろよな!」 「うむ、よろしくお頼み申す、武蔵殿!」 正面から笑ってそう答えられて、武蔵は毒気が抜かれたように眼を見張ってから、もう一度悪態をついてそっぽを向いた。 この反応はなんだか微笑ましいとは思う。 以前の自分のようだ。 あの頃は、幸村にこうやって笑われると、どうしていいのかわからなかったのだ。 幸村と出会ったのは秋の終わりだった。もう夏が過ぎようとしていることを考えると、もうすぐ一年たつのだと気付く。 包帯を巻いたままにしている右の掌を見下ろす。 あの頃から、少しは。 成長できているのだろうか。 「ぐはは、ならばオイはさっさと養生して武蔵と戦わねばならん、後が詰まっておるけんのォ」 三人を笑いながら見つめていた島津は豪快に笑い飛ばしてから、両手を伸ばした。 その大きな両腕がぬうと伸びて、幸村との頭をそれぞれがしと掴む。 驚いたように身をすくめる二人に構わず、その大きな掌が、わしわしと二人の頭を撫でた。 「孫を手放すようで寂しいがそうも言うてられんの。まぁまたなんぞあったらいつでも来んしゃい、酒ならいつでも用意すっど」 「って酒かよ!控えろって言ってるだろじっちゃん!!」 眦を釣り上げた武蔵の声を聞きながら、は己の頭をすっかり掴んでいる大きく熱い掌の重みを感じていた。 甲斐を発ったあの日、佐助にも頭を撫でられた。 彼の忍びを(本人は不本意だろうが)仮に母だとするのなら、己の祖父を知らないにとって、島津は父のように思える。 亡き父の記憶はもうあまりないが、このように頭を撫でてもらったことがあった。 もちろん島津ほどの大男ではなかったと記憶しているが、だが頭に感じる掌のあたたかさは同じなのだなと考える。 「ありがとうございまする!此度のご恩、某も決して忘れませぬ、島津どのおおお!!」 唐突に大声を上げた傍らの幸村に驚きながら、も笑って、島津に頭を下げた。 ぎらつく陽の光が照りつける大坂城本丸の回廊を歩いていた徳川家康は、近づいてくる気配に気づいて眉を下げた。 ずいぶんとご立腹のようだ、と思ったのと、背後から鋭い声が飛んできたのが同時だった。 「家康貴様どういうつもりだ!」 「なんだ、顔を合わせるのは久しぶりだというのにずいぶんな挨拶じゃないか、三成」 振り返りながら言うと、大股でこちらに歩いてきた痩身の男がこちらを睨んだ。 「ああ久しぶりだ、が、貴様秀吉様の兵を与えられながら九州を落とさなかったらしいな」 まるで、抜身の刀のような声だ。 「ああ、薩摩のことなら、あそこには武田軍もいたんだ、あれ以上の交戦はそれこそ秀吉殿の兵を無駄に失うことになると判断した」 「・・・・・・武田といえば、甲斐攻めもあと一歩のところで退いてきたと聞いたぞ」 「武田軍にはもう戦意がなかった。あれ以上の戦は無用だったんだ」 宥めるようにそう言ったが、逆効果だったらしい。喝のような声が飛ぶ。 「驕るな家康ッ!貴様の意見など聞いてはいない、判断をするのは全て秀吉様と半兵衛様だ!」 「もちろんそれは、わかっているさ」 苦笑した家康の、その返事を聞いて、三成はぴくりと眉を動かした。 「・・・・・・貴様、何を考えている?」 その射抜くような視線を、家康は正面から受け止める。 「ワシが考えていることは、いつだって一刻も早くこの天下を統一することだけだ」 「当たり前だ」 聞いておきながら、それが当然だというように三成は言う。 「全ては秀吉様の統べる天下のため、私と貴様はそのためにいるのだということを忘れるな」 その、有無を言わさぬ口調に、家康はふと笑った。 「・・・・・・何がおかしい」 「いや、薩摩でな、ちょっと変わった奴を見かけたんだが、どこかで見たような気がすると思ったら三成、お前に似ているんだ」 その、鋭い刃のような気と、一途で頑固そうなところが。 あの薩摩の浜辺で対峙した若武者を思い浮かべた家康に、三成が訝しげな声で問う。 「まさかその者が原因で兵を退いたと言うのではあるまいな」 「それは違うさ」 ただ、改めて思ったのだ。 あの者のように、戦場で苦しむ者はたくさんいる。彼らのためにも、早く戦の世を終わらせねばならない。 三成は興味がないとばかりに鼻から息を吐いて、踵を返した。 「軍議だ、貴様も来い。いよいよ小田原を攻めるぞ」 「え!?」 家康が、弾かれたように顔を上げる。 「何故だ、武田も上杉も今はもう戦をする気配はない、奥州も伊達軍は周辺国との戦で満身創痍だろう!今更関東平定などしなくても、同盟を組めば、」 「言っただろう、貴様の考えなど聞いていない。判断するのは貴様ではない」 行くぞ、と言い捨てて、三成は回廊を歩いて行く。 その背姿を、家康はどこか茫然と見つめて、そしてぎりと拳を握った。 蝉時雨の降り注ぐ躑躅ヶ崎館、その奥向きに続く回廊を、諏訪四郎は歩いている。 原則として、奥向きに出入りが叶う男は主君たる武田信玄ただ一人なのだが、四郎の姿を咎める者はない。 四郎の姿を見る者がないからだ。 侍女の姿が、ない。 先ほど通ってきた表の方は常と変らぬ様子で、女中や小姓たちもそれぞれ己の仕事に励んでいるようだったが、この奥向きに近づくとぱたりと人の気配が途絶える。 かつて信玄の奥方たちや姫君たちが暮らし、にぎやかだった奥向きは、しかし姫君たちがそれぞれ嫁いで行き、奥方たちが亡くなってからはひっそりとしたものだった。 それでもこのところは、嫁ぎ先から戻ってきた姫君が、生来の明るさをもって相応ににぎやかに過ごしていると聞いていたのだったが。 案内はなかったが、四郎はつと足を止めた。障子を引く侍女の姿ももちろんなく、自分で障子に手をかける。 音をたてぬように努めたつもりだったが、四郎がその室に足を踏み入れたと同時に室内に張られた御簾の向こうから声がした。 「どなた?」 細い声だ。記憶していたものよりも、ずっと。 四郎は足を進める。ぎ、と床板が鳴った。御簾の傍に、腰を下ろす。 「・・・・・・御気分は如何か、姉上」 虫除けのためなのか、四方を囲むように張られた御簾の向こう、身じろぐような気配。 「・・・・・・まあ。四郎なの」 「お久しゅうございます」 頭を下げると、中の人物笑ったようだった。 「ねぇ、御簾を上げてくれない?ここからじゃ何も見えないの」 「は、」 言われた通り、御簾を上げる。 現れたのは褥に横たわる、黄梅院の姿。痩せた頬、紙のように白い顔。あまりの生気のなさにどきりとする。ゆるりと持ち上がった瞼に少しだけ安堵した。長い睫毛に縁取られた瞼の下、眼だけが動いてこちらを見る。 「ほんとに久しぶり。私が相模に嫁いで以来・・・・・・もう十五年ぶり?かしら?」 「はい」 うなずく四郎を見上げて、黄梅院はくすくすと笑う。 「あんな泣き虫だった四郎が、ずいぶん立派になっちゃって」 「・・・・・・子どものころの話です」 「まあ、そうやって拗ねた顔は昔と全然変わらないわね」 「・・・・・・」 仏頂面で口を噤んだ四郎に、黄梅院は笑いを納めて言う。 「あなたが、ここにいるということは、・・・・・・お父様はいよいよ、なのね」 「薬師の見立てではもって三月。・・・・・・私は期日を前倒して、こちらに参りました」 「あら、そうなの」 「・・・・・・家族が、誰も看取らぬなど、寂しいでしょう」 ぽつりと、四郎はそう言った。 「四郎」という名の示すとおり、兄は三人いたが、他界したり出家したりしてもうここには誰もいない。嫁いだ妹たちも同様。 そして病床の信玄は、黄梅院を見舞うこともできない。 「・・・・・・しかも、なんですかここは。姉上がいらっしゃるというのに、侍女の一人もいないなんて」 「暇を、出したわ。あとは、表の方に出てもらったり、して」 時折口から息を吐きながら、黄梅院は言う。 「だって、気味が悪いでしょう。似たような時期に、親子そろって肺の病だなんて」 「伝染るものではないと、聞いております」 「そうは思わないひとだって、いるのよ」 「愚かなことです」 切り捨てるようにそう言った四郎を、黄梅院は見上げる。その目元が、緩む。 「・・・・・・私たちにはたくさん、たくさん兄弟がいたけれど・・・・・・、最期に来てくれたのがあなたでよかったわ、四郎」 四郎はあくまで、表情を変えなかった。 ただわずかに、膝の上で作った拳に力を籠めた。 これだけ会話をしても、黄梅院の顔に血の気が差す気配はない。 もう、本当に時間がないのだと、悟る。 「何か。・・・・・・言い残すことは、ありますか」 四郎の問いに、黄梅院はゆっくりと瞬きをした。 「そう、ねぇ・・・・・・、あのね、四郎。こっちに来てから、私、あなたによく似た子の面倒を見てたんだけど」 「・・・・・・この四郎のように泣き虫でしたか」 皮肉のように言うと、黄梅院は弱弱しく首を振った。 「いいえ、あなたみたいに、・・・・・・泣くことを、我慢しちゃう子よ」 その言葉に、四郎はぴくりと眉を動かす。 「今は、旅に出てて・・・・・・、わたしはもう会えないから、きっと帰ってきたら悲しませるわ。それだけが、思い残り・・・・・・かしら」 そこまで言って、黄梅院はゆるゆると瞼を降ろした。 すう、と吐息の音が聞こえる。 このまま眠ってしまったら。 二度と会話をすることが叶わないのではないか。 とにかく何か。話してほしい。 そう思って、四郎は会話を繋げる。 「・・・・・・どういう、者なのです」 聞くと、黄梅院は眼を閉じたまま、口を開いた。まるで遠い昔、まだ妹たちも生まれていなかった頃、昔語りを読み聞かせてくれたあの頃のような声色だ。 夢を見ているような。 ――そうね。 あなたみたいに、頑固で融通の効かない子なの。全部ひとりで背負い込もうとしてね。初めは見てられなかったんだけど。 ・・・・・・けど? あの子、恋をしたの。そうなったらいいなとは思ってたけど、本当にそうなるとは思わなかったから、ちょっと驚いちゃった。四郎あなた、恋をしたことはあって? ・・・・・・恋・・・・・・、ですか。妻は、おりますが。 ね、私も夫はいたけれど、恋心を抱いたのかどうかはわからないの。でも恋って、素晴らしいと思ったわ、あなたみたいにずっと気難しい顔をしてたあの子が、みるみるうちに笑顔を浮かべるようになって。 ・・・・・・先ほどからあなたみたいに、と仰ってるのはあてつけか何かですか。 あら愛情表現よ?・・・・・・本当に、恋の力はすごいのよ。そういう恋を、してみたかった――なんて、ね。私のほうが一回りも年上なのに、私はあの子のことが羨ましかった、のかしら―― 「・・・・・・姉上?」 いつの間にか、蝉時雨は蜩の声に変わっている。 夕日が、室内にも入って来ていた。 「姉上?」 横たわる黄梅院は、瞼を降ろしたまま、眠っているようにも見える。 耳に聞こえるのは、虫の鳴き声と、 己の呼吸の、音だけ。 「・・・・・・姉上・・・・・・」 四郎の声は、ただ室内を通り抜ける風にさらわれていく。 しばらくの間、瞬きすらせずに四郎は黄梅院を見つめ、そして静かに吐息した。 「――誰か」 「はいよ」 背後に、忍びが現れる。 「・・・・・・誰かと呼んでお前が来るか」 あからさまな嫌悪をむき出しにして言うが、佐助は何も言わなかった。 その様子に、四郎はいらいらと息を吐いてから、もはや佐助の方は見もせずに言った。 「姉上の最期に立ち会えた、お前には礼を言う」 「やだな、やめてくださいよそんなツンデレ」 佐助の軽口を聞き流して、四郎は立ち上がった。 「丁重に弔うよう、手配いたせ」 「御意」 今度は真面目に返答をしたその忍びをやはり見ようとはせず、四郎は開けたままにしていた障子から、外へ出て行った。 残された佐助は、今も眠っているようにしか見えない黄梅院へ膝を向ける。 「・・・・・・ったく、残される方の身にもなってくださいよ・・・・・・」 涙は出ない。そんな感情はとっくに無くした。そのはずだ。 「・・・・・・ハ、意外にキッツイわ。アンタのこと、そんなに嫌いじゃなかった、のかな」 がしがしと頭を掻いて、佐助は細く長い息を吐いた。 武田信玄長女、黄梅院、病没。享年、二十七。十二の歳で北条氏政に嫁ぎ、国の摩擦により一方的に離縁された薄倖の姫君の訃報を聞いた信玄は、病床から、菩提寺の建立を指示した。 それは、夏の、暑い日のことだった。 |
たくさんたくさん、お世話になりました。ありがとうございました。 どうか、安らかに。 20121024 シロ@シロソラ |
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