第九章 第二話

 館の北門からまっすぐと伸びているのが、北方への街道であり、里の目抜き通りでもある。
 南の港からの距離も近いこともあり、南蛮貿易の栄える肥前のそれとまではいかなくとも、相応の規模の市が開かれていた。
「・・・・・・というか。昨日の今日で、市などたつものなのか」
 日除けのためにと(何しろ薩摩に踏み入って初日で暑気中りしたという前科がある)笠を被ったが、独り言のようにそう言ったのを、こちらは炎天下にその頭を潔く晒している幸村は聞き逃さなかった。
「もともと月に三度、市がたつ日どりは決まっているそうでござる。それに昨日の戦は里にまでは及ばなかったゆえ、民たちにとっては島津殿への感謝の気持ちでもあると、さきほど武蔵殿より聞き申した」
「そうなのか」
 笠の前を手で少し持ち上げて、は眼前に広がる、里人の活気に満ちた市の様子を見つめる。
 幸村は一度自分の右手を見下ろしてから、に視線を向けた。
殿」
 呼ばれて視線を動かせば、幸村がこちらに右手を差し伸べている。
 その手をしばらく見つめてから、は幸村の顔へと視線を上げた。
「・・・・・・何か」
「いや、その。この人だかりでござる、はぐれては敵わぬゆえ、御手を」
 は一度、ゆっくりと瞬きをした。
「・・・・・・貴方の気配を、わたしが読み間違えると思うのか」
 まっすぐと、視線を逸らさぬまま言われたその言葉に、幸村はわずかに驚いたように眼を見張り、そして眉を下げて笑った。
「・・・・・・そうでござった、そなたにはこういう誤魔化しは効かぬのだったな」
「?」
 首を傾げるの視線の先、幸村は独り言のようにそうつぶやくと、
 す、と右腕を動かして、の左手をとった。
「!」
 今度はが驚いたように眉を動かす。
「某が、殿と手を繋ぎたかったのだ」
 よろしいか、と笑顔で問われ、は一瞬遅れてから顔を赤くした。
「・・・・・・貴方の、好きにすればいい」
 視線を遮るように被っている笠を右手で下げながら、しかし幸村の手が捕えた左手は、ゆっくりと、その手を離さぬように指を曲げていく。
 それを見下ろした幸村はつられたようにかすかに頬を赤らめながら破顔した。





 通りの両側で、たくさんの商人たちが品物を広げている。一度踏み入れば客の呼び込みや値切りの声など、威勢の良い喧噪がわっと全身を包むようだった。
「まるで祭りのようでござるなぁ」
 露店に並ぶ商品はどれも見慣れぬものばかりで、きょろきょろと顔を動かしながら幸村は感嘆の声を上げた。
 視界を、まるで洪水のように色が躍っている。
 向かい合う露店と露店の間には日除けのためと思しき色とりどりの布が張られ、今朝獲れたばかりという魚を揃えた商店の軒先には、その新鮮な魚の青光りする色の中にどうやって食べるのか想像もつかないような奇怪な姿も交ざって並んでいる。そもそもあれは魚なのだろうか。同じく今朝収穫したばかりの果実や野菜も、赤や黄色の極彩色で、ときおり日除けの布の間から差し込んだ陽の光を反射してぴかりと光った。
 幸村は、先ほどがら黙ったまま半歩後ろをついてくるを振り返った。
 相変わらず表情の変化は乏しいが、それでも全くないというわけではないことを幸村は知っている。
 わずかな眉の動き、目線、そして口の動きをよく見ていれば、彼女は存外考えていることが表情に出やすいことがわかる。
「このような市には、あまり出られぬか」
 今のの表情を、物珍しいそれと判断して、幸村がそう声をかけると、は心情を読まれたことにかわずかに眼を見張ってから、こくりと頷いた。
「・・・・・・ああ」
 は、とかく喧噪というものが苦手だった。無節操に人の会話が耳に飛び込んでくる様が苦手だったのだ。聞きたくないものも、聞いてしまうような気がして。
 小田原にいたころ、生活に必要なものは基本的に侍女であったはなが手配してくれていたからめったに城下の商店に赴くことはなかったし(それこそ刀を見に行ったときくらいのものではないだろうか)、市がたつ日は決まって屋敷に籠って書に耽っていた。
 それは今も変わらないと思っていたのだが、それでも今日が市に出ることにしたのは他でもない幸村の誘いだったからで、そして実際に出てみたら以前感じていたような嫌悪感が薄れているのは、見慣れぬ商品に興を引かれているのか、それとも横に幸村がいるからなのか。
「上田の市も、負けてはおりませぬ。某美味なる甘味処を存じておるゆえ、戻ったらともに参りましょうぞ」
 そう言われて、は小さく口の端を上げる。
「ああ、楽しみにしていよう」





「――幸村殿、あちらの店を見ても構わないか」
 長く連なる市の、中ほどのところでそう言って、は幸村の手を引いた。
「もちろんでござる」
 の手の引く方向について行くと、そこは小間物屋であった。舶来品であるのか、見たことのない装飾の箱ものや、塗り物、そして眼を引くのは、ずらりと並ぶ櫛や簪である。
 店の前まで来て、するりとが繋いでいた手を離した。
 商品を見るためなら仕方がないのだろうが、幸村には空いてしまった右手が少し寂しく感じられた。
 そして、真剣な様子で商品を見つめているの横顔を見下ろす。
 確かには女性であるのだが、こういうものに興味があるとは知らなかった。
 そもそもが女性の恰好をしているところを幸村は見たことがない。
 ・・・・・・知らないことばかりだ。
 そう思って、自分で自分に苦笑する。
 知らないなら、知りたいなら、これから知っていけばいいのだ。
「おォ坊主、なかなか目の付け所がいいじゃァねぇか」
 店先で煙管の煙を燻らせていた壮年の店主が、を見てにやりと笑った。
 が手にしているのは櫛だ。
 物珍しそうに、はそれを傾けたり日にかざしたりしている。見る角度によって色や模様が変わるのだ。不思議なものだと、幸村もつられて見入る。
「これは、螺鈿(らでん)、か?」
 がそう言って、店主を見た。
 店主が驚いたように、煙管を置く。
「なんだい、アンタいいとこの坊々かい?」
殿、らでん、とは?」
 幸村の問いに、は顔を上げた。
「貝殻の内側をはめ込む装飾方法だ、わたしも母上の持ち物で見たことがあっただけだが」
「なんと、殿は物知りでござるな!」
 他意のない褒め言葉に、は視線を逸らした。
「これくらいは、普通だ」
「はッは、まぁ知ってるだけでもたいしたモンよ。都の姫(ひぃ)さんってなら話は別だがね」
 店主は豪快に笑い飛ばし、そしてもったいぶったような口調で続けた。
「それはなかなかの逸品だぜ?なんせ琉球で作られたものだからな!」
「琉球?」
 幸村との聞き返す声が見事に重なった。
「おや知らねェかい?そこの海から南に南にずーっといったところにある国さ、そりゃァ綺麗なところだぜ」
「外ツ国(とつくに)でござるか」
 感心したように幸村は言い、は手に持ったままだった櫛を店主に差し出した。
「これを、いただきたい。おいくらか」
 店主がにいと笑って口にした金額に、ふむと頷いては懐に手を入れ、
「――ちょぉっと待ちな、チビ!」
 聞き覚えのある声が割って入った。
 振り返ると、そこには仁王立ちで口をへの字に曲げた武蔵がいる。
「武蔵殿!」
 と幸村が驚いたように声をかけるが、それは無視して、武蔵はつかつかと店主に歩み寄る。
「おいおい次郎吉、いっくら琉球モンでもそれはねぇよなぁ?」
「なんだいアンタの知り合いかよ」
 それまで人のよさそうな笑みを浮かべていた店主が、途端にきまり悪そうに眼を泳がせる。
「まぁね、ほら値段。いくらなんだよ」
 武蔵が店主に詰め寄る。
 店主が口にした値段は、先ほどの半額以下だった。
 この時点で初めて、は自分が騙されそうになったのだと気付いたが、武蔵はにやにやした笑いをやめない。
「あれ、いーのかなーァ?このふたりはじっちゃんの客だぜ?」
 その言葉に、店主がいよいよ顔色を変える。
 さらに半額ほどの値段を言い、それでも武蔵は納得しない。
「このことがじっちゃんの耳に入ったらおめぇ、もうここに出入りできないよなぁ?」
 あっけにとられたと幸村の前で、結局武蔵は顔面蒼白の店主からほとんどただ同然の金額でその櫛を買い、ぶっきらぼうにに押し付けた。
「ホラよ」
「え、武蔵殿、その、わたしも持ち合わせがないわけでは、」
「いンだよ、あいつどーせ他にも似たようなことやって儲けてんだからそのくらい」
「いやそうではなくて、」
 結局武蔵が支払いをしてしまったことをは言いたかったのだが、武蔵はそれを遮るように、
「ったく、これだから武家のぼんぼんはよぉ」
 そう言って、幸村を見た。
「つうかおめぇだ、この朴念仁。しっ・かり・しろ・よな!」
 一言ずつ区切るように言われて、幸村は気圧されたように頷いた。
 それを見て鼻から息を吐いてから、武蔵はむすりとした表情のまま踵を返す。
「じゃーな!もー妙なのにひっかかるんじゃねーぞ!」
「あの、ありがとう、武蔵殿!」
 我に返ったがその背に声をかけると、武蔵はひらひらと腕を振りながら、こちらを振り返ることなく雑踏に姿を消した。
 それを見送ってから、は一度息を吐いて、櫛を懐に納めた。
「幸村殿」
 見ると、幸村が眼に見えて項垂れている。
 まるで叱られた犬だ。そう思うと首の後ろで一房伸ばしている髪が尻尾に見える。力なく垂れた尻尾。
「幸村殿、気にされるな。わたしも貴方も、まだまだ知らぬことがこの世にはたくさんあるのだ」
殿・・・・・・」
「知らぬなら、知りたいなら、これから知っていけばいいだけのことだ」
 そう言って、は幸村に、先ほど繋いでいた左手を差し出した。
 幸村が驚いたように差し出されたその手を見つめ、そして眉を下げてその手をとった。
「左様でござるな」
 その様子を仏頂面で見上げてから、は立ち並ぶ商店に視線を走らせた。
「腹が空いてはおらぬか」
「は?はあ、そうでござるな、朝から武蔵殿と手合せをしておったし」
 の言葉の意図がわからず、怪訝そうに幸村がそう答えると、は幸村の手を引いて歩き出す。
「あちらで団子を売っている」
「!」
 相変わらずのぶっきらぼうな声色だったが、どうやら自分を元気づけようとしているのだと思い至って、幸村は頬を緩めた。
 本当に、このひとは。
 今すぐここで抱きしめたくなったのをぐっと堪えて、幸村は口を開いた。
「――ときに、先ほどの櫛はそなたがお使いになられるのか?」
 問われたがこちらを振り返る。
「いや、黄梅院様に差し上げようと思って、な。たいした挨拶もなく出てきてしまったから」
 笠のせいで口元しか見えないが、その口の端が上がっているのがわかって、幸村は頷く。
「ああ、きっと喜んでくれましょうな。某も何か見立てようか」
「・・・・・・今度は値段に気を付けるとしよう」
 が笠を上げてこちらを見上げる。
 ふたりは眼を合わせて、少し笑った。

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20121017 シロ@シロソラ
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