第九章 第一話

 薩摩の国は今日も夏の盛りの晴天だ。
 国主である島津義弘の居館の南の浜辺は、その砂地に昨日の戦の爪痕が残ってはいるものの、波は穏やかで、時折海鳥の鳴く声が木霊している。
 まだ蝉も鳴き始めぬ朝であったが、砂浜には気合いの掛け声と剣戟の音が響いていた。
「――ぅおりゃあああッ!」
 一際大きな音をたてて、幸村の槍が武蔵の木刀を弾いた。
 木刀はくるくると回転しながら、弧を描いて砂地に突き立つ。
「あっ!」
 その木刀を眼で追いそうになった武蔵の首元に、ぴたりと幸村の二槍の矛先が添えられる。
「一本!取りましたぞ武蔵殿!!」
「っあー、なんだよおめぇ、やればできンじゃねぇか!」
 これ見よがしな溜息を吐いて、武蔵はじとりと幸村を見つめた。に、と笑う幸村が槍を退いて、武蔵はもう一度息を吐いてから木刀を拾うために浜辺を歩きだす。
 北方では毛利軍、この浜辺では豊臣傘下の徳川軍を退けて、まだ一夜が明けたばかりだ。何やら元気が有り余っているように見える幸村同様、武蔵も目立った怪我は負っておらず、どちらかというと大将不在の毛利軍に拍子抜けしたというのが正直なところであったので、朝一番に幸村から手合せを申し込まれて快諾したのだ。
 だが。
「・・・・・・ンだよ、昨日までと全ッ然違う」
 砂浜に突き立っていた木刀を拾いながら、ぶつくさと武蔵は言う。
 槍捌き、身のこなし、眼に宿る気迫からしてこれまでの幸村とは段違いだった。その集中力もずば抜けていて、目つぶしや石つぶてはそれをができるような隙が作れず、落とし穴に至ってはその地を踏んでも落ちる前に跳躍で躱してしまうのだ。
「・・・・・・日ノ本一の兵(つわもの)、ねェ」
 島津から聞いたその名を、ぽつりと呟く。
 独り言のようなそれが耳には届かなかったのか、少し離れたところで幸村がぶんぶんと二槍を振っている。
「武蔵殿ー!もう一本参りましょうぞー!!」
 自分から漸く一本取れたことがそんなに嬉しいのか、輝かんばかりの笑顔を浮かべている幸村を見つめて、武蔵は肩をすくめる。
 日ノ本の最強を目指す自分にとっては、遠からず打倒さねばならない相手だ。
 だが、今は、まだ、
「だー!もうやめだやめ!!」
 天に向かって武蔵は怒鳴るように言った。
「武蔵殿?」
 槍を振る動きを止めて、幸村が眼を丸くする。
 その幸村の前を、木刀と櫂を肩に担いで武蔵は横切った。
「今日は里で市が立つんだよおれさまはじっちゃんの薬買いに行かねーとなんねぇからもー今日のところはこの辺で許してやるよ!」
「・・・・・・市?」
 一息でまくしたてるようにそう言って目の前を通り過ぎていく武蔵に、幸村は首を傾げ、慌てて後を追う。
「里とは、この近くでござるか?」
「近くつうかじっちゃんちの目の前だよ」
「左様でござるか!」
 追いついて、隣に並んで歩く幸村を、武蔵は半眼で見る。
 どこまでも上機嫌そうなその様子に、ふと思いついて言ってみた。
「おめぇ、あのチビと仲直りしたのか?」
 問うと、幸村はこちらに顔を向けた。
殿はチビではござらぬ」
 その口の端に、何やら誇らしげな笑み。
「・・・・・・」
 なんだこいつ。
 武蔵は今日何度目かの溜息を吐いた。






 陽の昇り始めたころから始まる蝉時雨の音にも、もう慣れた。日中の厳しい日差しにはまだ辟易とさせられるが、この島津義弘の居館は元々夏の暑さを凌ぐために風を通しやすい作りとなっていて、こうして日陰になっている濡縁に腰を下ろしているぶんにはずいぶんと過ごしやすかった。
 室内よりもここの方が涼しかったので、道具一式を濡縁まで出して、は刀の手入れをしている。
「・・・・・・」
 片目を閉じて、刃筋を見る。
 昨日の戦で徳川家康に文字通り握られるという予想外の出来事があったが、刃こぼれなどの不具合はないとわかり、小さく安堵の息を吐いた。
 あれだけの血油にまみれた刃も、手入れが済めば一片の曇りもなく、陽の光をぴかりと反射する。
 には特段、刀に対するこだわりはない。
 実戦に使用する刀というものは、基本的には消耗品だ。
 人を斬り、鎧を砕くうちに刃はかけるし刀身は曲がる。あるいは、人に突き刺した刃が骨にかかったか筋に噛まれたかして抜けなくなったこともある。戦中に使えなくなった刀はすぐさま捨て、その辺に落ちている刀を拝借するのが通例だ。それが、今殺した敵の刀であったとしても。
 自身もそうしてきたのだが、そういえばこの刀は比較的長く使っていると、手にしたそれを見下ろして思った。
 確かあれは、北条方として正式に戦場に出た、最後の戦いであったと思い出す。ちなみに桶狭間の一件は表向きは北条軍は何ら手を出していないことになっている。
 もう三年ほど前になるか。北条家の先代・氏康のころに安房の里見から奪い取った上総国を奪い返された戦。思えばあのころから、北条氏政の采配の拙さは明らかだったのだ。ひどい戦で、は一郎と本陣撤退の殿を務めた。当時使っていた刀は、あの戦で使い物にならなくなってしまったのだ。
 今手の内にあるこれは、その戦の後に小田原城下の店で、適当に選んだ刀だ。そのとき一緒にいた一郎からは「もっと名の通った業物にしろ」とか言われたが、どうせまたすぐ替えることになることになるだろうからと、無銘の安物を選んだ。
 安物ではあったが、これを鍛えた刀匠の腕は確かであったらしい。幸村のもとにいるようになってからは、小田原攻め、厳島、そして今回の薩摩と数か月の間に刀を握る機会は多かったように思うが、たて続いた乱戦にあっても、刀身は曲がらなかった。
 刀身を見下ろしながら、思い返す。
 ――望まぬ戦をしなくてもいい世のために戦うと、昨日幸村は言った。
 その日が本当に来るのなら、自分は刀を置くだろうと思う。
 いつか来るその日まで。できるだけ長く、この刀を使っていたい。
 一郎を殺めた、この刀を。人を斬る痛みを教えてくれるこの刀を、できるだけ長く。
 望む世のために、戦う。そのために他人の生命を奪う痛みを受け入れる。そして「戦いを望まない者」が生きる世のために、眼の前に立ちはだかる者がたとえ「戦いを望まない者」であったとしても排除する、その矛盾をも受け入れる。
 人を殺めることの恐怖が、なくなるわけではない。むしろ、なくさなくていいのだと、は悟った。恐怖を感じなくなった人間はもはや人ではない。
 義とは人道。人であることを辞めないこと。
 かつて幸村が言った、その言葉になぞらえるなら、全てを受け入れて目指す世の来るその時まで戦い続けることがの「義」だ。
「――よし」
 手入れの済んだ刀身と鞘を、並べて濡縁の板張りの床の上に置く。
 風に、意識を集中する。
 いつもであればこういうときは眼を閉じて、視界の分の意識も風への集中に使うのだが、それでは戦場では通用しない。
 意図的に目の前の抜身の刀と鞘を見据えて、風の動きを想像する。
 かたり、と刀が音をたてる。
 頬に風を感じ、その風に煽られた後ろの障子がかたかたと音をたてはじめたので、そうではないと意識を眼前の刀に向ける。目標は、この、刀だ。
 ふ、と障子の音が止まる。替わりに刀がその場で震えて床と当たる音が生まれる。
 しばらくその場で震えるように動いていた刀が、ゆらりと持ち上がる。細かく下から上へと風を巻いて、刀身を浮かび上がらせているのだ。
 次いで、鞘も同じように持ち上げる。
 鞘は空中で制止させたまま、くるりと刀身を翻す。その切っ先が、ゆっくりと鞘に近づく。
「・・・・・・」
 額に汗が浮いているのがわかる。
 膝の上で、握っている拳に力が入る。右の掌に、包帯の感触。
 細かく震えている刃の切っ先を、少しずつ動かす。切っ先が鞘をかすってなかなか合わないのを、睨みつけるようにして風を動かす。
「・・・・・・ッ!」
 漸く切っ先が鞘にかかり、そのまま勢いよく刀身が鞘に収まった。きん、という音。
 そこで力が抜けて刀が落ちてきたので慌てて手を差し出して受け止める。
「・・・・・・、」
 はー、と長く息を吐く。なんとかできた。だがもう少しすんなりとできるようにならなければ。
 こういうことの繰り返しで、風を動かす精度は上がっていくはずだ。
 戦うための力が、今は必要だ。
 幸村の隣で、戦場を駆けるために。
 ――以前のには、不可能であっただろう。
 痛みを、矛盾を、恐怖を、そのすべてを受け入れられるほど、このひとりの身の器は大きくない。
 だが、今のは、ひとりではない。
 佐助や、甚八や、他の背を預けられる仲間がいて、
 そして、
「・・・・・・さすがにそれは危ないのではござらぬか」
 少し前から近づく気配は察していた。声が聞こえて、傍らに刀を置いて、背後に向き直る。
 戸口に立つその姿。優しい、鳶色の眼。
 はわずかに口の端を上げて、名を呼ぶ。
「幸村殿」
 ――そして、貴方が、いるから。






 の前に腰を下ろしながら、幸村が床に置かれた刀を見つめた。
「抜身の刀を風で動かすというのは・・・・・・、万一手元が狂うようなことがあれば、そなたが傷を負う」
 幸村の気遣わしげな視線に、は一度瞬きをした。相変わらず過保護だと思いながら、口を開く。
「貴方も、自分の炎で火傷することはないだろう。それと同じだ」
 平坦な声色でそう言っても、幸村はこちらに向ける視線は変わらず、眉を下げたまま。
「・・・・・・」
 なんだろう。
 当然のことを言ったつもりなのだが、なぜだがものすごくいたたまれない。
 はわずかに眉根を寄せて、幸村から視線を外した。
「・・・・・・今後は、気を付ける」
 仏頂面のままそう言うと、漸く幸村の顔に笑顔が戻る。
 眩しい笑顔だ。はあくまで仏頂面を崩さぬまま、話題を変えるように言った。
「それで。確か今日は、武蔵殿と手合せをされるのではなかったのか」
 朝餉の折にそう聞いていたので、陽が傾くまで戻ってこないのだろうと思っていたのだが、時刻はまだ昼前だ。
「そうなのだ、聞いてくだされ。某漸く武蔵殿から一本取りましたぞ!」
 身を乗り出さんばかりの幸村に、は小さく息を吐く。
「・・・・・・、本来はそれが当り前だろう、貴方があの少年に敗けるはずがない」
「む、殿は手厳しゅうござるな」
「佐助でもおそらく同じように言うとおもうぞ」
「むう・・・・・・、そうであろうなぁ」
 すっかり元気をなくしてしまった幸村に、は内心少し慌てて言った。
「それにしても、貴方が武蔵殿から一本取ったくらいで満足するとは思えないのだが、もう戻ってきたのは何か用向きでもあったのか?」
 聞くと、幸村が顔を上げる。
「そうでござった、今日はこの里で市が立っているのでござる!島津殿には先ほど某よりお話しましたゆえ、共に参らぬか?」
 くるくると、表情がよく変わる。見ていて飽きないその様子こそが幸村の本領。このところずっと思いつめていたようだったので、久しぶりに眼にできたは無意識の中でわずかに口の端を上げていた。
 幸村が、自分をすきだと言ってくれた。
 ただ一方的に自分だけが抱いている、叶わぬ想いだと考えていたのに。
 なんて幸運なことだろう。今朝起きたときは夢ではなかったかと真剣に考えたほどだ。
 そして同時に、思う。自分がどこかそれなりの家の姫君であれば、ゆくゆくは夫婦となって、共に生きていくことができたのだろう。
 ――だがそれは、それこそ夢のような話だ。
 いつだったか、信玄に言われたことを思い出す。幸村に輿入れしないかと、そう問われた。それを自分は戯言だと判断した。今もそう思う。北条家が潰えた今、その旧臣の自分と「真田幸村」では家格が合わない。幸村はそのうち、然るべき家から姫君を娶るだろう。お家の存続のために複数の女子を室と迎えるのは武家の男子の務めだが、その末席にも自分は加わることはない。
 は、男子として生きているからだ。今までも、そしてこれからも。
 戦うと決めた。つまり武人として生きると決めたということだ。それはつまり、「」として生きていくということ。
「――殿?」
 声をかけられて、は我に返った。
「ああ、すまない。市だったな、わたしもご一緒しても構わないのか」
「もちろんでござる!」
 幸村の笑顔を見て、つられるように小さく笑う。
 妙なことを考えた。が本当にどこぞの姫君だったなら、こうして出会うこともなかったというのに。
 そう、男子としてであってもこの笑顔を見ることはできるのだ。「真田幸村の家臣」としてこうして傍にいることができるのだから。
 
 想うひとに、想われた。
 たとえこの恋にいつか終わりが来るのだとしても、これ以上の望みはない。

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20121015 シロ@シロソラ
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