第八章 第二話 |
風を通すために開け放してある障子の影から、そうっと室内の様子を窺う。 板張りの室の、陽が当たらないよう配慮されたのだろう少し奥まったところに設えられた褥に横たわる、の姿。 熱さましの為か、額には手拭いが乗せられている。 足音を立てぬように注意しながら近寄ると、瞼は降りたまま、まだ意識は戻っていないようだった。それでも顔色は幾分戻ってきており、呼吸も落ち着いている様子で、幸村はそっと安堵の息を吐く。 の右側に腰を下ろし、上掛けから出されていた右腕に触れる。 起きるだろうかと顔を窺うが、動く気配がなかったので、そのまま右腕を持ち上げ、掌を見た。 ――『右の掌にひどい傷がおありです。これが効くといいんですけど』 女中の言葉通り、幸村に比べれば小さなその掌に、皮が剥けて膿んだような傷痕がある。 その惨状に、思わず幸村は眉をしかめた。 「・・・・・・」 何度も同じところに傷をつけたようで、かさぶたになっている部分もあるが、いまだ乾かず化膿しているところもある。 似たような傷を幸村も作ることがある。 これは、拳を強く握った時に、己の爪で掌を傷つけてできるものだ。 自分に例えて言えば、こうした傷を作る理由はおおまかに二つ。一つ目は、何か我慢ならぬような悔しい思いをしたとき。そして二つ目は、何かに思い悩んで、知らずの内に傷をつけてしまう場合だ。 どちらの場合であっても、佐助がすぐに気づいて苦笑交じりに手当をしてくれるのが常だった。 だから幸村は、ここまでひどい状態になったことがない。 いったいいつから。 繰り返し己を傷つけてきたのだろう。 このような状態では刀を握るのも痛いだろうに。 自分が、気づかなければならなかったのだ。 佐助はここに、いないのだから。 幸村にとって、佐助と長期間離れるということ自体はそう珍しいことではない。上田にいるときに、彼の忍びが長期任務で城を空けることがあった。 だが、今は平時ではない。 ある意味では戦の延長でもある。 その場において、佐助が呼べば来るような距離にいないということが、幸村にとっては初めてのことであった。 そう。佐助はいないのだから、自分がしっかりしなければならないのだ。 に限ったことではない。 部下たちの状態を常に把握しておくことも、一軍の将には必要なことだ。 小山田信茂を失った、あの厳島での戦を思い出した幸村は、いまだ手にしたままだったの掌を見下ろして、小さく息を吐く。今は過ぎたことを思い返しているときではない。 の掌をそうっと己の膝に置き、懐から先ほど預かった傷薬を取り出す。 傷薬の類ならば、佐助が預けてくれたものをが持っているのだが、さすがに女性の荷物を断りもなく漁るという暴挙は幸村には到底できない。 それに、この傷は繰り返しさえしなければ、そう悪化するものでもないのだ。ならば女中がくれたこの薬でも効くだろう。 薬の蓋をあけてから、いつも佐助が自分にどうしてくれていたのかを思い出す。 そうだ、まずは傷口を洗わなければ。 見渡すとちょうど手の届く場所に水が張られた桶があった。あの女中が用意していたのだろうか、その傍らに手拭いと包帯もある。 手を伸ばして桶を引き寄せ、手拭いに水を含ませてから、の掌の傷口を軽く抑えるように当てる。 沁みるだろうと思っての顔色を窺うが、まだ目を覚ます様子はない。 手拭いに血の混じった膿が付き、そこを避けて他の部分に水を含ませて、再び傷口に当てる。何度か繰り返してから、手拭いの乾いた部分を使って水分を拭き取る。 汚れの落ちた小さな掌は生来の白さを取り戻した。幸村はおなごの手など見慣れてはいないが、例えば黄梅院の手もこのような白さであったと思い出す。 だが、その掌は今化膿している傷の有無を差し引いても、お世辞にも綺麗だと言えるものではない。 幾つもある細かな傷痕の中でも眼をひくのは、細い指の根元、変色して固まっているような痕。似たようなものは幸村の掌にもある。これは、刀や槍を握る者がよく作る、所謂たこだ。武器の柄を強く握ることで、幾度も皮膚が千切れては固まるのを繰り返してこうなる。 幸村は己の手も桶の水で洗ってから、軟膏を指に掬っての掌の傷口に塗る。 この、小さな手で。 はずっと、刀を握り続けてきたのだ。 それが武人としての、の生き方なのだと言われた。覚悟であり、誇りであるのだと。 自身が選んだ生き方であるのだと、わかってはいても、それでも幸村は思うのだ。 この小さな手は、本来守られるべきものなのだと。 の家が仕えた北条は潰え、は帰るところを失った。そして、家族のように思っていたのだろう己の家臣を、その手にかけた。もはや、を守るものはこの世にないのだ。 だからこそ、自分が守らなければならない。 それなのに、未熟な己はの傷ひとつ見通せない。 掌に包帯を巻き終えて、その右腕をそうっと上掛けの中へ入れる。 「・・・・・・ぅ」 かすかな声が聞こえて、幸村はの顔を見た。 瞼は降りたまま、その眉根がわずかに寄っている。 以前に甚八から、が夜にあまり眠れていないのだと報告を受けたときに、夢見が悪いようだとも聞いている。 今もまた、何か悪い夢を見ているのだろう。 「・・・・・・ッ」 幸村は何かに耐えているかのようなそのの顔をもう一度見て、立ち上がった。 ――『そろそろ眼を覚ますかもしれませんし、そのときは真田様がおそばにいたほうがいいでしょうから』 あの女中の言葉を思い出すが、幸村はそうは思わない。 眼が覚めたときに自分がいれば、きっとは「幸村の手を煩わせた」と自分を責めるだろう。 悪い夢から覚めた瞬間なら、なおさら。 だからここに、の傍にいてはいけない。 こんなに近くにいるのに。 手が届かぬほど、遠いと感じるのはなぜだろう。 あの、風花を見た冬の日、確かに近づけたと感じたとの距離が、どうしようもなく離れてしまった。 幸村はもう一度の顔を見て、そして踵を返した。 借りた室で腰を下ろしながら、幸村はぼんやりと外を眺めている。 今日のところは部下たちにも身体を休めるように言ってある。島津に夕餉を誘われているが、それまでは特段何もすることがない。そういえば夕餉の前にもう一度の様子を見に行かなければ。起き上がれるようなら一緒に夕餉をとろう。 ・・・・・・食べてくれると、よいのだが。 視線を、膝の上で広げた己の掌に向ける。 そこに、先ほど触れたの掌の像が重なる。 小さな、てのひらだった。 守りたいもの。 ――『強くなって、なんとする』 脳裏に、信玄の声が響いた。 あれは忘れもしない、初めて武田道場に参加することを許された折に、信玄が言った言葉だ。 ――『力を手に入れ、その先にあるものは何だ』 あの頃の幸村は、ただすら「お館様のため」と答えた。 それを聞いた信玄は、言ったのだ。 ――『それを失ったとき、お前に何が残る』 迷うことなど、何もなかった。 信玄の為に生き、信玄の為に死ぬ、それが己の義だと思っていたのだ。 だが、それは違うのだと、あの時他でもない信玄から教えられた。 何の為にこの槍を振るい、戦場を駆けるのか。 あれ以来考えた、その答えが守るということだった。 信玄を。上田を、甲斐を、武田のお家を。佐助や他の家臣たちを。そして、ゆくゆくは信玄により平定された天下を。守るために戦おうと、思っていた。 そしてもちろんその中には、も含まれる。 例え百人でも千人でも、この眼に映る者たちを守るために、己の槍はあるのだと、そう思って戦ってきた。 しかし、信玄は倒れた。 あの雨の戦場で、本多忠勝を足止めするという役目を放棄して信玄の元へ駆けつけたがために、戦線を維持できず敗戦、たくさんの生命が失われた。 甲斐を旅立ってからも、そうだ。 苦しむ民をひとりでも多く助けようとした。その結果薩摩への行軍は遅れ、先に豊臣と毛利の同盟が成ってしまった。 長曾我部軍を助けようとした。しかし手は届かず、それどころか小山田信茂をはじめ信玄から借り受けた部下たちを失ってしまった。 そしては。 彼女が思い悩み苦しんでいるのはわかっている。どうにか助け出してやりたいと思う。 だがその原因を作ったのは他でもない幸村自身だ。 これ以上近づけば、触れれば、さらに傷つけるのではないか。 考えても考えても、堂々巡りだ。 膝の上で、拳を握る。 この両の腕で振るう槍は、何のためのものなのか。 「――幸村様」 呼びかけられて、幸村は視線を上げた。気配が現れた背後を見ずに言う。 「甚八か」 「は。これより長に定時報告を致します。何かご伝言を承りましょうか」 佐助は躑躅ヶ崎に、信玄の傍にいる。師の顔が一瞬脳裏を過ぎり、しかし幸村は一度眼を閉じて息を吐いた。 「・・・・・・いや、いい」 己の戦う理由は、己が考え、答えを出すべきだ。 誰かに指示を仰ぐものではない。 「大丈夫だ」 「・・・・・・は」 承知の声までに、間があった。 それに気づいて、幸村は背後に向き直る。 「甚八?」 そこには忍び装束ではないことを除けば常どおりの、甚八の姿。 「いかがした」 聞くと、甚八は言葉を探すようなそぶりを見せた。愛想はないが、打てば響くような反応を返す甚八には、珍しいことだ。 「・・・・・・長が。幸村様と様がよく似ていると、申しておりました」 「佐助が?」 甚八が頷く。 「は。――そして、最近様もよく口にされるのです。『大丈夫』だと」 幸村は一度瞬きをして、甚八の言葉の意味を考える。 「・・・・・・つまり、殿が俺と似たようなことを考えていると?」 「お考えになっている内容に違いはあろうが、ご心情は同じなのではないかと・・・・・・僭越ながら」 しばし考え、幸村はふむと一言言って立ち上がる。 「そろそろ殿が目を覚まされるやもしれぬから行ってくる。そなたはいつもどおり、必要事項を佐助へ伝えよ」 「は」 「それから今のそなたの言い分だが、そもそも佐助の見立てが誤っておるのではないか?そもそも某は男で、殿はおなごだ。似ようはずもない」 そう言い置いて、甚八の返事は聞かずに幸村は歩き出した。 |
20120921 シロ@シロソラ |
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