第八章 第九話

 まだ実戦で使うには精度が低いかと、頬を裂くように吹き抜ける風を感じながらは思った。
 山吹色の男との間に立ちはだかった兵士たちのうち、風で弾き飛ばせたのは三分の二程度。十数人がまだ残っている。
 しかし、それくらいの人数なら相手取っても問題はない。
 舞い散った砂塵が収まりきる前には地を蹴り、数人は躱して男との距離を詰めた。
 に気づいた何人かが槍を構える、その矛先を掻い潜って抜刀、その兵士たちの足元を薙ぐ。
 あがった悲鳴に眉を動かしながら、風の力を乗せて次の敵に刃を叩き込む。
 骨の砕ける嫌な音が刀越しに伝わってくる。
「・・・・・・ッ」
 顔に散った返り血を袖口でぐいと拭いながら、次の敵を斬ったところで、山吹色の男がこちらを見た。
 その、黄金色の瞳に、ざわと肌が粟立つのがわかった。
 なんだ、アレは。
 あの戦国最強に比べればなんということはない、見た限りは普通の人間だ。
 だが、あの眼は。
 あの豊臣秀吉を見たときのような、恐怖にも似た圧倒的な力を感じる。
 次の敵の矛先が迫っていた、一瞬判断が遅れるも風でその矛先の軌道をずらして生まれた隙に刃を突き入れる。
 その刃を引き抜けば、噴き上がった血飛沫が再びの顔にかかり、錆びた鉄のような臭いが鼻をつく。
 これで立ちはだかる兵士はいなくなり、己の間合いに山吹色の男を入れないぎりぎりのところでは足を止めた。
 ぱたぱたと、顔から垂れた血が砂浜に染みを作っていく。
 それをぬぐうこともせずに、は表情のない顔で、眼だけをぎらりと光らせて、眼前の男を見据えた。
「・・・・・・徳川、家康公と、お見受けする」
 およそ温度の感じられない、のその声を聞いて、その男はなぜか笑顔を浮かべた。
 しかも、眉を下げたそれはどう見ても、苦笑。
「腕の立つ奴がいるとは思ったが、お前は己の身を斬るように人を斬るんだなぁ」
 穏やかな口調、その言葉には刀を握る右腕に力を籠めた。きちり、と鍔鳴りの音。
 ・・・・・・馬鹿にされているのだろうか。
 は刀を持つ右腕をだらりと下げたまま、重心を落とす。
 そして何の予備動作もない動きで地を蹴り、風に乗って一気に間合いを詰める、そのまま刃を振り下ろした。
 がつりと音をたてて、その刀が止まる。
「ッ!?」
 眼を見開くの視線の先、刃は男の拳に阻まれていた。
 正確にはその右の拳が、刃を握って止めているのだ。
 ある種の白刃止めとも言えそうだが、一瞬の見誤りで指を切断されかねない。なんという力量、そして肝の据わった男なのか。
 すぐさま刀を返そうとしたが、握られた刃がびくとも動かず、そのまま力比べとなる。
 殺気を隠さずにいるに、男は悠然と笑って見せた。
「まずは、感謝しよう。今日この場でお前と出会えた、絆に」
「・・・・・・?」
 何を言っているのだろう。
 笑みを浮かべながらも、その男の眼は真剣そのもの。その、こちらを射抜くような視線にはやはり底知れぬ何かを感じる。
「確かに、ワシが徳川家康だ。お前の名を聞いてもいいか?」
 刀を引こうとする力を緩めぬまま、は口を開く。

「うん、か!よろしくな!」
 あくまで無邪気にそう笑う徳川家康に、は右目の下に皺を刻んだ。
 なんだ、この男は。
 握られた刃が動かせない。純粋な力では敵わないと悟り、は風に意識を向ける。
 ごッ、という耳に殴りかかるような音、刀を中心に突風が巻き、砂塵を巻き上げる。武蔵に倣った、目つぶしのつもりだった。しかし徳川家康はわずかに眼を細めただけで、空いている左腕で顔を庇おうともしない。
 それは砂浜に落ちていた貝殻の破片であったのだろうか、風に乗った何かがびし、と徳川家康の頬を掠める。そこから流れ出る血を見て、はかすかに眼を見張り、そこでふつりと風が凪いだ。
 ぱらぱらと、巻き上がった砂が落ちていく。依然として刀は少しも動かない。刃を握りしめているその右手の指の隙間から、血が滴っているというのに、だ。
 その右手も、頬の血も意に介していないのか、笑顔を絶やさないまま徳川家康はこちらを見つめている。
「怖がらなくていい。お前と話がしたいんだ」
 その声に、は表情の抜け落ちた顔で答える。
「・・・・・・他人の土地に攻め込んでおいて、今更何を話す」
 それは、この薩摩のことであり、そして甲斐のことでもあった。
 の戦装束は、あの深紅の陣羽織。その背の六文銭に、まさか気づいていないわけはあるまい。
 それが伝わったのかどうか、徳川家康が小さく眉を下げた。
「ああ、その後信玄公のご容体は如何だろう」
 その問いに、はわずかに眉を動かした。
 信玄の病については、他国には知られていないはずだった。佐助も他の真田忍びも、早々にそれを漏らすようなことはないはずだ。ならば、この男は情報統制の前、先の戦場ですでにその情報を知っていたことになる。客観的に見れば、甲斐の虎を討ち取る絶好の機会だ。それでも徳川軍の追撃はなかった。
 この男は、何を考えているのか。
「何故、敗軍の将を気に掛ける」
 問われた内容には答えずに、そう問い返すと、徳川家康は口の端を上げる。
「信玄公はワシの師であるからな」
 それは、誇らしげな笑顔だった。似た笑顔を、は知っている。太陽のような、それは。
「一度敗け、そこから多くを学んだ。そして今度はワシが、虎の志を継ぐ」
 その言葉に、小さく眉根を寄せる。
 の、そのぎらつく視線を正面から受け止めて、徳川家康は言う。
「なあ、絆を結ぼう、。ワシとともに来ないか」
「・・・・・・は?」
 初めてが、表情を動かした。
 今、何と言った。
 絆?
「なんだ、お前はそういう顔もできるんじゃないか、その方がずっといいぞ」
「な、ッ」
 慌てたように声を詰まらせたに、徳川家康は変わらぬ笑顔で言う。
「ワシは秀吉殿とともに、泰平の世を目指している。戦いのない世だ」
 その、黄金色の瞳が、ひたりとの眼を見つめた。

「――お前が、刀を握らなくてもいい、世だ」

「ッ、」
 ぎくりと、肩を強張らせたは、次の瞬間刀の柄から手を離して、風を巻き上げて後方に跳んだ。
 間合いの外に着地し、手近なところに使える刀が落ちてはいないかと、眼だけを動かして周囲を見る。
 右手に残った刀を見下ろした徳川家康は、
「これは、まだお前のだ」
 そう言ってに刀を投げ返した。
 徳川家康から視線を外さずにそれを受け取って、は刀を構える。
 なんなのだ、この男は。
は風が使えるんだな、うちには風使いはいないから歓迎するぞ。刀の腕も惜しいが、お前が望まないならもう刀は捨ててもいい」
 これは、甘言の類だろうか。
 油断を誘っているのだろうか。
 否、違うのだろう。
 この男の、眼は。嘘をついていないと、そう思う。
 刀の構えを解かぬまま、は表情を消して徳川家康を見据える。
 やはり、この男は只者ではない。
 戦が始まって一刻とたっていないというのに、全てを見透かされたように感じる。
 視線は徳川家康から外さぬまま、刀を握る右腕に意識を向けた。
 生まれてからこれまで、戦国の乱世は常に目の前にあった。
 血を血で洗う、戦いの世は当然のごとくそこにあり、そのことに疑問を抱いたことはなかった。
 例え誰かが乱世を制覇したとしても、そのうちにまた他の勢力により滅ぼされ、世は乱れる。盛者必衰の理は、古の源平の戦のころから何ら変わることはない。
 戦のない世などありえはしない。自分も武士として、いつかは戦場で生命を落とすのだろうと思って生きてきた。死ぬ前にの血を遺さなくてはいけなかったのはもう過去のことだ。
 ――この刀を、握らずともよい世が。
 戦の世が続く限り、そんなものはありえない。
 ・・・・・・万が一の仮定として、戦のない世になったなら。
 眼だけを動かして、右腕を見下ろす。
 その掌に巻かれた包帯が眼に入った。
 なぜだろうか、脳裏にあの笑顔が浮かんだ。
 あの、太陽のような。
 先ほど徳川家康の笑顔を見て似ていると思ったのだが、やはりまったく違った。
 そうだ。
 あるいは、この徳川家康の、圧倒的な、底知れぬ何かしらの力により、万が一の仮定としてそんな世が、来るのだとしても。
「・・・・・・わたしは、貴方に士官はしない」
 ふわ、と風が吹く。ゆるやかなそれが、の結い上げた髪を揺らすのを見て、徳川家康はわずかに眼を見張る。
 の、深い色の瞳がひたりと徳川家康の眼を見据える。
「この先、何があろうと。わたしの主は、」
 その口元には、小さな笑み。
「――真田幸村、ただひとりだ」
 

 そのの言葉と同時。
 徳川家康との間を隔てるように、炎と砂塵を巻き上げて幸村が降り立ち、ぎらりと光るその双眸が、まるで虎のそれが如く徳川家康を射抜いた。

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20120928 シロ@シロソラ
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