第七章 第四話

「――、なんですって、が?」
 傍らで手をつく侍女の報告を受けて、黄梅院は褥から半身を起こした。
「はい、さきほど到着されました。雨の中長く馬を駆られてきたようで、とりあえずはと湯殿にご案内しております」
「・・・・・・わかったわ、表着(うわぎ)を持ってきて」
「ですが、」
「いいから早くなさい」
 強い口調で命じられて、侍女は平伏して室を後にした。






 はひとり、通された室で腰を下ろしている。
 躑躅ヶ崎館に到着したのは一刻ほど前のこと、雨の中馬を乗り換えながら強行してきたせいで全身泥まみれのひどい有様で、顔見知りの女中すら驚かせてしまった。
 このままでは館内に上がることも憚られるような状態だったので、湯殿を借りて泥を流し、借り物の着物に袖を通して一息ついたところである。
 同行してきた甚八の姿はないが、おそらく天井裏にいるのだろうと思っている。
「――
 声がかかってそちらに視線を向けると、侍女に先導されて黄梅院がこちらにやってくるところだった。
「黄梅院様!」
「しばらくぶりね、元気にしてた?」
「は、変わりはありませぬ」
 手をついて答えたの前に、黄梅院が腰を下ろし、扇子を広げて視線をこちらに向けた。
「――お父様なら、まだ戻られていないわ」
「さきほど、そのように伺いました。もう間もなく、ということですが」
「・・・・・・大丈夫よ、」
 無意識に俯けていた視線を上げて黄梅院を見ると、扇子の向こうの眼は穏やかに微笑んでいる。
「そう簡単にどうこうなるような人たちじゃないわ。・・・・・・ていうか、貴方も戦に出ているのだとばかり思っていたのだけれど」
「は、・・・・・・幸村殿に、上田に留まるよう申し付けられ、」
「あら、じゃあだめじゃない、上田でじっとしてなきゃ」
 そう言われて、は言葉に詰まる。
 黄梅院の言うとおりだった。
 今のの主は幸村で、その幸村が上田に残れと命じたのだ。
「――冗談よ、もうったら相変わらずからかいがいがあるんだから」
「こ、黄梅院様、」
 わずかに眉根を寄せたは、館内の気配の変化に気づいてぴくりと肩を動かす。
 次の瞬間、の背後に忍びが現れた。
「甚八」
「戻られた」
 短くそう言われ、は黄梅院を見る。
 察した黄梅院はうなずいて見せ、は礼をすると立ち上がり、室を出て行く。
 その背姿を見送りながら、黄梅院は扇子を閉じる。
「・・・・・・また何か、悩んでるのかしら」
「――黄梅院様」
 控えていた侍女が歩み寄り、黄梅院に手を差し出す。
「ありがと」
 その手を借りて立ち上がり、黄梅院は小さく息を吐いた。
 ――もう、私は口を出さない方がいいでしょうね。
 





 先導する甚八を追う、仮にも武田信玄の居館でおいそれと走るわけにはいかず、はもどかしく足を動かす。
 そのうち、雨に煙る庭園の向こう、人影が見える。
「――!」
 濡縁からが飛び降りたのに気づいて甚八が驚いたように振り返り、短く嘆息した。
 は庭園を横切るように走る。
 雨脚は已然として強く、ばちばちと雨粒が顔に当たる。前髪が額にはりつくのを苛々と手で除ける。
 せっかく着替えた着物がまたすぐに濡れそぼって、肌に張り付く感覚が気持ち悪い。
 ほどなくして、緋色の具足の足軽兵たちが見えた。武田軍の兵士たちだ。
 手近な兵士に掴み掛るように言う、
「真田隊は何処か!」
 泥にまみれて疲れ切った表情の男が、のろりと腕を上げて後方を指さす。
「かたじけない!」
 雨のせいで息が上手く吸えなくて、苦しい。
 心の臓の音が耳障りだ。
 兵士たちをかき分けるように進む、ついに見覚えのある人影が視界に映る。
「――幸村殿!!」
「・・・・・・サン?」
 答えたのは佐助だった。
 幸村は、佐助に肩を支えられて立っているようだ。顔を俯けていて、表情が見えない。朱色の二槍は、後ろに控える才蔵が持っている。
「無事か、佐助!幸村殿は、」
 漸く二人のもとにたどり着く、わずかに乱れた息を整える。
 二人とも、いや背後に控える家臣たちも、泥に汚れたひどい恰好だったが、目立った傷はないように、見受けられた。
「・・・・・・サンがなんで躑躅ヶ崎(ここ)にいるの」
 平坦な声色に、は肩をこわばらせて佐助を見上げ、その視線が己の背後に向けられていると気付く。
 振り向くと甚八がそこに控えていて、に草履を差し出した。
 足元を見下ろす。そういえば、素足のまま出てきてしまっていた。砂利の敷かれた庭園を全力で走ったせいか、爪が割れて血が滲んでいるところがある。
 小さく頭を下げてから草履を受け取って、佐助の方に向き直る。
「――違うんだ、わたしが甚八に命じて、こちらに来たのだ」
「俺様はお前に聞いてるんだ、甚八」
 およそ温度の感じられないその双眸に、は思わず言葉を飲み込む。
「・・・・・・申し開きのしようもございません」
 の背後、膝をついた甚八が、そう静かに言う。
 それを聞いて佐助は小さく息を吐き、そして視線をに向けた。
「アンタも、何のために旦那が上田に留めたと思ってんのさ」
「・・・・・・、すまない、だが、」
 居ても立ってもいられなかったと言おうとしたその時、顔を俯けていた幸村から、小さな声が聞こえた。
「・・・・・・、殿・・・・・・?」
「!」
 その声を聞きつけて、は幸村に歩み寄る。
 わずかに身を屈めて、下から覗くように幸村の顔を見る。
「そうだわたしだ、申し訳ない、貴方の命令を無視してここに、」
、どの、」
 の言葉を聞いていないのか、幸村はもう一度つぶやいて、ゆらりと一歩前に踏み出す。
「旦那?」
 佐助の肩に預けていた腕を解き、そのままの方に倒れ込むように身を傾けた。
「ッ、幸村殿!?」
 はとっさに左足を後ろに引いて重心をとり、幸村の身体を支える。
「幸村殿、どこか痛いのか、」
 無言で、幸村がの背に手を回す。
 まるで、縋りつくように。
 その肩が、細かく震えていると、気づく。
「・・・・・・泣いて、おられるのか・・・・・・?」
 の肩に埋めた顔は見えない。声は聞こえない。
 はおそるおそる幸村の背に回そうとした手を、その背に触れる寸前で止めた。
 拳を握って、そのまま降ろす。
 戦に連れて行ってもらえず、幸村を守ることもできない。
 この背に触れられる資格は、自分には、ない。
 雨が地を叩く音だけが、いつまでも耳に残った。

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20120905 シロ@シロソラ
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