第七章 第七話 |
躑躅ヶ崎館の屋根裏、明り取りの小窓から差し込む陽の光だけを頼りに佐助は地図を見下ろしている。 考えていることは、如何にしてこの甲斐を守るか。豊臣の動向も気がかりではあるが、信玄が動けない現状ではとにかく戦を避けることを第一に考えなければならない。 不安は大きいが、とりあえず西国は旅立った幸村の任せるしかない。その間に東の各国とどう渡り合うか。 脇に置いたままにしていた書状にちらりと視線を向ける。 幸村が旅立った後に届いた、豊臣軍――徳川家康からの書状だ。 言い方はお優しいが要するに降伏しろと、そう書かれている。もちろん承諾するわけにはいかない。信玄にも報告済みだが、返答を延ばせとの指示だった。 確かにそのときの徳川軍の動きは妙だったのだ。武田軍の退却の後は、この甲斐へ追撃をかける様子はなく、そのまま三河へ戻り始めている。 何年か前に武田軍が勝った戦の折に見た限りでは、あの「戦国最強」さえいなければ何もできないのが徳川家康という少年だったのだが、ここ数年で何があったのか、成長した彼はどこか底の知れない力を秘めているように見える。月日の流れは速いものだと妙な感慨すら感じてしまった。 豊臣秀吉の部下として終わるような器ではないはずだ。一体何を考えているのか。 「――長」 「どうした」 背後に現れた部下に、佐助はそちらを見ずに言う。 「奥州にて変乱が。南部・最上・相馬家がそれぞれ伊達家へ反旗を翻したとの由」 「何?一斉にか」 「は。どうやら豊臣の伏兵が混ざっている様子です」 「っは、やることがえげつないねぇ。さすがは戦国一の軍師、か」 吐き捨てるようにそう言って、佐助は地図に視線を落とす。 南部・最上・相馬――それぞれ奥州の辺境の領主だ。あの独眼竜が奥州を平定した際にそれぞれ傘下に収めたはずだったが、どうやらその伏兵とやらにそそのかされたらしい。こうなっては伊達軍は三方から囲まれて攻められる形となる。 「すると、とりあえず当分の間は竜の旦那は動けないってワケね」 対織田のために結んだ甲斐と奥州の同盟は、織田信長が討たれたことでその役目を終えている。今の武田にとって、伊達軍がいつ南下を始めるかは死活問題でもあったが、豊臣の調略のおかげで時間稼ぎはできそうだ。 あとは、上杉。 あちらには、あえて信玄の病状を漏らしている。あの軍神は、病に倒れた虎をわざわざ討とうとするような武将ではない。事実、それ以来越後は何の動きも見せなくなった。 「・・・・・・ウチの洗い出しは?」 「進めております。今のところそれらしき者は見つかっておりません」 「そうか」 豊臣の伏兵戦術は奥州だけに使われているのではないのだろう。おそらく武田や上杉にもすでに伏兵が混ざり込んでいると考えていいはずだ。 奥州のように周辺国から、という戦術なのであれば、疑わしいのは小田原と宇都宮。上田も条件には当てはまるが、留守を任せている小介もさすがに真田忍びの本拠地に余所者を迎え入れるようなめでたい頭はしていない。 要となるのは、やはり小田原城だろう。豊臣がいよいよ関東平定に乗り出す際には、必ずこの堅牢な城を拠点としたいはずだ。 ただ、実際に戦になりそうであれば、小田原も捨てたほうがいいのかもしれない。 幸村が戻るまでの間、とにかく無駄な犠牲は出したくないのだ。 「軍議は?」 「山本殿より報せがありました。武田軍は今のところ静観の構えを崩さぬとのこと」 「軍師殿も同じ考えか」 ならばよしと、小さく息を吐く。 そして佐助は、視線を小窓の方へ向けた。 初夏の、眼が痛くなるような青い空だ。 あの二人は上手くやっているのだろうか。 随行させている甚八には逐一報告をあげるよう命じてはいるが、心配なものは心配だ。 自らの先がそう長くないと悟ったからなのか、信玄も思い切った手を打ったものだと思う。 確かに幸村は、今の状態のまま指標である信玄を失えばどうなるか、想像に難くない。そうなる前に身に着けなければならないことが多くある。 それは幸村の傍にいることを選んだにも同じことだ。 ・・・・・・わかっては、いるのだが。 「俺様武士じゃないからさァ、結果のわからない博打なんて向いてないよ」 何をもって佐助がそう言ったのか、その場に控えていた忍びはなんとなく察したのだがもちろん口は挟まなかった。 幸村の一行は旅路を続け、瀬戸内の海に沿いながら、安芸の国に入った。 雨続きの時期は過ぎ、日中は汗ばむように暑くなってきている。 厳島に差し掛かったころ、海沿いの松林の向こうに無数の旗が見えて、一行は馬を止めた。 「ッ、あれは・・・・・・!」 眼下に広がる広大な瀬戸内の海、その浜辺に大軍勢が見える。 そして、大軍勢が相対しているのは、遠く海に浮かぶ要塞。 「なんだあれは・・・・・・!?」 部下たちからもどよめきの声が聞こえる。 も声を失ってその光景を見つめていた。 島ほどの大きさの要塞だ。近くに浮かぶ船が芥子粒のように見えて、それだけに要塞の大きさが異常だと知れた。 「浜の軍勢、旗印は――、五七桐と一文字三ッ星!」 遠見に長けた部下がそう言うのを聞いて、幸村は眉を跳ね上げた。 「豊臣と、毛利の軍勢か!であれば、あの海の向こうの巨大な要塞は、」 「――西海の鬼、長曾我部軍の『富嶽』であるかと」 信茂の声に、は眉根を寄せた。 「豊臣と、毛利の同盟は成立していたのか・・・・・・」 遅かったのかと考えそうになり、その思考を打ち消す。 遅くはない。 毛利と長曾我部は、長年瀬戸内の覇権争いを続けているのだと聞く。 豊臣との同盟を好機ととらえて、一息に長曾我部軍を潰すつもりなのかもしれないが、何にしろここで戦をしようというのなら、今すぐに九州に豊臣軍が迫ることはあるまい。ならばまだ、時間はある。 「あれはなんだ!?」 「大きい・・・・・・!あれが、人か・・・・・・!?」 部下たちの声に、は視線を豊臣・毛利連合軍に戻す。 武田軍が見下ろすその先、豊臣軍の先鋒に、およそ常人らしからぬ大きな体躯の男が見えた。 「あれは、まさか」 漆黒に赤の縁取りの、南蛮式のような甲冑を纏った腕が、振り上げられる。 その途端、覇気が風となってこちらに届き、木々が揺れる。 振り上げられた拳が、海に叩きつけられる。 轟音。 「・・・・・・ッ!!!」 誰も、言葉が出なかった。 ――海が割れて、長曾我部軍の要塞との間が、地続きになる。 「み、水が、なくなった・・・・・・!!」 部下たちの声が聞こえて、あまりの光景に自失状態だったは我に返る。 あの覇気、そして人とは思えぬ強大な力。 やはり、あの男は。 「あれが、豊臣秀吉・・・・・・」 そして、浜辺に控えていた豊臣・毛利連合軍が進軍を開始する。その大軍勢は、見る間に要塞を取り囲んでいく。 もはやそこは、陸(おか)の戦場と同じだった。 ただし、要塞を十重二十重に取り囲むその兵の数は、がこれまで見たこともないような多さである。 「――幸村殿、ここは先を急ぎましょう。この大軍では、富嶽が落ちるのも時間の問題、そうなれば次に狙われるは九州です」 信茂の言葉に、幸村は戦場を凝視したまま視線を動かさない。 「・・・・・・長曾我部元親殿と言えば、虐げられ、行き場を失った豊臣や毛利領内の民を四国で受け入れておられると聞く」 独り言のように幸村の口から漏れ出たその言葉に、は眉を動かす。 馬を進め、幸村の隣まで移動した。 「幸村殿、小山田殿の仰るとおりだ。今我らがすべきは――」 轟音に、の声がかき消された。 一瞬遅れて、風と土煙がここまで届く。腕で顔を庇いながら戦場を見れば、要塞の大筒から放たれた弾を、豊臣秀吉が素手で弾いたところだった。 「なんだ、あれは」 「化け物か・・・・・・!?」 部下たちの驚愕の声が聞こえる。 それもそのはず、要塞の大筒はただの大筒ではない。常軌を逸した巨大さのそれは、例えば陸の城に打ち込めば一撃で木っ端微塵にできそうな代物だ。 それを、ただの人間が、拳一つで。 もちろん何かしらのバサラを用いているのだろうが、例えばに同じことをやれと言われても、おそらく不可能だ。風では防ぎきれない。 「幸村殿、参ろう」 先を促すようにそう言っても、幸村は戦場から眼を逸らさない。 一度瞼を閉じ、そして意を決して戦場を見据える。 「――長曾我部軍に、加勢致す!!」 「なッ、幸村殿!」 声を荒げかけたを、信茂が手で制した。 「小山田殿!」 「我らは今、幸村殿に従う身。幸村殿がそうご決断されるのであれば我らに異はありません」 「しかし!」 豊臣・毛利連合軍の数は、もはや目算も難しいが、おそらく二万や三万は越えるだろう。 対してこちらの戦力は五十騎程度、バサラ持ちは幸村とのみ。しかものバサラは、多数を相手取るのには向いていない。いくら幸村がひとり奮闘したところで、要塞に近づくことすら難しいように見える。 「――すまぬ、殿。だが某には、見過ごすことができぬのだ」 幸村がこちらを向いて、眉を下げる。 その表情に、は言葉を飲み込んだ。 そうだ。 眼に映る者を守ろうとする、それが幸村のまっすぐな、優しさ。 ならば。 その志を守るのが、自分の役目だ。 「――悪いと思うのでなければ、謝るな」 は表情を消して、幸村の眼を見つめ返した。 傍らの、豊臣軍の軍師が、唐突に咳き込んだのに気付いて、毛利元就は視線を動かした。 「――如何した」 「いや何、少し驚いただけだよ」 軍師が見つめる先、毛利元就もそれに気づく。 「この戦場にいるはずのない者たちが、紛れ込んだようだね」 その騎馬の一軍の、揃えた外套の背の紋。 甲斐の虎の――武田菱だ。 |
20120912 シロ@シロソラ |
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