第八章 第一話

 躑躅ヶ崎館にも、例年のように蝉の音が五月蠅いほどに響いている。
 燦然と降る陽の下にあって、しかしこの奥向きは外の廓よりも一段涼しく感じるのは、気のせいだろうか。
 息を殺している佐助は、天井板の隙間から、その室内を見下ろしている。
 その視線の先。室の中央で褥に身を横たえるその姿は、記憶よりもずいぶんと細く、小さく見える。
「・・・・・・トビザルさん、かしら?」
「!」
 気づかれるようなへまはしていないはずだが、この女(ひと)はそういう勘は鋭いのだったと思い出す。
「気になるなら、降りてらっしゃいな」
 声すら細い。
 佐助は眼を細めると、戸板をずらして室内に降りた。
「・・・・・・アンタまで、どうしたっていうのさ」
 意識して、いつもの軽妙な調子を装った。
 そうでなければ、柄にもなく動揺しているこころの内を、見透かされそうで。
 膝をつく佐助が見つめる先、横たわっている黄梅院が、ゆるりと視線をこちらに動かした。
「――ただの夏風邪、ってんじゃないですよね?どう見てもさ」
 答えはない。
 その、血の気の引いた顔を見下ろして、佐助は吐息する。
「勘弁してくださいよ・・・・・・、サンにはアンタが必要なんです」
 ゆっくりと、黄梅院は口を開く。
はもう、大丈夫よ」
「俺はそうは思いません。まだまだあの子が生きていくには、」
「支えが必要なら、弁丸やあなたが、もうすでにそうでしょう?」
 遮られて言われた言葉は、穏やかではあったが有無を言わさぬ響きがあった。
「・・・・・・まあ、仕方がないわ。こればっかりは、ね」
 眉を下げた、それは笑顔に見える。
 だが、黄梅院の笑顔は。
 もっと、大輪の花が開くような、艶やかなものであったはずだ。
「あなたが何を考えてようと、もう私にはできることはないんだけど、――でも、私がどうなっても、に報せちゃだめよ」
 その、凛とした声。
「それが私の、最後の命令。わかったわね?猿飛佐助」
 そう言って、佐助を見上げるその視線は、やはり甲斐の虎を彷彿とさせる強さを宿していた。







 鳶だろうか、空高く鳥の鳴き声が聞こえる。
 外は相変わらず太陽が高く輝き、蝉時雨の音はここまで届いている。
 昼間は茹だるような暑さではあったが、戸を開け放したこの館の中は風が通り抜けてずいぶんと涼しく感じられた。
「真田、幸村ちゅうたか」
 その声に、幸村は平伏したまま「はッ」と答える。
「顔を上げんしゃい」
 そう言われて、頭を上げる。
 視線の先、板張りの床に直に腰を下ろしているのは、とかく大きな男だ。
 きちりと結い上げられた髪や顎を覆う髭には白いものが多いから相応に歳を重ねているのだろうが、隆とした筋肉はおよそ衰えを感じさせず、こちらを見据える眼光は射抜くように鋭い。
「オイが島津義弘じゃぁ、甲斐の若虎がこげんか南まで、よう来んさった」
「甲斐の、虎をご存じでらっしゃるのか」
 驚いてそう言うと、薩摩の国主である島津は豪快に笑う。
「甲斐の虎、それに虎の若子。こん薩摩にも、その武勇はよう伝え聞いちょる。まさかこうして会えるとは思わなんだが」
「なんと、ありがたきことです。某もお館様より、鬼島津殿のお話をよく聞いております、こうしてお会いできて光栄にござります!」
「ぐはは、そうか、信玄どんがのう。まぁ、そう畏まらんでもよか、それで、甲斐からはるばる物見遊山でもなかろ」
「――は」
 幸村は、眼の前の男を見据える。
「某は、勢力を広げる豊臣に対するため、ぜひとも島津殿のご協力を賜りたく、甲斐の武田信玄の名代としてこの地に参り申した次第」
「やはり、そういうことか」
 島津は頷き、脇に置いていた瓢箪筒の栓を開け、中身をあおる。ぐびぐびと、喉が動く音が聞こえる。
「っあー!じっちゃん!それ酒だろ!!控えろって言われたろー!?」
 傍で控えていた少年がそれを見て声を荒げる。
 薩摩の地に足を踏み入れたところで幸村達に襲い掛かったこの少年は、宮本武蔵と名乗った。ここの出身ではなく、諸国漫遊の途中でこの薩摩に立ち寄った、居候なのだと言う。
 武蔵の非難の声に、島津はにやりと笑う。
「水じゃぁ」
「嘘つけ!」
 島津から瓢箪筒を奪い取った武蔵は口を付け、すぐにぶは、と吐き出す。
「酒だー!!」
 それをみてかかと笑った島津が、笑いを納めて幸村を見る。
「甲斐の虎の思惑、わからんごつもないが、ここにはそげに大きな軍はなか。武蔵の連れちょった者たちを、見たじゃろ」
「・・・・・・は」
 島津の様子を窺いながら、幸村は頷く。
 確かに彼らは軍勢というには数も装備も少なかった。
「こん土地は、織田信長に一度襲われちょる。多くの者が生命を落とし、オイも手傷ば負うた。それでもここに残ってくれた者や、毛利の領内から逃げてきた者らが、こん土地を守っちゅう。ここから大坂に向けて攻め上るような軍は、なか」
 かつて織田軍は、その進軍の後には草木も残らぬような残酷な侵略を繰り返していた。
 穏やかに見えるこの南国も、彼の魔王の蹂躙に晒されたのかと、幸村は眉根を寄せる。
「もうすぐ豊臣・毛利の軍勢がこん薩摩にも攻め込むじゃろ、オイらはそれを迎え撃たねばならんでな」
 すまんがの、そう言って島津が頭を下げた。
「島津殿、そのような、」
 目上の島津に頭を下げられた幸村は、慌てて平伏する。
 そして考える。
 島津義弘率いる薩摩の軍勢は、己の土地を守ることが精いっぱいだという。
 信玄の命令は、島津軍とともに大坂へ攻め上り、東国の軍勢と挟み撃ちにすることだ。
 どうする。
 一度甲斐に戻るか。いや、それよりも甚八と甲斐に留まった佐助は文のやり取りができる。文で信玄に指示を乞うべきか。
 しかし、病床の信玄の気を煩わせるようなことはしたくない。
 それに、そうしている間に九州が豊臣の手に堕ちれば、いよいよ日ノ本は豊臣のものになってしまう。
「・・・・・・ならば、島津殿」
 幸村は頭を上げて、島津をまっすぐと見つめる。
「我らを、この薩摩の軍に加えてはもらえませぬか。まずはこの地を守ること、そのために我らをお使いくだされ」
「うん?」
 島津が、真意を測るようにこちらを見る。
 膝の上で拳を握りながら、幸村は言う。
「某の未熟さゆえに、すでにお館様よりお借りした軍の半数を失ってしまい申したが、それでも武田の最強騎馬隊でござる。必ずお役にたってご覧に入れまする」
 そう、まずはこの九州を守る。
 さすれば、豊臣軍の力を削ぐことにもなる。
 己には、信玄のような采配の能はないのだ。
 ならば、眼に映る範囲にとどまったとしても、己にできることを。
 しばらく無言でこちらを見つめていた島津が、ばしりと己の膝を叩いて頷く。
「あいわかった。それでは若虎殿のご厚意、謹んでお受けいたそう」
「!かたじけのう、ござりまする!」
「礼を言いたいのはこっちの方じゃ、頼りにしちょるど、幸村どん」
 そう言って笑う島津に、幸村は頭を床に打つ勢いでがばと平伏する。
「はッ!!」
 その様子をうんうんと頷いて見ていた島津が、思い出したように言う。
「そういえば、倒れたちゅう娘さんは、どげんしたね」
 幸村が頭を上げる。
「は、武蔵殿によれば、大事はないとのことで、今はお借りした間で休ませておりまする」
「ただの暑気中りだよじっちゃん、でもアイツすっげえがりっがりだったぜ?」
 武蔵が口を挟み、その言葉に島津が頷く。
「そいはいかん、甲斐から来たならこん土地の暑さは堪えよるやろ、しっかり食わせなならん。こん武蔵の料理の腕はなかなかのモンばい、夕餉までに起き上がれるようなら連れてきんしゃい」
 褒められた武蔵がへへーんと鼻の下を擦り、幸村はふたりを見つめて頭を下げた。
 





「あぁ、真田様」
 島津との謁見を終え、館の回廊を歩いていた幸村は、背後から声をかけられて振り向いた。
 数刻前、この館に辿りついたときに意識のないの着替えと床の準備を依頼した女中だった。
「さきほどは、かたじけのうござりました」
「嫌ですよお武家さんがそんな簡単に頭なんか下げられて」
 ずいぶん年かさであるその女中は困ったように笑いながら、手に持っていた木組みの小さな箱を幸村に差し出した。
「ちょうどよかった、今これをお持ちしようと思ってたんです」
 幸村は掌大のその箱を受け取りながら問う。
「これ、は?」
「切り傷や手荒れなんかにウチがよう使ってる軟膏です」
「切り傷?」
 聞き返すと、女中が頷いた。
「本来ならウチが手当したほうがええのかもしれませんけど、あのお嬢様は真田様のいいひとなんでしょう?」
「は!?」
 とんでもないことを言われたような気がして、幸村は思わず薬を取り落としそうになった。
 その様子に、女中がころころと笑う。
「ま、お照れになってかわいらしいこと。そろそろ眼を覚ますかもしれませんし、そのときは真田様がおそばにいたほうがいいでしょうから、お願いしますよ」
「と、申されても、傷薬とは、殿はどこか怪我でも、」
 話が見えずに困りきった様子で幸村が言うと、女中が驚いたように目を丸くした。
「あら。お気づきじゃなかったんですか。いえね、お召し替えさせてもらって気づいたんですけど、あの方――」
 女中のその言葉に、幸村は眉を動かした。

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島津さんの口調は台詞集を見ながらももはやねつ造です。広い心でご覧いただけると助かります。
20120920 シロ@シロソラ
http://sirosora.yu-nagi.com/