第八章 第三話 |
「――ッ!!」 悲鳴は、喉が掠れて音にはならなかったが、しかしいつもの通りそこで、は眼が覚めた。 全身の血流がどくどくと音をたてるのがわかる。 いつもの、屍の山を歩くあの夢。 そう、ただの夢だ。 ほら、掌には血など―― 「・・・・・・?」 顔の前に両の掌を翳して、は眉を動かした。 右の掌に、包帯が巻かれている。 無意識に握りすぎて、自らの爪で傷を作っていた、掌だ。 もちろん自分で巻いた覚えはない。 誰かが、寝ている間に手当をしてくれたのだろうか。 いったい誰が。 そうっと、左手でその包帯に触れる。 包帯の下、傷口はいまだ疼くような痛みがあるが、なぜだろうか、その包帯にひどく安心する。 あたたかい、と思う。 そういえば、あの夢を見た直後はいつも軋むように痛む心の臓が、何の不調も訴えていない。 呼吸も。 あれほど耳元で五月蠅く聞こえていた血流の音も、いつの間にか聞こえなくなっている。 穏やかに舞い込んだ風が、寝ている間にかいた汗を浚っていく、それが心地よいとさえ思った。 ふと風の吹く方を見やれば、開け放された障子の向こうは夕焼けの空、室内には西日が入って来ていた。 「・・・・・・ここは?」 褥から抜け出る。 板張りの、質素な室内は上田城とどこか似た雰囲気を感じたが、風の様子が、運ばれてくるにおいが、ここが見知らぬ場所だとに告げる。 記憶をたどれば、確か薩摩に入ったところで謎の集団と戦闘になったのだった。幸村の背を見たのを最後に記憶がない、ということは自分はそこで倒れたのではないか。 なんたる失態か。規模こそ小さいとはいえ、あれは戦場だった。戦場で、戦いの途中で気を失うなど。 あってはならないことだ。 ――こうして障子が開いているということは、捕虜になったわけではなさそうだと、とりあえず濡縁まで歩いてそう思って、 「!?」 そこで己が纏っているものが記憶にある旅装束ではなく簡易の小袖であると気付く。 どう見ても女物だった。 何がどうして、と混乱した頭で室内を見回せば、自分の荷物がそのまま衾の枕元に置いてあったので小さく安堵の息を吐き、替えの着物を引っ張り出していそいそと着替える。 袴の帯を締めて漸く一息つき、その場で膝をついて、荷物の中身を確認する。特に何もなくなったりはしていないようだ。 「・・・・・・あ」 荷物を漁っていた手が何かに触れる、持ち上げるとそれは竹製の櫛。 ――『旦那がさ、あの人自分で自分の髪結わないから。ないと困ると思って』 佐助の言葉を思い出す。 幸村の髪を整えるための、櫛。 結局まだ一度も、使うことがなかった。 「・・・・・・」 あの、髪は。 触れたら、柔らかいのだろうか。 「・・・・・・ッ」 なんだ。 胸が、苦しいような、くすぐったいような。 無意識に櫛を胸元に抱くように持って、 「――ああ、お気づきになられたか、殿」 「!!!!!??」 心の臓が。 口から出るかと思った。 大慌てで櫛を荷物の中に隠す。 そしてがばりと振り返るとそこには旅装を解いた幸村が首を傾げて立っていた。 一つのことに集中すると周りの気配に散漫になるのが悪い癖だと以前佐助にも言われた。全くその通りだ。 「殿?」 「ゆ、幸村殿、」 「まだ具合が悪うござるか、」 「いいいやそのようなことは、というよりご迷惑をおかけして申し開きのしようもなく、」 その場で平伏すると慌てたように幸村が腰を下ろす。 「あまり気になされるな、暑さに中ったのだと聞いてござる、甲斐と違ってここは暑うござるゆえ」 頭を上げてくだされ、そう言われては視線を上げる。 「あの、幸村殿、ここは」 「ああ、島津義弘殿の居館にござる。たどり着いたのは昼過ぎ頃で、某は島津殿に目通りが叶った」 「!」 島津義弘。この薩摩の国主の名に、はわずかに眼を見張る。 「それで、」 「ひとまず我らはこの地にて、毛利・豊臣連合軍の侵略を迎え撃つ手はずと相成った」 「迎え撃つ?」 信玄の命令では、同盟を結んで共に大坂へ向けて攻め上るはずだった。 の反応に幸村は頷く。 「うむ。――とりあえず、島津殿から夕餉のお誘いがあるゆえ、起き上がれるようなら共に参らぬか」 「わかった。わたしも休ませていただいたなら島津公へお礼を申し上げなければ」 即答すると、幸村はもう一度頷いて立ち上がる。 「この地に留まることになった経緯については歩きながら話すゆえ」 幸村に続いて立ち上がったの眼を、幸村の鳶色の瞳が見つめる。 何かを問うようなその視線に、は瞬きをする。 「・・・・・・幸村殿?」 「あ、いや、なんでもござらぬ。そう、先ほど甚八から聞いたのだが」 歩き出しながら、幸村は話題を変えるように言う。 「佐助が、某と殿が似ていると申したそうだ。そうなのだろうか」 幸村の一歩後ろを歩きながら、は小さく首を傾げた。 「わたしと、貴方が、か?どのあたりが?」 「さて。具体的には聞いておらぬのだが、――気にせんでくだされ、佐助の冗談やもしれぬ」 こちらを振り向いて、幸村はそう言って眉を下げた。 そうか、と小さく返事をして、は再び歩き出した幸村の後を追う。 佐助は、嘘を言うことはあっても冗談を言うことはあまりないように感じる。 だから、少なくとも佐助の眼には幸村とが似ているように見えたのだろう。 何をもってそう思ったのか、には全くわからない。 そもそも男子の幸村と女子の自分では姿かたちもまったく違うし、武術の腕も、人望を寄せられる立ち居振る舞いも幸村には遠く及ばない。 首を傾げたは、先を行く幸村との間が空いてしまっていることに気づいて慌てて足を速めた。 ところで、忍びというものは概して耳が良い。 屋根の上にいた甚八は、彼には珍しく大きなため息を吐いて、文を変化させた鴉を夕空へ放ったのだった。 |
20120924 シロ@シロソラ |
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