第七章 第五話 |
その日を境に、雨が止んだ。 は幸村に付いて、信玄の寝室を訪ねていた。 室の中央に、信玄の大きな身体が横たわっている。 先ほど薬師が下がっていき、室内にいるのは幸村と、その背後に控える、今は姿を見せている佐助。 信玄の身体をはさんで向かい側に、の知らない男が控えている。 幸村はその者を知っているようだったので、武田家の家臣だろうかと思っている。 は幸村の背に視線を戻す。 帰還のあのときは取り乱した様子を見せていた幸村は、すぐにいつもの調子に戻っていた。表面上は、だが。 初陣からこれまで信玄の元で槍を振るってきた幸村の、これが初めての敗戦だったのだと聞いた。 敗れたことへの衝撃と、師と仰いで敬愛する主君の病。 見かけほど、心中が穏やかでないのだろうということは、誰の眼にも明白だった。 傍らに視線を動かせば、そこにいるのは常と何ら変わらない様子の佐助。動揺が広がっているこの躑躅ヶ崎館で、の見た限りは唯一平静を保っている男だ。 「――幸村よ」 信玄の声が聞こえて、は視線を信玄の方へ向ける。 「はッ、ここに」 幸村が手をついて、病床の信玄から見えるように身を乗り出した。 ――甲斐の虎の、このような姿を眼にする日が来ようとは。 戦の顛末は、小介が教えてくれた。 雨の中戦端が開かれ、両軍の力は拮抗しながらも、武田軍が押しはじめていたのだという。 近頃成長が著しいと聞く徳川家康だが、武将としての度量は信玄の方が数枚上手だったらしく、戦国最強の異名をとる徳川方の武人・本多忠勝の足止めにさえ成功すれば勝利は目前と思われた。本多忠勝の足止めを任されたのは、幸村だった。 そして、雨脚の強まる中、本陣で信玄が倒れる。喀血(かっけつ)したそうだ。のあまり詳しくはない知識では、それは肺に病を抱えている証であったかと記憶している。 本多忠勝との交戦中にそれを知った幸村は、佐助の制止を振り切って本陣に戻ってしまった。 その結果、止められる者がいなくなった本多忠勝を先鋒に武田軍は中央突破され、乱れた陣列を指揮できる者はなく、全軍の撤退を余儀なくされた。 自ら殿を買って出た馬場信春をはじめとした信玄の多くの腹心たちが、命を落としたと聞く。 自分が本調子で、戦に加わっていたならば、何か違う結果を残すことができたのだろうか。 仮定のことを考えても無意味とわかってはいても、は歯がゆさに拳をぎりと握った。 そして信玄の声が聞こえて、顔を上げる。 「・・・・・・薩摩に行け」 「薩摩、でござりますか」 幸村の、怪訝そうな声が聞こえる。にとっても同じことだった。薩摩は、日ノ本の南の最果て。この甲斐からは、大坂や京、西国も過ぎる先の先だ。 信玄のひどくゆっくりとした言葉が続く。 「豊臣が、毛利と同盟する兆しが、あるという。その同盟が成れば、最早日ノ本半分は豊臣の支配下と、なる。だが、九州は薩摩に、鬼島津がおる。貴様は武田の使いとして、彼の軍と同盟を成すのだ」 「ッ、それはつまり、薩摩の軍勢と共に西から豊臣を攻めると・・・・・・!」 「そうだ。――この信茂を貴様に付ける」 その言葉に、向いの男が頭を下げる。 「よいか、最早猶予はならぬ。あまり、暇(いとま)はなきものと、心得よ」 幸村が、がばりと平伏する。 「はッ!この幸村、身命を賭して!!」 その返事に満足したか、信玄は息を吐いて、衾にその身体を沈めた。 そして言う。 「貴様に・・・・・・武田の未来を託すぞ、幸村」 「いい、団子は一日ひとつまで、絶対に一人で突っ走らない、生水は飲まない。わかった?」 「・・・・・・お前は俺の母親か」 外套の前合わせを直しながら言う佐助に、幸村は眉をひそめながら答える。 先に旅装を整えていたは、己の荷物の確認をしながら、ふたりのやりとりを聞いている。 佐助は、躑躅ヶ崎に留まることとなった。 信玄の病についてはすでに館内にも箝口令が敷かれ、必要があれば影武者をたてるということだった。それもそのはず、武田信玄が病に臥したなどと他国に漏れれば、これを機とばかりに甲斐は攻め入られるだろう。豊臣軍が関東平定を視野に入れているならばなおさらだ。 そのため、自国の情報統制を確実に行いつつ、各国の正確な情報を集めることを、真田忍隊が任されたのだ。 としては、あの「幸村第一」の佐助が、他でもない主の行軍に随行しないなどよく承服したものだと思っている。 もちろん甲斐が危機に晒されればそれは幸村の身にも降りかかるのだから、甲斐に留まることは間接的とはいえ幸村の身を守ることにつながるのだが、それよりも、それほど「お館様」の命令は絶対なのだろうと考えて納得していた。 替わりにというわけではないだろうが、は幸村に随行することを信玄から命じられた。は相模と甲斐以外の地を知らないので、相応に緊張も感じながら、それを顔には出さずに、幸村の背を見ている。 その外套の背に記されているのは、武田菱。武田家の使者であることの証だ。や、他の随行者たちの外套にも同じものが刺繍されている。 「――サンも」 佐助がこちらを向いて手招きしたので、はふたりに歩み寄る。 「これ刀傷、こっちは火傷の薬」 差し出された巾着袋を受け取る。 「それからこっちが胃腸薬。アンタ食べ物合わないとすぐ腹壊しそうだからさァ」 溜息交じりに言われた言葉に、は仏頂面で答えた。 「気遣いはありがたいが・・・・・・、わたしはそのように子どもに見えるか」 「そりゃあ俺様から見れば、さ。これでも心配しすぎてもう胃に穴が開きそうなんだぜ?」 さめざめと泣き真似をしながらそう言う佐助を、は表情を変えずに見つめる。 「ならばこれは貴方が飲むべきだろう」 今受け取ったばかりの胃腸薬を差し出すと、佐助は泣き真似を止めてげんなりと息を吐いた。 「いやうんごめん、今のは言葉のあやっていうか。それはもうそのまま持って行って」 「・・・・・・そうか。しかし、貴方は本当に母親のようだな」 に母親の記憶はない。だが小田原にいたころ常にを気にかけてくれていた侍女を思い出して、感慨深げにそう言うと、佐助がじとりとこちらを見つめる。 「サンまで・・・・・・」 そして佐助はあきらめたように頭を掻くと、 「ったく――」 幸村との頭を両手でがっしと掴む。 「!」 「さ、佐助、何を!」 「そんなにオカンオカン言うンだったらオカンだと思って聞きな」 オカンとは母親のことだろうか。一瞬それを聞こうかと思ったが、有無を言わさぬ口調だったのでは黙って頷いた。 「いいか、お館様の言った通り、今回の旅には武田の命運がかかってる。見事成し遂げて、――必ず、無事で帰って来い」 行きな、と言って佐助はふたりの頭から手を離す。 「うむ、行ってむぁいるッ!!」 ぐっ、と拳を握りしめて、幸村が駆け出していく。 「――ちゃん」 「佐助?」 後を追おうとしたの背に声がかかって振り向く。 「これも、持ってってくれる?」 そう言って、手甲に包まれた佐助の手が差し出したのは、 「・・・・・・櫛?」 竹製だろうか、よく使いこまれたと見受けられる櫛だった。 伺うように佐助を見上げると、佐助は頬を掻きながら、笑った。 「旦那がさ、あのヒト自分で自分の頭結わないから。ないと困ると思って」 櫛ならば、髪を結うのに必要であるため、も一応持ってはいる。 しかし、はそれを受け取った。 「――承知した。これは帰った折に、貴方に返そう」 「別にいいよ、持ったままでも」 視線を逸らした佐助を見て、は眉を下げる。 「素直ではないな、貴方は」 「・・・・・・、アンタにそんなこと言われる日がくるとはね」 嫌そうにそう言って、佐助は幸村の方を指す。 「ホラ、行きな。時間はいくらあっても足りないんだからさ」 「ああ、」 は小さく笑って、礼をした。 「では、行って参る」 そして駆けていく背中を、佐助はひらひらと手を振りながら見つめる。 「いやいやそんな心配なら櫛なんかじゃなくて分身のひとりでも付けりゃあいいのに!佐助ならこっから薩摩でも分身動かすの余裕っしょ!?」 「こ・・・・・・ッ!」 木の影からその様子を見ていた傍らの小介がいつも通りではあるがとんでもないことを口走ったので、忍びは慌てて小介の口を掌で覆った。 「むー!」 「いいから黙れ、お前命知らずすぎる!」 佐助がこちらを気に掛ける様子はないが、忍びというものは概して耳がいい。おそらくこちらの会話は筒抜けだ。 「もー俺いやっすよこいつと張り番すンのー!」 「おや、好き嫌いはいけませんね鎌之助」 唐突に背後から聞こえた声に、由利鎌之助という名のその忍びは猫のように毛を逆立たせて驚いた。 「さっ才蔵さん、」 音をたてずに現れた才蔵は柔和な笑みを浮かべたまま、視線を佐助へ向けている。 「小介、お前もいい加減『口は災いの元』の意味を覚えましょうね。・・・・・・とはいえ、いかにお館様のご命令でも、あの長が長旅に出る幸村様に同行しないなんて正気の沙汰とは思えません」 「・・・・・・」 才蔵が現れて助かったと思ったのも一瞬だった。 「口は災いの元」、才蔵も(主に佐助に対して)その言葉に真っ向から勝負を挑み続けている忍びのひとりだ。 勘弁してくれと思いながら、鎌之助はわずかに涙目で息を吐く。 それに気づかないふりをして、才蔵はにこにこと笑う。 「まあ、幸村様おひとりというわけでもありませんし、甚八は付けたようですしね。今は幸村様を信じるしかないでしょう」 「それはそうっすけど、ってうわお前舐めるな気持ち悪ッ」 口を塞いでいた掌を小介に舐められて、鎌之助は慌てて手を離す。 こちらを見上げた小介が、幸村の顔で嫌そうに口を曲げる。 「ったくさァ、俺の口を塞ぎたいんなら唇使ってくんない?手とかないわぁー」 「・・・・・・お前本当に気持ち悪いな・・・・・・」 げっそりとした鎌之助がため息交じりにそう言ったのと、 「お前らさァ、忍んでるって自覚ある?」 背後から軽い口調のその言葉が聞こえたのが同時だった。 「!!??」 がばと声の方向を振り返ればそこににこにこと――得体の知れない笑顔を張り付けた佐助がいて、館の方に視線を返せばそこにも確かに佐助が立っている。 「っげ、才蔵のやつ逃げやがった」 小介が気づいて嫌そうに言い、小介や才蔵ほど強い心臓を持っていない鎌之助は最早これまでかと涙した。 離れた場所から小介と鎌之助の情けない悲鳴が聞こえる。 「・・・・・・ったく」 佐助は支度の為に室内に出していた着物や道具の片付けを侍女に任せて、軒から屋根に跳んだ。 屋根の上からは、ちょうど騎馬の一軍が躑躅ヶ崎を発つのが見える。 外野に言われずとも、佐助自身、あそこに自分が付いて行かないことが不安で仕方がない。 信玄が選別した部下たちは小山田茂信をはじめ若手の中でも経験のある者も多いが、しかしあの状態の幸村が一軍の将として役目を果たせるのかどうか。 についても、信玄が名指しで命じたから行かせたが、そうでなければ恐らく幸村も随行を許さなかったのではないかと思う。 小介の言うとおり、分身のひとりでも付けたいのは山々だった。 だが、未曽有の危機に直面しているこの国を守るためには、余計な力を使っている余裕はないのが実情なのだ。 信玄の肺病、薬師の見立てではおそらく――助からない。 幸村が帰還するまでに世代交代の地盤づくりを整えなければならないし、うっかり他国が攻め入ってこようものなら信玄の病を隠したまま戦に勝たなければならない。 それら全てが忍びの仕事であるわけはないが、それら全てに必要な情報を得るのは忍びの仕事だ。 はっきりと見えるぎりぎりの距離、遠ざかる騎馬隊の、先頭を行くその背を見つめる。 念のために下忍は何人か潜り込ませているし、決して余裕はない躑躅ヶ崎の人手を割いて甚八も付けた。 万が一のことがあっても幸村と、可能ならばの身の安全だけは確保できるように、打てるだけの手は打ったのだ。 それでも。 「お母上は大変ですねえ」 わざとなのだろう、気の抜けたような声がして、佐助はいらいらと息を吐く。 「『正気の沙汰じゃない』ってんだろ?」 「おや聞こえていましたが、それは失礼」 どう聞いても謝っているようには聞こえない才蔵の言葉を無視する。 それを意に介した様子はなく、才蔵は佐助の半歩後ろから、遠く薄れていく騎馬の一軍を眺めている。 「仕方がありませんよ、長。成るようにしか成りません」 「お前が言うとなんか嫌だっつの」 佐助はそう言ってもう一度息を吐いてから、才蔵に向き直る。 そこにはもう、先ほど幸村に母のようだと言われた表情はない。 「――全員集めろ、才蔵」 才蔵が畏まって膝をつく。 「俺らにはもう、一瞬たりとも遊んでる暇はないんだ」 真田忍隊の長の、それは温度を感じさせない声だった。 |
20120907 シロ@シロソラ |
http://sirosora.yu-nagi.com/ |