第八章 第四話 |
夕餉と聞いたのでてっきり館内の移動だと思っていたら、いつの間にか目の前には砂浜が広がっている。 陽はまさに水平線に落ちようとするところで、広い空には夕陽の金赤と宵闇の紫黒が見事な色合いを作り出していて、それは穏やかな波をたてる海原にも映り込んでいた。 昼間の熱が籠ったようなぬるい風が、潮の香りを乗せて時折頬を撫でていく。 その砂浜にぽつりぽつりと生えている、の見たことのない背の高い木の間に、火が焚かれている。 木と木の間に網のようなものを張ってその上に腰を降ろしている大きな男と、傍にしゃがみ込んで焚火の様子を見ている少年。 少年の方には見覚えがある。倒れる直前に対峙していた彼だ。 ということは、大男の方は。 「島津殿!」 前を行く幸村の声に、網に腰掛けている男が顔を上げた。 「おお、待っとったど、幸村どん」 やはり、この男が島津義弘。 鬼島津との噂に違わぬ、只者ではない気配を持つ男だと、は思いながら幸村の斜め後ろに控える。 そう、この島津義弘が纏う覇気は、武田信玄の纏うそれと、どこか似ている。 「そっちの娘さんはもう大丈夫かね」 人懐こい笑みを浮かべて、島津の眼がこちらに向いた。その表情が意外では一瞬言葉を失い、我に返ってその場で膝をつく。 「は!ご挨拶も遅れました無礼をお許しいただきたく。わたしは真田幸村が家臣、と申しまする、」 そういえば今、島津は「娘さん」と言った、つまり己が女であると知られているということだ。しかし名乗りを聞いた島津はわずかに眉を動かしただけだった。 「うん、オイが島津義弘じゃぁ。しっかし武田は幸村どんといいおまはんといい、礼節を重んじるんはええことだがずいぶん厳しいようだの。ここではそげん畏まる必要はなか。それよりおまはん、武蔵の言うとおり細っこいのォ!そんなことではまた暑さで倒れっど、さあたんと食うがよか!」 「そうだぜお前、これ食って元気になれよ!」 立て続けにそう言われて目の前に突き出されたものを、面食らったは曖昧な相槌を打ちながら受け取った。 串に刺した魚を、焚火で炙ったものだった。 差し出した少年を、は見つめる。 少年は島津と幸村に同じように魚を渡すと、「陽が暮れる前にもう一丁獲ってくる!」と海に向かって走り出して行った。そのまま眺めていると砂浜に置いてあった小船を海に進めていく。 手の内の魚を見下ろす。これはあの少年が獲ったものらしい。 あの少年のことも、ここに来るまでの道中で幸村から聞いた。名は、宮本武蔵。この薩摩に居候しているそうだが、島津からの信頼は厚く、先だって織田信長により手傷を負った島津に替わり、この地を守っているのだという。 「この暗い中で魚が獲れるのでござろうか」 「なァに、武蔵にとっちゃああれも鍛錬のひとつよ」 幸村と島津の会話を聞きながら、は再び魚に視線を下ろした。 存外重い。こんな大きな、生の魚を炙ったものというのは食べたことも、見たこともなかったので、まじまじと見つめてしまう。 海の魚とえば、甲斐では干したものしか手に入らない。甲斐には海がないからだ。小田原は海が近いこともあって甲斐に比べれば活きた魚が手に入ったが、それでもこんなに大きなものは見たことがない。 というか、串のまま渡されたのだが皿はないのだろうか。箸もない。 伺うように島津の方を見ると、ちょうど豪快にがぶりと魚に食らいついたところだった。 ・・・・・・そのまま齧るのか。 内心驚いて幸村の方を見ると、豪快とは言えずとも幸村も魚に口を付けている。 「殿?」 視線に気づいて幸村がこちらを見る。 幸村の視線が、の手つかずの魚に移る。 「・・・・・・食べられそうでござるか」 「っ、食べる。大丈夫だ」 そう、とにかく体調管理だ。 このところなんだかよく気絶しているような気がする。そのたびに幸村や佐助に世話をかけて。今回は同盟を結ばんとする国主の前で恥を晒したようなものだ。 自分だけの恥ならまだいい。 だが行軍中の今、自分の恥はすなわち真田の恥だ。 これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。 よく食べて、きちんと寝る。基本中の基本だ。 半ば自棄のように串を持ち直して魚に噛り付いたを、幸村はわずかに眉を下げて見つめていたのだが、一口頬張ったが小さく眼を見張って「おいしい」と呟いたので笑顔を取り戻した。 海の魚特有の、潮の味の絶妙さに、顔には出していないがいたく感動しているは、その幸村の表情の変化には気づいていない。 ふたりの様子を見て、島津がにいと笑う。 「そうだ、おまはんら酒は飲めるかね」 「は、相応には」 幸村が答えて、を見る。 「わたしも、嗜み程度には飲めまする」 「左様でござったか」 なぜか幸村が驚いたような声をあげたので、は仏頂面で幸村を見上げる。 「・・・・・・なぜ貴方が驚くのだ」 「いや、殿が酒を飲んでいるところをあまり見たことがなかったゆえ」 そういえば、佐助とは何度も酒盛りをしたが幸村とふたりで飲んだことはないと思い出す。 正月の武田祭りの後の宴では多少飲んだような気がするが、あのときは伊達政宗がいてそれどころではなかったのだったか。 逆に、幸村が酒を飲んでいるところもあまり見た覚えがない。あるとしてもやはり、正月の宴だけだ。 あとは上田での花見のときには飲んだような気がするが、あの頃のことは記憶が少し曖昧だ。 「ぐはは、おまはんら仲がいいのか悪いのかわからんの、ならば今度いい酒を用意すっど」 「なんと、かたじけのうござります!」 「お気遣い、ありがとうございまする」 幸村とは同時に頭を下げ、それを見て島津がまた豪快に笑う。 そこへ、籠を引きずりながら武蔵が戻ってきた。 「なんだ楽しそうじゃん?」 「おお、獲れたか武蔵」 「これくらいちょろいモンよ、ちょっと待ってなじっちゃん!」 籠の中にはまだ生きている魚がびたびたと跳ねていて、これも初めて見るが思わず小さく仰け反った。 武蔵はその暴れる魚をむんずと掴むと、躊躇なく口から串を刺して焚火の周りに並べてるように立てていく。 しばらくその手際の良さに見入っていたは、ふと思い至って火に薪をくべる武蔵に声をかけた。 「その、武蔵殿。貴方にも世話をかけて、申し訳なかった」 「へ?」 武蔵が眼を丸くしてこちらを見る。 は、その眼をまっすぐと見つめて続ける。 「わたしが倒れたときのことだ。暑さに中ったのだと伺った。ありがとう」 「ま、まあね!なんだおめー変なヤツだな、そんな弱っちいなりしてるくせに」 礼を言われたことにだろうか、照れたように顔を赤らめて武蔵が口を曲げる。 は視線を動かさずに答える。 「そうだな、わたしはまだ弱い。貴方はこの日ノ本の最強を目指していると聞いた、ぜひその強さの秘訣をご教授いただきたいものだ」 あくまで静かなその声色に、武蔵はいよいよ視線を泳がせた。 「・・・・・・ま、まあ、そんなに言うんなら稽古つけてやってもいーぜ!ただしそれちゃんと食ってからな!おれさま弱いモンいじめに興味はないんだ!」 顔を背けてそう言った武蔵に、は小さく笑う。 「ああ、よろしくお頼み申す」 「――殿、」 そのの腕を、幸村が軽く引いた。 振り向くと、幸村が眉根を寄せてこちらを見下ろしている。 「・・・・・・幸村殿?」 この表情は、見覚えが、ある。 いつだったか、幸村の前で一郎の話をしたときの。 あのときも、結局よくわからなかった。 怒っている、のだろうか。 「いかがなされた?」 問うと、幸村はしばし視線を泳がせる。 いつも相手の眼を見つめて物を言う幸村には珍しいことで、はわずかに眉を動かす。 逡巡してから、幸村は口を開いた。 「・・・・・・その者と、あまり親しくされては」 「?」 わけがわからなかった。 やはりこれは、不機嫌だということなのだろう。 なぜ幸村は不機嫌なのか。自分はなにかまた失態を犯したのだろうか。 武蔵を気に入らないのだろうか。確かに倒れる前の記憶では、この少年の子供じみたやり口に幸村は苦戦していたと思うが、結局敵ではなかったのだから、そのことを幸村が今に至るまで引きずるとも思えない。 「わたしが倒れたときに世話になったのだと、教えてくれたのは貴方ではないか」 言葉に、険が混じるのが自分でもわかった。 それでも幸村は表情を変えない。 「それは、そうなのだが、」 そこで言葉を切られて、はわずかに眼を細める。 なんだと、いうのだろう。 わけがわからない。 言ってくれなければ、わからないのに。 幸村に嫌われたくないのに。 ――こころの内で、感情が絡まるのがわかった。 「・・・・・・貴方は、いつもそうだ・・・・・・」 かあ、と頭の裏が熱くなるような感覚。 俯いたの口から小さく漏れ出たその声に、幸村が首を傾げる。 「殿?」 が顔を上げる。その眼が射るように、幸村を見据える。 「貴方はいつもそうだ、何も言ってくれないから何もわからない!」 突然声を荒げたのその言葉に幸村は驚いたように眼を見張り、そして眉を跳ね上げた。 「なッ、――それはこちらの台詞でござる!殿こそ何も言わぬではないか!何もかもひとりで抱え込まれておろう!」 幸村のその大きな声に、はびくりと肩を強張らせ、次の瞬間その頬に朱が差した。 「なんだと!?」 「・・・・・・おいおい、どーしたんだよ急に」 妙に冷めたような武蔵の声が聞こえて、と幸村は同時に動きを止めた。 ここがどこだか思い出して、の顔から表情が抜け落ちる。 「・・・・・・ッ、島津公、御前失礼いたしまするっ」 がばりと島津に平伏し、その後武蔵にも礼をしてから、は砂を蹴立てるようにして館の方へ駆けていく。 あっけにとられたように武蔵はその後ろ姿を見送り、島津は溜息を吐いた。 幸村が島津に頭を垂れる。 「お見苦しいところをお見せいたしました。申し訳ありませぬ」 「・・・・・・追わんでいいのか?」 苦笑しながら島津が聞くと、幸村は憤然と息を吐いた。 「構いませぬ。それよりも、御前で大変なご無礼を」 「なに、気にされるな。若いモンがおると賑やかでええのォ」 そう言って、島津はやれやれとばかりに瓢箪筒の酒をあおったのだった。 |
20120924 シロ@シロソラ |
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