第八章 第十一話

 もうもうと湯気がたつなか、は湯の中でひとり膝を抱えている。
 しばらくこうしてじっとしているので、はじめは驚いて少なからず不快に感じた、温泉特有のにおいにもだんだん慣れてきた。
 このあたりは硫黄泉が数多くあり、この島津義弘の居館も、そういった硫黄泉を湯殿として設えているのだった。
 右腕を湯から出して、その掌を見つめる。
 自らの爪でつけた傷痕は、まだかさぶたになりきっていないものがあるので湯に沁みたが、一時に比べればずいぶんとましになっていた。
 その掌が、べったりと血で汚れた様子が幻のように重なる。夢に見た、あの光景。
 ・・・・・・これまで、幾多の生命を奪ってきた、右腕。
 幼少の、まだ大太刀は抜けなかったあのころから、絶えず刀を握ってきた右腕だ。
 初めて真剣を手にしたときには持ち上げるので精いっぱいだったが、今はもう、その刀の重さも柄を握る感触も、ごくごく自然のものとして感じることができる。
 ――『お前が、刀を握らなくてもいい、世だ』
 徳川家康の、あの言葉が耳に木霊する。
 戦いのない世なんてありえない。あれはこちらを油断させるための甘言だ。
 そう思いたかった。
 なのに、あの一瞬、その言葉を信じたくなった。幸村の顔を思い出さなければ、あの言葉に縋りついたのではないかという恐ろしい想像に、無意識に左手で右手を掴んだ。
 ――「そのこと」に初めて気づいたのは、一郎を斬った、あのときだ。
 それ以来ずっと、そんなことはありえないと、今更何を考えているのだと、それ以上考えないように自分の思いに蓋をしてきた。
 は武人で、その血刀をもってこの乱世を生き抜くのだと決めていたのだ。
 最初は、御本城様を守るため。の家の、――血の存続のため。
 後には、幸村やその仲間たちを守るため。
 守るためには、戦うしかないのだ。敵は殺さなければならない。
 刀一振りで足りぬのなら、バサラを最大限に使おうと決めた。
 まだ実戦で乱発はできないが、今日の戦でもその力の片鱗を使うことができたと、思う。
 なのに。
 はあ、と口から息が漏れて、視界を白く霞める湯気の間に溶けていく。
 どれだけ正確に風を動かそうと。どれだけ疾く刃を振ろうと。
 相手を斬るたびに刃筋は鈍り、断末魔の悲鳴がいつまでも耳に反響し、そして返り血を浴びるほどに身体が重くなる。
 どうしても、認めたくはなかった。
 認めてしまえば、これまで手にかけた数多の魂に申し訳が立たないと思った。
 それでも。
 もう、自分自身にも、ごまかしようのないところまで来ているのだ。
 そう。
 ・・・・・・怖いのだ。
 人を斬ることが。肉を裂き骨を断つ感触が。その血飛沫と、断末魔の悲鳴が。
 ――ひとのいのちを、奪うということが。
 怖くて、しかたがないのだ。
 小田原にいたころ、どうやって自分は平然と人を斬っていたのか、もう思い出すことができない。
 なんという、ことだろう。
 人を殺すことを怖がる者が、どうして武人を名乗れるというのだ。
「・・・・・・ッ」
 額を、抱えた膝に付ける。ちゃぷ、と湯が音をたてた。





 温泉からあがって、手拭いで身体と髪を拭き、着替えに袖を通しながら、考える。
 どうすればいいのか、わからなかった。
 ここで刀を捨てることはできない。たとえが拒もうと、今世は戦いの世だ。生きるためには、刀を握らなければならない。
 ならばこのまま、人を殺め続けるのか。自分はそれに、耐えきれるのか。
 それも、難しいように思えた。
 このようなことでは、いつしか戦場で足手まといになるだろう。それで幸村たちを守れなければ、それこそ本末転倒だ。
 あるいは、逃げるか。
 すべてを捨てて、髪を下ろすか。仏門への信仰心などあまりなかったが、受け入れてくれる山はあるだろうか――
「・・・・・・」
 眉根を寄せて、瞼を降ろす。
 できない。
 すべて捨てて逃げることだけは、できない。
 今更武士の矜持を謳う気はない。ただの、自分の心がそれを許さない。
 ならば、どうすれば。
 袴の帯を締めてから、湯に浸かる前に外していた包帯を再び右の掌に巻く。掌はどうも自分では巻きづらく不恰好になったが、まあいいだろう。もともと止血の役割はすでにほぼ終えているのだ。それでもこの包帯を使うのは、これを巻いていると気分が落ち着くような気がするから。事実、包帯を巻いている間は無理に拳を握るようなことはしていない。
 着替えを終え、次は髪を結おうと、櫛を探して荷物を漁る。
「・・・・・・あ」
 自分の櫛より先に手に触れたのは、あの竹櫛。
 佐助から預かった、幸村の櫛だ。
 ――『そなたが無事なら、それでようござる』
 そう言って、幸村は笑ってくれた。
 喧嘩をしていたと思うのだが、もう腹は立てていないのだろうか。
 あれからろくに顔も合わせていなかったというのに。
 それでも幸村は、いつもと同じ笑顔を、自分に向けてくれたのだ。
 ならば、自分がこのままでいいはずが、ない。
 幸村の傍にいたいのだ。
 あの笑顔を、ずっと見ていたいのだ。
 どうすれば、それが叶う。
 ――あの、喧嘩のとき。
 自分は、幸村が何を考えているのかがわからなくて、それに腹を立てたのだったと思い出す。
 そう言ったら、幸村は「それはこちらの台詞だ」と、言い返してきた。
 ・・・・・・話しても、いいのだろうか。
 この、弱い自分の、武人にあるまじき悩みを。
 話したら、どうなるだろう。
 幸村は、どう思うだろう。
 軽蔑するのではないだろうか。
「・・・・・・違う」
 幸村は、の知っている幸村は、思い悩む相手を軽蔑するようなことはしない。
 そんな男ではないと、自分は知っているはずだ。
 竹櫛を、両手で抱くように、胸元に寄せる。
 ――幸村と、話をしよう。
 すべては、それからだ。
 





 すべては、それからだ。
 幸村はそう思って立ち上がろうとし、まだは湯殿にいるだろうことを思い出してもう一度腰を下ろした。
 この辺りは硫黄泉が豊富なので、館では男性と女性で湯殿を分けているのだと聞いた。
 館内ではすでにが女子であることは知れ渡っているので、自然と女性用の湯殿に案内されていて、それを自分は見送ったのだ。
 湯けむりの中、身体の汚れを落としているのだろうの姿を脳裏に思い描きそうになり、幸村はぶんぶんと首を横に振った。
 いかん、今何を考えた。
 そんなことを考えていたのではないのだ。
 と、一度きちんと話をしようと思っていたのだった。
 昼間の、の姿を思い出す。
 手足と言わず顔までを血と砂で汚したひどい様相だった。
 幸村が駆け付けたときには、徳川家康と対峙していたからまさかという思いがあったが、よく見れば周りには豊臣の旗印を負った兵士たちが事切れて転がっていたし、自身には怪我もないようだったのでまずは安心した。
 しかし、近寄ってみれば、やはりの様子は普通ではなかった。
 瞳孔の開ききった双眸はぎらぎらと光っているのにどこか虚ろで、まるで何かに、痛みに耐えるように眉根を寄せていた。
 そうだ、あの、初めて手合せをしたときの。
 泣きそうに歪んだ、あの表情だ。
 いつもあんな顔で、人を斬っていたのだろうか。
 少なくとも、桶狭間では違った。あの頃のは、ただただ冷徹に、淡々と刀を振るっているように見えたのだが、いつの間に。
 もっと早く気が付いていれば、徳川家康などに忠告を受ける必要もなかった。
 守りたいと、思っていたはずなのに、自分は彼女の何を見てきたのだろう。
 に、傍にいてほしい。
 あの笑顔を、また自分にも向けてほしいのだ。
 どうすれば、それが叶う。
 薩摩に到着したあの日、は、平時の彼女には珍しいほどに声を荒げて言ったのだ。
 自分が、何も言わないから、何もわからないと。
 幸村は怖かった。自分の不用意な発言が、またを苦しめるのではないかと。
 だが、それは違うのだ。
 言葉にして伝えなければ通じないことがあるし、通じないことが相手を苦しめることもある。
 は佐助ではない。こちらの意図を、言葉にせずとも一から十まで理解してのけるあの忍びではないのだ。
「だから、話そう」
 何か言うことで、彼女を苦しめることがあるのかもしれない。
 だが、それを恐れていては何も始まらない。
 が何かに苦しむというなら、そこから救い出したり、あるいはその苦しみを分かち合ったりすればいい。
 そう、が笑顔を取り繕って離れていくというのなら、自分が離さなければいいのだ。
「――!」
 その考えは、まるで池に落ちる小石のように、幸村のこころの内に音をたてたように感じた。
 ――先ほど自分で思ったように、は佐助ではない。
 佐助や他の忍びたちは、幸村の傍にいるのが当たり前の者たちだ。彼らは「真田忍び」であり、自分は父から忍隊を継いだのだから、いわば彼らは「幸村の所有物」でもある。もちろん幸村は彼らを物だと思ったことはないが、とにかく所有権は幸村にあるから、傍にいるのはそれが空気であるがごとく、当然のことなのだ。
 だが、は違う。
 家臣であるとはいっても、禄を与えているわけではないし(の禄については考えようとは思っていたのだが、戦がたて続いてそれどころではなかったのだ)、ただ友人のように、傍にいるだけだ。
 いつか離れていくときがきても、おかしくはない。
 ・・・・・・おかしくはないが、嫌だ。
 それは、何故だ。
「・・・・・・俺、は」
 彼女を――
「幸村殿」
 声をかけられて思わず幸村はその場で固まった。
 考え事に集中するあまり、近寄る気配にまったく気が付いていなかったのだ。
 ぎこちない動きで振り返ると、開け放した障子の向こう、夕日を背に立つ、の姿。
「・・・・・・少し、よろしいだろうか」
 相変わらずの、仏頂面だ。
 そう、いつものの。
 そういえば、こうしてから話しかけてくれるのもずいぶんと久しぶりだと気付く。
 それが嬉しくて仕方がなくて、幸村は笑った。
「もちろんでござる、どうぞ入られよ」

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20121003 シロ@シロソラ
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