第八章 第十二話 |
どうしてそんな嬉しそうに笑うのだろう。 そう思いながらは勧められた幸村の向かいに腰を下ろそうとして、幸村の髪が、結われずにばらりと背や肩に流れていることに気付いた。 幸村も、湯上りのはずで、結わずにそのままにしているのだろうか。 そういえば自分では結わないと、佐助が言っていた。 「・・・・・・殿?」 立ち止まったに、幸村が怪訝そうに声をかける。 は一度瞬きをして、懐からあの櫛を取り出した。持っていた方が気合いが入りそうな気がして懐に忍ばせていたのだが、早速役に立つときがきたようだ。 「・・・・・・佐助から。貴方の櫛を、預かっているのだ。その、・・・・・・わたしが結っても、構わないか?」 幸村が呆けたようにこちらを見た。 「・・・・・・」 黙られると、なんだか無性に恥ずかしい。 はいたたまれなくなって視線を外しかけ、 「い、いやその!結ってくださるのなら、お願いしてもよろしいか?」 慌てたように幸村がそう言ったので、は「ああ」と頷くと、幸村の後ろに腰を下ろし、思いがけずその頭が高いところにあったので膝立ちした。 「・・・・・・では、失礼する」 「は、お願いしまする」 そうっと、幸村の髪に触れる。 予想通り、柔らかい感触に、心の臓がとくりと一つ跳ねたのがわかった。 他人の髪に触れたことなどこれまでなかった。 ――そうは言っても、幸村と出会って以来『これまでなかった』ことづくしだったと思い出して、はわずかに口の端を上げる。 のそれより少し明るい色の幸村の髪は、よく見れば生え際に近いところの色は比較的黒く、毛先に行くほど色が抜けているようで、日焼けによるものなのかもしれないと思った。 いつもいつも、陽の高いうちは外に出て槍を振り回しているのだろうと想像に難くない。 絡まった箇所を引っ張らないように、ゆっくりと梳(くしけず)っていく。 館内は静かだ。 薩摩の兵たちも、幸村の部下たちも、皆この屋敷に引き揚げてきたはずだが、今は思い思いに休んでいるのだろう。 会話のないと幸村の間には、蜩(ひぐらし)の鳴く声だけが聞こえてくる。 「・・・・・・」 そう、話をしようと思ってきたのに。 いざとなると、何からどう話していいのかわからない。 まずは、先日のことを謝らなければ。そう思うのに。 が考えあぐねていると、息を吐いたのか、幸村の肩が動いた。 「・・・・・・殿」 「、は」 「先日は、急に怒ったりしてすまなかった」 びくりと、の櫛を持つ手が震えた。 「そ、その、わたしのほうこそ、あのときは口が過ぎたのだ、」 の慌てふためいた声が、どんどんと先細って小さくなる。 「その、・・・・・・すまなかった」 周りがこうも静かでなければ聞こえなかっただろう、の小さな謝罪の声に、幸村は笑ったのだろうか、肩を少し動かした。 「・・・・・・某の考えていることを、聞いていただきたいのだが」 「!」 に背を向けている幸村の表情はわからない。 だがその声色は、とても穏やかだ。 は思わずこくりと頷き、今はそれでは通じないのだと気付いて声に出した。 「ああ」 幸村の肩が、もう一度小さく上下する。 そして口を開いた。 「――いつだったか、殿に指摘されたように、某は確かに悩んでおる」 その声を、は櫛を動かしながら聞く。 「何のために戦うのかと。某の槍は、何のためにあるのかと」 まるで、遠くの何かを見ているような、そんな声色だ。 「いや、答えははっきりしてござる。守るために、戦うのだと思ってきた」 はその言葉にぴくりと眉を動かす。 「・・・・・・何を」 「上田を、甲斐を。お館様を、武田の家を。ゆくゆくはお館様が統べる、天下を。そして佐助や、仲間たちや、民を。この眼に映る、全てを、でござる」 全てとは、また大きく出たものだと思った。 に、刀とバサラの届く範囲しか守れぬように、幸村に守れるのもまた、彼の二槍が及ぶ範囲だけだ。 「もちろん殿、そなたもでござる」 「ッ」 思わず息を呑んだ。 幸村がこちらに背を向けていてくれてよかったと思う。今自分がどんな顔をしているかわからない。 の様子には気が付いていないようで、幸村はそのまま続ける。 「だが、ただがむしゃらに、眼の前だけを守っていたのでは、真に大切なものが守れないのだと、気が付いた。小山田殿は、そうした某の未熟さゆえに生命を落とされたようなものでござる。何とお詫びしても、足りるまい、某にできることは、もう同じことを繰り返さぬこと。――ならば、どうすればよいかと考えておるのだ」 幸村の肩越しに、彼が膝の上で拳を握っているのが見えた。 「――守るとは、何か、と」 「・・・・・・貴方は今日、この地を、そしてわたしを守ったのではないのか」 今日の戦で徳川家康が退いたのは、もちろん島津義弘や薩摩軍の奮闘もあろうが、やはりこの地に武田軍が――真田幸村がいたことが大きいと、は思う。 しかし、幸村は答えない。 庭木にいたらしい蜩が飛んで行く音が聞こえた。 小さく息を吐くと、は意を決して口を開いた。 「・・・・・・ならば、わたしの、悩みも。・・・・・・聞いていただけるだろうか」 「もちろんでござる」 「ありがとう。――その、・・・・・・自分でも、恥ずべきこととは思っているのだが」 そう前置きして、は無意識に、櫛を持つ手に力を籠めた。 「・・・・・・わたしは。・・・・・・恐ろしくなったのだ」 声が震えそうになって、一度息を吸う。 「ひとを、殺めることが」 幸村の肩が小さく動いた。 やはり呆れられただろうかと、自嘲の形に口が歪む。 「今更何をと、思うだろう。わたしも思っているのだ。これまで幾多の人を殺めてきたこのわたしが。今になって、恐ろしいなどと。こんなことでは奪われた生命が浮かばれない。わたしとて、大切なものを、――貴方を、守ろうと、そのために刀を握ろうと決めたのに」 一郎は、何と言うだろう。怒るだろうか。 彼は優秀な人物だった。こんなに脆弱な自分ごときが、奪っていい生命ではなかったのだ。 「ッ、殿、」 幸村が板張りの床に手をついた。こちらを向きそうになったので、髪を引っ張って無理やり前を向かせる。 「ぅわ、」 「まだ、終わっていない、前を、向いていてくれ」 視界が滲むのがわかった。 零れ落ちそうになる涙を、瞬きを繰り返してなんとか飲み込む。 泣くな。 武人が流していい涙などありはしない。 「・・・・・・ッ、わた、しは。自分でこの道を歩むと決めたのだ、武人として生きると。それを、今更、ッ」 必死に、嗚咽を喉に押し込める。鼻の奥がつんと痛む。喉も。 だがこれ以上、幸村に醜態を晒したくない。 「――やはり、そうなのでござるな」 幸村が前を向いたまま、そう言った。 「・・・・・・ならば、やはり。某の戦う理由は、ひとつにござる」 まるで、自分自身に言い聞かせるような声色。 「某は、某の望む世のために、槍を振るおう」 いまだ涙と格闘しているは、息を詰めながら、幸村の背を見つめる。 幸村が、肩の力を抜いた。 「某の望む世とは、誰もが己の望むように生きられる世でござる。戦いは、某や、例えば政宗殿のような、それを好む者だけがすればよい。作物を育てることに精を出したい者はそうすればいいし、学問を究めたい者はそうすればいい。誰もが、実りある切磋琢磨に生き、その果てに、こころから讃えあえる世、でござる」 は、言葉を失って固まっていた。 「望まぬ争いをせんでもよい世」 人とは結局、争わずには生きられぬものだとは思っている。だから戦はなくならない。だが、それを、望むものだけがするというなら。 考えて、動きを止めている間に、今度こそ、幸村がこちらに向き直る。 の様子に一瞬驚いたように眼を見張り、そしてそうっと両腕を伸ばし、その顔に掌を添える。 大きくて暖かいてのひら。 その親指が、の両の眼尻に溜まっていた涙を拭う。 「――そなたが、泣かずに生きられる世だ」 「・・・・・・ッ」 もう、だめだった。 櫛が、手から滑り落ちてかたりと音をたてる。 堰を切ったように、の両目からは大粒の涙がはらはらと零れ落ちた。 「、、どの、」 幸村がうろたえたような声を出す。 「すま、ない、すぐ、止める、から、ッ」 その声に我に返ったは、幸村から離れるように後ずさって、両手でがむしゃらに眼を擦る。 幸村はの様子に小さく吐息して、そして腕を延ばす。 逃げようとするの、その細い腰を捕らえて、 「ッ、ゆき、むらどの!」 そのまま抱きしめた。 「そのように擦られては、眼が腫れてしまいまする。こうすれば某からは見えませぬゆえ」 言い聞かせるようにそう言うと、もがいていたが動きを止めた。 「・・・・・・ッひ、ぅ・・・・・・ッ」 やがて聞こえてきたのは、の嗚咽だ。 声を押し殺すような、息を詰めるようなそれは、泣きなれていないのだろう彼女の、ひどく下手くそな慟哭だった。 痛い、怖い、嫌だ、――そんな悲痛な叫びがその嗚咽から感じられるような気がして、幸村は震えるの背をゆっくりと撫でる。 「もう、ここにはそなたを害するものはござらぬ」 だから安心なされよと、繰り返しその背を撫でる。 しばらくの間、の泣く声だけが室内に響いた。呼吸が上手くできていないのか、時折引きつるように痙攣するその細い体躯を、幸村は黙って抱きしめ続ける。 やがて、室内に差し込む西日の位置が幸村のところにも届き始めたころ、こちらにも伝わって来ていた震えが収まりはじめ、嗚咽も聞こえなくなった。 「・・・・・・、幸村、殿、すまない、もう大丈夫だから、」 落ち着きを取り戻したが腕の中でそう言って、抜け出そうともがきはじめる。 幸村は抱きしめる腕に力を籠めて、それを封じた。 「幸村殿?」 いよいよ慌てたような声をあげるの肩に顎を置く。 「幸村殿、あの、離していただきたく、」 「・・・・・・某は離しとうござりませぬ」 「・・・・・・は?」 素っ頓狂な声をあげるに構わず、幸村は言う。 「離せばそなたはまた、ひとりで悩むのだろう。自分を傷つけて、今度こそ某の手の届かぬところへ行ってしまうのだ」 「・・・・・・何を言っているのだ、貴方は」 穏やかだが有無を言わせぬ幸村の声色にただならぬものを感じて、はもがくのをやめる。 幸村が、口を開く。 「――某は、殿がすきでござる」 「・・・・・・、わたしも貴方を好いているが」 平坦な口調で返されたその言葉に幸村は嘆息して、の両肩を掴んで一度身体を離す。 その肩を掴んだまま、幸村はひたりとの眼を見つめた。 先ほど無理に擦ったためにすでに少し赤くなってしまっている目元、深い色の瞳。 初めて会ったあのときから、ずっと、きれいだと思っていたその色。 戸惑うようにその瞳を向けてくるが、 「どうしようもなく、愛おしいのでござる。――そう言えば、わかってもらえようか」 「ッ」 の顔が、一瞬で朱に染まった。 それにつられるように、自分の頬に熱が差すのがわかる。 幸村はこんな感情を、知らなかった。 恥ずかしいことだと、思っていたのだ。 戦場を駆ける武人が、おなごに熱を上げるなど。 だが。 恥ずかしいなどと言っていては、またが離れていくような気がしてならない。 もう、 離したくないのだ。 この細い肩も。 そしてそのこころも。 幸村の言葉の意味を考えているのだろうか、首元まで赤くなったまま固まってしまったの顔を覗きこむように見つめる。 「某は。殿を、慕っているのでござる。――どうか。この幸村の傍に、いてくだされ」 その言葉に。 は、大きく眼を見開いた。 叶わぬ想いだと、ありえないことだと、もう封じ込めてしまっていたのに。 「・・・・・・幸村殿・・・・・・」 今、自分に向けられている、朱に染まったその顔が。 ――可愛らしいと言えば、貴方は怒るだろうか。 の、その顔に。 ふわりと、小さな、しかし確かな、笑みが宿る。 「わたしも。貴方のことがすきだ、幸村殿。――どうか、傍にいさせて欲しい」 「ッ、」 感極まったように、幸村は再びを抱きしめる。 「ぅわ」 「殿ッ」 「痛い、痛い幸村殿、」 力を入れ過ぎて、が腕の中で抗議の声を上げる。 「す、すまぬ、」 慌てて幸村は力を緩める。 腕の中で、が笑ったようだった。 「そのように力任せにされずとも、わたしは貴方の元を去ったりしない」 だから安心なされよと、先ほどの幸村と同じことを言って、はそうっと両の腕を伸ばし、 幸村の背に、その腕を回した。 その背に感じた、確かなあたたかさを、幸村は忘れまいと誓い、 身体中を包むような、陽の光のようなにおいを、は忘れまいと誓った。 夏場の太陽が高い間に暖めていった風は、夜が更けてもまだぬるいまま、虫の音とともに室内に入り込んでくる。 文机に向かって書き物をしていた男は、燭台の火がかすかに揺れたのに気が付いて短く息を吐いた。 「――何者だ」 「どーも、お久しぶりです」 癇に障る軽妙な口調に眉を動かす。 「・・・・・・お前か」 室の隅の闇から這い出るように現れた、暗緑色の装束の忍びを、男は一瞥する。 「真田の草風情が我が城に出入りするとは、ずいぶんと世も乱れたものだ」 あからさまな蔑みを隠さないその言葉に、佐助は苦笑を浮かべて懐から書状を取り出す。 「それはすみませんね、ちょっと極秘なもので直接届けに来ました」 差し出されたそれを受け取ると、男は右手を振るって書状を広げ、内容に眼を通す。 また風が吹く、じ、と音をたてて燭台の火が揺らぐ。 男は無言で書状を読み終えると、丁寧に畳み直してその場に置いた。 「・・・・・・成る程、父上もよほど焦っておいでだと見える」 「まぁ仕方ないですよ、今のあの人は武田の行く末が気がかりで仕方がないのさ。なんせ」 佐助が男へ視線を動かす。 そのおよそ温度を感じさせない、瞳。 「どうにも跡取りは凡庸だし?」 「ッ」 男は傍らに置いていた刀を手に取ると、問答無用とばかりに抜刀し、無礼な忍びの首を撥ねた。 忍びの姿が、闇に滲んで消える。 「おー怖い。あとさ、できればそこに書いてあるよりも早く躑躅ヶ崎に来てほしいんだけど」 気配は感じられないのに声だけ聞こえる。よくよく癇に障る忍びだと思いながら、男はいらいらと刀を鞘に戻して言った。 「何故私がお前の言うことを聞かねばならん」 「・・・・・・できるだけ早いうちに、アンタに会ってほしい人がいるんだ」 忍びの声が、唐突に真剣みを増した。そして忍びが告げたその名に、男はぴくりと眉を動かす。 「――わかった」 「ありがと、恩に着るよ」 元の調子に戻ったその声が、不快だとばかりに男は眉根を寄せる。 「用が済んだなら失せろ」 「ハイハイ、まぁアンタにも俺様にも拒否権はないんだからさ、仲よくしてよー、ねぇ諏訪サマ」 「失せろと言った」 切り捨てるように言うと、佐助はどこぞへ消えたのか声は聞こえなくなった。 「・・・・・・汚らわしい」 諏訪四郎はそう言って窓の外へと視線を動かし、降るような星が散る夜空を憎々しげに見上げた。 虫の音だけがいつまでも、響いていた。 |
20121005 シロ@シロソラ |
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