第七章 第六話

 甲斐を発って、ひと月ほどが過ぎようとしていた。
 幸村率いる騎馬の一団は、近江を越え、山崎に差し掛かっている。
 農村に入り、幸村が馬の速度を落としたので、続くたちも手綱を引いた。
「・・・・・・ここも・・・・・・」
 幸村の、つぶやく声。
 馬を進めて傍らに並べば、彼は渋面で行きかう民を見つめている。
 すでに陽も傾き、辺りは夕闇に覆われようとしているが、人々は仕事の手を休めていない。
 「人々」というのは女性や老人、幼い子どもたちだ。
 本来働き手であるはずの、若い男がいない。
 そのことに、最初に気が付いたのは幸村で、近江に――豊臣領に入ったばかりのことだった。
「豊臣は、兵となる民をひとところに集め、厳しい修練を課しているのだと聞き及びます」
 そう教えてくれたのはこの一団で幸村に次ぎ副将の立場にある、信玄の家臣の小山田信茂だった。や幸村よりはいくらか年上の、物腰の穏やかな青年である。
 戦は何も信玄や幸村、あるいはのような武士だけで戦うものではない。
 その陣営の大半を占める足軽兵は、ほとんどが領内の民たちで、彼らはふだん農作業や工芸、商いで生計をたてている。戦が近づけば、それぞれ領主のもとに集うのだ。稲を植える時期や農作物の収穫の時期に戦がないのは、彼らの本業をおろそかにすれば結果として武士たちも食べていけないからだ。
 しかしながら、豊臣領では戦の有無にかかわらず、働き盛りの男たちが徴兵されているのだという。
 あるいはそれこそが、豊臣軍の強大な軍事力の源であるのかと、は考えている。
 先述のとおり、足軽兵の多くは戦うことを生業としていない。しかしそのひとりひとりが訓練を積んだとすれば、その軍の力はこれまで各国が従えてきた軍とは比べようもなく、強いものとなるのだろう。
 しかし、そうやって男たちがいなくなり、働き手を失った村々は遠からず廃れていく。
 これが、豊臣秀吉の目指す、天下のかたちなのだろうか。
 は視線を動かし、夕日に照らされた幸村の横顔を、無言で見つめる。
「――幸村殿」
 信茂の声がしたので、は馬を退いて進んでくる茂信のために道を譲る。
 気づいた信茂が「かたじけない」と短く礼を言って、幸村に向き直った。
「そろそろ陽が沈みます。野営地を探しましょう」
「あぁ、」
 幸村は道の先を見つめて、曖昧な相槌をうつ。
 は眼を細める、その視線の先には、重い荷を運べずに難儀している老婆が見えた。
「すまぬ、小山田殿、」
 そう言って幸村は馬を止め、ひらりと降りると、老婆に駆け寄っていく。
 その様子を信茂は見つめ、小さく吐息してから、後方の部下たちに合図を送った。
 野営地を探すために部下たちが馬を駆るの背と、幸村を見つめる信茂の背、そして老婆に手を貸している幸村を、は眉根を寄せて見つめていた。






 村の端で、武田の一軍は火を焚いて野営をしている。
 一夜の見張りは交代制で、すでに仮眠をとっている者もいるから、自然と起きている者たちの言葉数は少ない。
「――食べろ」
 他の者たちとは少し離れた場所に腰を下ろしていたは、唐突に声をかけられてびくりと肩を揺らした。
「・・・・・・、甚八」
 いつの間にか傍らにいた甚八が、こちらを見下ろしている。
 おそらく佐助の命によるものなのだろう、甚八は他の者たちと同じ具足を纏った武田軍の風体で、この一軍に随行している。
 差し出されているのは椀で、中身は視界の端で皆がつついている雑炊だった。
 受け取りながら、は眉を下げる。
「手間をかけて、すまない」
「悪いと思うなら、自ずから食べに行け」
「・・・・・・そうだな、その通りだ」
 の食欲はいまだ本調子ではない。
 というより、食べないことに身体が慣れてしまったのか、食事をとることを忘れてしまうのだ。
 特に、今のように、
「――考え事か」
 甚八の指摘のように、物思いに耽ったときなどは。
 は雑炊を一口すすって、頷いた。
 その視線は、十歩ほど離れた場所で同じく雑炊を口に運んでいる幸村に向けられている。
「・・・・・・ひとりで考えても答えは出ないのではないのか」
 何を考えているのかなど、は口にしていない。
 だが甚八がそう言うのを聞いて、は小さく苦笑する。
「貴方には敵わないな」
 甚八の、言うとおりだと、思う。
「やはり本人に言うのが一番よいのだろう、」
 そう言って椀を置いて立ち上がろうとして、甚八がその腕をひいた。
「食べてから行け」
「・・・・・・」
 立ち上がりかけた中途半端な姿勢では一瞬言葉に詰まり、そして息を吐いて再び腰を下ろした。






 空になった椀を抱えたまま、眼の前で爆ぜる焚火の炎を見つめていた幸村は、地面に人の影が映ったのに気づいて顔を上げた。
殿」
「よろしいだろうか、幸村殿」
「もちろんでござる」
 返事を聞いて、は幸村の隣に腰を下ろした。
 そういえば、幸村とこうして会話をするのがずいぶん久しぶりのような気がする。
 記憶をたどれば、おそらく甲斐を発ったあの日から、二人で会話はしていない。
「・・・・・・何を、悩んでおられる」
「某が、でござるか?」
 意外そうな、声色だった。は頷く。
「そうだ。甲斐を発ってから、いや、敗戦のあの日からだ。貴方はずっと、何か思い悩んでおられるように、見える」
「・・・・・・、気をつかわせたのだな、申し訳ござらぬ。だが、殿がお気にされるようなことではないのだ」
「・・・・・・そうか」
 会話が途切れる。
 焚火の、薪の爆ぜる音。
 は意を決して、口を開く。
「・・・・・・貴方の性格はある程度わかっているつもりではあるが、我らにはあまり、時間がないのだぞ」
 旅立ってからこれまで、特に男手のない豊臣領に入ってからは頻繁に、幸村は民たちに力を貸している。
 先ほどの老婆然り、他にもがけ崩れで道を塞いだ岩を退けたり、泥濘に車輪をとられた台車を押したりと、や他の者たちも手伝いながら、頼まれもしないことを次々と解決していた。
 民たちからは感謝されているし、人助け自体が悪いことだとはも思っていない。
 しかし、信玄が言った通り、時間はない。
 豊臣と毛利の同盟が成らんとしている今、一行のすべきことは一刻も早く薩摩にたどり着いて、彼の地の軍勢と同盟を結ぶことだ。
「それは、――わかっては、いるのだ」
 絞り出すようにそう答えた幸村に、は平坦な声色で言う。
「貴方が率いているのは貴方の部下だけではない。今貴方が率いているのは、信玄公からお預かりした信玄公の家臣たちだ。貴方の、その個人的な考えだけで動かしていいものでは、」
「――よいのですよ、殿」
 言葉を遮る声に、は振り返る。
「小山田殿」
「私はお館様より、幸村殿の思うようにせよとの命を受けておりますれば」
 信茂はいつもの穏やかな声色で、そう言う。
「・・・・・・」
 は言葉を探し、しかし信玄の命であるならばそれはこの場において絶対であると理解する。
「とにかく、時間がないことだけは事実だ」
 それだけ言って、踵を返した。
 幸村は、答えなかった。

+ + + + + 

20120911 シロ@シロソラ
http://sirosora.yu-nagi.com/