第九章 第三話

「・・・・・・団子は一日ひとつまでと、佐助が言っていたはずだが」
 右手で笠を上げて、は冷めた視線を幸村へ向けた。
 視線の先では何やら上機嫌な幸村が、もはや幾つめであったかも数えるのをやめた団子を咥えている。そもそも歩きながら食べること自体が、褒められたものではない。
「ふぇっふぁくあわむのめふぁふぁいのあ、」
「飲み込んでから言ってくれ」
 もごもごと不明瞭に言う幸村に平坦な声でそう言って、は吐息する。
 不用意に団子を勧めたのが誤りだったかと後悔してももう遅い。結局あの後、甘味の食べ歩きに時間を費やしてしまった。もちろん、東国ではお目にかかれないような菓子の数々に不本意ながらも目を輝かせた自身にも、原因はある。
 の左手をひいたまま、島津義弘邸の門をくぐったところで、漸く幸村は頬張っていた団子を飲み込んだ。
「せっかくあ奴の眼もないのだから、少しくらいよかろう?」
 その、緩みっぱなしの笑顔を見上げてはもう一度息を吐き、す、と右手を伸ばす。幸村の口元に飛んでいる餡子を指先で掬って、自分の口に運ぶ。
「・・・・・・あまり油断はされない方がいいのでは。どうせその辺のことは、甚八が見ているのだろう」
 指先を舐めながら言う。しかしこれは甘い。おいしいけれど、そう何個も食べられるものではないなと思う。
 幸村が黙ってしまったことに気が付いた。
「幸村殿?」
「・・・・・・」
 見上げると、幸村がこちらを向いたまま固まっている。
 は小首をかしげる。
「何か?」
「い、いや!なんでも」
 慌てたようにそう言って、幸村が顔を背けた。から見える限りでは、その耳の先が赤い。
 一日炎天下の下にいたから、陽に焼けて赤くなっているのかと考える。冷やしたほうがいいのかもしれない。
「――幸村様」
 背後から声がして、は幸村とつないでいた左手を離した。見られてはいけないような、気恥ずかしいような気がしたからだ。声の主が誰なのかは想像がついていて、今更遅い行動であろうということは薄々わかってはいたのだが。
 振り返ると予想通り、そこには膝をついた甚八がいる。
「お耳に入れたいことが」
「申せ」
 存外冷静な声が返ってきて、は幸村に視線を戻す。
 甚八を見下ろす幸村の顔は、先ほどまでとは違う。鋭さの感じられるその表情は、まさに戦場を駆ける武将のそれだ。
 近頃の幸村は、その顔に精悍さを増したような気がすると、感じ入るようにその横顔を見つめていたは、
「は、中国に放っている斥候からの報告なのですが、――」
 甚八の報告に眉を動かした。







 その夜、館の南の海岸に、薩摩の兵たちと幸村たち武田軍が顔を合わせていた。
 島津の計らいで酒が振る舞われており、ちょっとした宴の様相を成している。
「――成る程のお」
 木の間に張った網に腰掛けた島津が、神妙な顔つきでそう言って酒をあおった。
 焚火を囲むように幸村とがその場で腰を下ろしていて、武蔵は釣った魚を兵たちに分け与えたりしている。
 あの少年はなかなか面倒見がいいらしい。
「オイは見ちゃおらんが、長曾我部どんの要塞ちゅうんはそげに大きいもんか」
「は、海に浮かぶ様子はまさに島のごとく、水軍の船が芥子粒のように小さく見え申した」
 幸村の返答に、島津はうんと唸って腕を組む。
「それを、毛利どんが・・・・・・。確かに、ええ気はせんのォ」
 毛利軍が、新たな要塞を手に入れた。それが甚八の報告であった。
 曰く、毛利元就は、厳島の合戦で落とした長曾我部軍の要塞「富嶽」の残骸を海底から引き揚げ、独自に修理を行っているとのこと。捕虜とした長曾我部側の技術者たちを酷使して、要塞はすでに組み上がりつつあるという。海陸両用というその要塞には、さらに「富嶽」にはなかった何らかの主砲が備え付けられるという情報もあった。
 「富嶽」の主砲と言えば、一撃で陸の城を粉砕できそうなあの大筒だが、それに勝る何かが造られたというのだ。
 完成間近というその要塞が狙うのは、九州か、それとも。
「毛利どんが豊臣と手を結んだは、そん要塞を手に入れるためだった、ということか」
 顎髭を撫でながら言う島津に、幸村は膝の上の拳を握って絞るように口を開いた。
「・・・・・・しかし、毛利元就殿と長曾我部元親殿は、長年瀬戸内の覇権を争った好敵手と聞いておりまする。相手を討ち果たさんと他国との同盟を結ぶは戦の常道でござろうが、その目的が要塞とは・・・・・・。好敵手ならばこそ、正々堂々と打ち破った後に要塞を手に入れるべきなのでは、――同盟とは、そのような腹の探り合いで結ぶものでは、」
「世の中が、皆おまはんのような性根のまっすぐな者ばかりなら、話はもっと簡単よ。じゃっど、そうは言っておれん。あらゆる手練手管を用いても己が目的を達成するのも、またこの乱世の生き方のひとつ。それをよう、覚えておきんしゃい」
 そう言って笑う島津に、幸村はまだ何か言いたそうにしていたが、言葉を飲み込んだ。はそれを黙って見つめている。
 二人の様子を見つめて、島津はひとつ頷いた。
「・・・・・・おまはんら、毛利どんを止めとくれ」
 幸村とが同時に顔を上げる。
「止める、でござるか」
「おうとも、薩摩の兵からも応援を出そう。数がないとは申したが、そんなことを言うておる場合ではなか。そん要塞が九州に向かってくるならもちろん、あるいは東に攻め入ることもあろう。そうなれば京や大阪、さらに東の国々も乱れることになる」
「しかし、大坂の豊臣軍とは同盟が」
「あらゆる手練手管、と言ったじゃろ。おそらくはその時点で、毛利と豊臣の同盟は手切れとなろう。それに豊臣の軍師はたいそう切れ者と聞いちょる、もしかしたら豊臣の目的がその要塞ちゅうことも考えられるでな」
「そのような・・・・・・」
 茫然としたように幸村はそう言い、しかし我に返ったように一度俯いてから、顔を上げる。
 その双眸ははっきりと、島津を見据えている。
「――わかり申した。確かにあれだけの要塞でござる、止めなければ東国も危うい」
「それでよか。早い方がいいじゃろう、明日朝一番にでも発ちんしゃい」
「は!」
 勢いよく幸村が頭を下げ、がそれに倣う。
 島津はそれを満足げに見つめて、酒を傾けた。
「迷いは、晴れたようだの」
 幸村が、顔を上げる。
「は、島津殿のお言葉、骨身に沁み申した。某はお館様の背を追うあまり、己の戦う理由を見失っておりました。眼に映るすべてを、そしてお館様の統べられる世を守ろうと思うておりましたが、それは違うとわかったのでございます。某がお館様のもとで槍を振るってきたのは、お館様の目指す世が某の目指すものと同じであると信じるがゆえ。背を追うのではなく隣に並んで、目指す世のため戦い抜く所存!」
「うん、それでこそ虎よ。まこと強い芯が通ったな、幸村どん。それに、おまはんも」
 島津の眼が、に向いた。
「今にも死にそうな顔しとったが、ずいぶん顔色もようなった」
「・・・・・・その節は、ご迷惑をおかけし面目もござりませぬ。――わたしも、幸村殿の目指す世が来るまで、ともに戦いまする」
 まっすぐと島津を見つめてそう言うの横顔を、幸村は見た。
殿、しかし」
「人を斬るのは、怖い」
 遮るように言って、は幸村に視線を移す。
「だが、貴方の目指す、望まぬ戦いをしなくていい世のため、今はその痛みも、矛盾も全て受け入れよう。それがこれまで奪ってきた生命と、これから奪う生命への、償いになると、わたしは考えた」
 穏やかな声だ。の瞳の底に光が宿るのを、幸村は見た。
「――もう、迷わない」
 それを聞いて、島津はにいと笑う。
「一個だけ間違っとる、おまはんらはまだまだ迷うたらええんじゃ。なんぞあるたびに悩み、考え、そいで決めていく。そうやって人は成長していくものよ。いっくらでも悩むがよか」
 そこで言葉を切って、島津は二人を見つめる。
「おまはんらの選んだ道はこの乱世に真っ向から挑む、まっこと厳しか道よ」
 は、幸村を見る。同じことを考えていたのか、幸村も同時にこちらに視線を向けた。
 ふたりは頷き合って、そして島津に向き直る。
「一人では無理かもしれませぬ、それでも」
 幸村の言葉を継ぐように、は口を開いた。
「わたしたちは一人ではない。幸村殿がいて、他にもたくさんの仲間がいる」
 ふたりの言葉を聞いて、島津は一度驚いたように眼を見はった後、豪快に笑った。







 手を伸ばせば届きそうだと、満天の星空を見上げながらは思った。
 すでに日は暮れて久しいが、星々が照らすこの砂浜は存外明るい。宴で焚かれている大きな焚火のおかげもあるだろう。
 背後では酒に酔った兵たちが時折大きな声をあげて、盛り上がっている。その中には島津の声もある。武蔵の声も。
 それらを聞き流しながら、瓢箪筒を傾ける。島津から振る舞われたそれは、飲むと甘く、喉が焼けるような、強い酒だ。相模や甲斐のものとはまた違うらしい。
 そういえば、星の様子は東国で見る時とそう変わらないようだ。酒の味や味噌の味もあちらとは違ったし、市で見かけた野菜や果物も見たことがないものがたくさんあった。そんな遠く離れた南国であっても、空は同じということは、この空を甲斐でも見上げている者たちがいるだろうか。
 視界に、幸村の顔が入り込んだ。
「幸村殿」
「そなたは眼を離すとすぐに一人で離れるのだな」
 苦笑のように眉を下げて、幸村が隣に腰を下ろす。
「すまない」
「責めているわけではござらぬ」
 穏やかに言う幸村に、は一度視線を泳がせてから、口を開いた。
「・・・・・・その、人に慣れていないのだ」
 幸村が、こちらを見る。
「貴方も知ってのとおり、わたしは・・・・・・難儀な性格だから。ああやって多くの人たちと話す、というのは、」
 困りきったような様子のをしばらく見つめて、幸村は思う。
 は一人になりたいのだろうか。
 一人の方が落ち着くということだろうか。
「・・・・・・しかし某は殿の隣にいたいのだが」
 まっすぐと言われたその言葉に、ぱちりと瞬きをした。
「貴方はいいのだ。さすがにもう慣れた」
 ひたりと幸村の双眸を見据えて、当然のように答えたのその言葉に、幸村はふ、と笑って腕を伸ばす。
「幸村殿!?」
 が慌てたような声をあげるのを無視して、その身体を抱きしめる。
 もがく身体を離さないように腕に力を入れる。
 言葉では、臆面もなく好意を示してくれるのに、こうして触れると眼に見えて狼狽える様が、
殿は、まことかわゆい」
「はッ!?」
 腕の中から抗議の声があがる。
「離して、幸村殿!皆に見られる、離せ」
 ちらりと背後を振り返る、酔いが回っている面々がこちらを気に駆ける様子はない。
「・・・・・・たとえ見られても、問題はなかろう」
「あるだろう!問題!だって、貴方と、わたしは・・・・・・ッ」
 が「だって」というのを初めて聞いた。
 何だこのかわいい生き物は。
 抱き込んだ頭に頬を摺り寄せようとして、唐突に、腕の中で風が破裂した。
 怪我のないように力は絞られたのだろう、頬をふう、と風が撫でていく。
 その勢いで幸村の腕から抜け出したが、真っ赤な顔のまま、幸村から飛び退く。
 こちらを振り向いてぴたりと立ち止まったの、幸村からの距離は、ちょうど彼女の間合いだ。今のは刀を差していないのだが、どうやらずいぶん慌てているらしい。
「なるほど、そなたにはその手があったのだな」
 さすがにバサラを使われるとは思っていなかった幸村は眉を下げて立ち上がる。
 全身で威嚇するようなその様子すらかわいらしいと思ったが、これを告げるとの機嫌をさらに損ねることになりそうだ。
 幸村の胸中など知らないは無意識に左の腰を手で探り、漸く刀を差していないことを思い出した。いや差していたとしてもこんなところで抜くわけにはいかないのだが。
 ――貴方と、わたしは。
 その後に続く言葉が、には思いつかなかった。
 幸村は自分をすきだと言って、自分も幸村をすきだと言った。だから、あえて名をつけるなら、「想いを通じ合った仲」、になるのだろうか。
 だがそれが、衆目の前で抱きついてもいい理由にはなりはしない。
 なぜならは、「」だ。周りからどう見えようと、元服しての家督を継いだ、男子だ。いや家のことは今はいいのだった。とにかく。
 混乱した頭が空転する。
 とにかく。ふつうの男と女のようにはできないのだ。とにかくそうなのだ。
 が考えていることを悟ったのかどうか。
 幸村が一度息を吐いて、一歩踏み出した。
「ならば、殿。上田に戻ったら、祝言を挙げよう」
「・・・・・・は・・・・・・?」
「正式に夫婦となれば、何の問題もなかろう?」
 が顔色を失った。一呼吸の後に、幸村が自分の方へ踏み出したことに気づいて、一歩後退する。
「ッな、にを、言っているのだ!さては貴方酔っているな!?」
「この幸村、誓って正気でござる。自慢ではござらぬが某は酒には強うござるぞ」
 幸村がさらに一歩前へ進む。
「驚くことはなかろう、某とそなたは想いあう者同士、一緒になるのは至極当然のことでござる」
「当然なはずがあるか、こんなほとんど男みたいな者を、貴方は娶るというのか」
 幸村が進んだ分だけ、は後退する。二人の間にはきっちりの間合いだけの距離が空いたままだ。
「男みたいだろうと何だろうと殿なら構いませぬ。そもそも某は、男か女か以前に殿というひとを好いておりまする」
 の顔が、これ以上ないほど朱に染まる。先ほど武蔵がふるまった、茹蛸のようだ。
「そういう、ものでは、ないだろう武士の婚姻は!わたしの家は、の家もが仕えた北条の家ももうないのを、貴方は知っているはずだ!真田の家のためにはもっと良縁を、」
「ああ、殿はひとつ勘違いをされておられる。某は、真田の家督は継いではござらぬぞ」
 幸村が苦笑して言った、その言葉が一瞬は飲み込めなかった。
「・・・・・・は、え!?だ、上田の城は、」
「確かに上田は某の城でござるが、真田の家督は兄上が継いでおる。兄上は然るべき姫君を娶っているし、だからそなたの思うような心配は要らぬのだ」
「兄上!?」
 初耳だった。
 幸村の口からはもちろん、信玄や、忍びたちの口からも聞いたことがない。
「ッ、で、でも!わたしはこのとおり、男子としてしか生きてこなかった、武家の奥方に必要な素養など何ひとつ、」
「某は、殿にそういった素養を求めるつもりはござらぬが、・・・・・・まぁ、必要であればこれから覚えていけばよかろう。知らぬことは知っていけばいいと、昼間殿も言っておられたとおりだ」
 さらに後ずさろうとして、踵が何かに当たった。浜辺に生えている木の太い幹だった。
 幸村が近づいてくる。
 こんなことが許されるはずがない。
 男子として生きる自分が、殿方に、しかも武家に嫁ぐなど、ありえない。はっきりとした理由がわからないのは、突然幸村がこんなことを言いだしたから混乱しているだけで、きっと落ち着けばいくらでも思いつくはずだ。とにかくありえないし、許されないのだ。
 なんとか幸村を説得しなければ、それだけが頭の中を巡っているは、横に跳ぶなり風を使うなりすれば簡単に逃げられることに気が回らず、ただ背を木の幹に押し付ける。
 何か、なんでもいい、幸村の気がかわるような何か、
「もう、ござらぬか?」
 間合いも何もあったものではなかった、もう手を伸ばせば届くところに幸村が立っている。
「何でも構いませぬ、殿が不安に思われること、何でも言うてくだされ」
 何か何か何か、
「なければ、決まりでござるな」
 星々の光を背負って、幸村が静かに微笑む。
 不覚にも、その顔に、見惚れた。
「・・・・・・ッ」
 言葉が見つからない。
 幸村の腕がこちらに伸びて、抱き寄せられる。
「返事はそうだな、上田に着くまでに聞かせてくだされ」
 頭上から降ってきた、あくまでも穏やかなその言葉に、は混乱したまま、絞り出すように言った。
「・・・・・・知らなかったぞ・・・・・・、貴方がこんなにずるい男だったなど・・・・・・!」
「某も知りませなんだ」
 やはり幸村は暖かい。この腕の中の心地よさを、は覚えつつある。
「某は、殿のことなら、いくらでもずるくなれそうな気がしまする」
 耳朶をくすぐる、幸村の笑みを含んだその声を聞きながら、は今すぐ甲斐にとって返したいと切に思っていた。
 今すぐ戻ってとりあえず佐助に泣きつきたい。

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20121022 シロ@シロソラ
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