第七章 第三話

 地を打つ雨は止まない。
 この辺りの地盤は割としっかりしてる方だけど、と思いながらつま先でぬかるむ地面をつついてみる。
 これは荒れた戦になるのだろうと、佐助は息を吐いてから、傍らの主に視線を映した。
「・・・・・・何考えててもいーけど、そろそろ集中してよね」
「・・・・・・わかっておる」
 それがわかってるって顔なの、心の内でもう一度ため息を吐く。
「そんなに気になるンならさ、連れて来たらよかったんじゃないの」
 そう言うと幸村は眉根を寄せた表情のままこちらを向く。
「それはならぬ」
 佐助もわかってはいるのだ。一度決めれ梃(てこ)でもまず動かない、幸村にはそういう、ある種頑固といえるような部分がある。
「――なら、わかってるでしょ。旦那が今ここですべきは、あの子のことを考えることじゃない」
「・・・・・・」
 今度は返事はない。
 幸村は視線を、前へと戻す。
 これから合戦場となる、開けた平地。
「・・・・・・ま、サンを連れて来ないっていう旦那の選択は正しかったと、俺様は思うよ」
「佐助・・・・・・」
「この雨だ、どう考えたっておキレイな戦になんかなりゃしない」
 まぁそんなのあの子には何の言い訳にもならないんだろうけど。
 そう続けた佐助の声を聞きながら、幸村はその感触を確かめるように、二槍を持つ両腕を見下ろした。
 そう、これまでと何ら変わらぬ。
 守るためのたたかい。
「――来なすったか」
 佐助の平坦な声に、視線を上げる。
 雨に煙る視界の先、薄らと見える軍勢の影。
 そして、その中で一際異彩を放つ、大きな人影。
 ――守ってみせる。
 ぐ、と二槍を握る拳に力を籠めて、幸村は毅然と前を見据えた。
「では、参るぞ」
 その言葉と、同時。
 敵軍から鏑矢が放たれた。
 降りしきる雨の中にあってなお、空を切り裂く甲高い音を長く響かせて、それはやがて突撃のほら貝と怒号に変わっていった。






 昼だと言うのに仄暗い室で、は刀の手入れをしていた。
 打粉を片付け、手入れの済んだ刀を持ち上げて、その刃に、自分の顔がくっきりと映るのを確認する。
 ――最近、顔が変わったような気がする。
 そもそもは男子として生きているので、鏡をじっくり見るような習慣はないのだが、それでも髪を結う際などにちらと見る分には、男として自然に見える顔つきをしていた、はずだ。
 だが、今この刃に映っている、顔は。
 その眼つきといい、口元といい、まるでおなごだ。
 これでは女だと言われても致し方ないな、と吐息する。
 そう言った独眼竜の顔を思い出して、その傍らにいた従者の男の顔を思い出した。
 ふと思い立って、右手の指を頬に這わせる。
 あのような、大きな傷のひとつでもあれば、男らしく見えるだろうか。
 額の傷も、前髪を上げれば目立つ大きさなのだが、これは完全に打ち負けた痕なので、明らかにするのは少し恥ずかしい。
「・・・・・・そもそも」
 無意識に口から漏れた言葉の続きを、思考する。
 ――もはや男に見えずとも、よいのかもしれない。
 北条は潰えた。の血族は、相模の獅子を守るというその唯一の目的を、すでに失っている。それは、の家の終焉を意味する。
 当主としてのは、もう不要な存在なのかもしれない。
 それに、幸村も佐助も、そしておそらくは他の忍びたちも、が女であると知っている。
 それならば必ずしも男に見えなければならない理由はないのかもしれない、と思い至る。
 もちろん、今世にあって武人として生きるなら、男装は不可欠だろう。
 今更女のように生きることができるとも思えないし、とそこまで考えて、は刀を鞘に納めた。
 視線を上げて、開け放した障子の向こうへ動かす。
 降り続いている雨が、また強さを増したようだ。
 何日目だろう、と思って、幸村が出陣していったあの日からの日数を数えてみる。
 あの日から、雨が止まない。
 雨脚は弱くなったり、強くなったりを繰り返している。
 さきほどは止みそうなほど弱かったから、このまま晴れるのかと思っていたのだが。
 戦場も、雨だろうか。
 雨の戦は嫌いだ。
 血と、泥にまみれた戦いは、いつにも増して心が冷える。
 ――終わりさえすれば、強い雨は、身体中にこびりついた血を洗い流してくれる作用もあるのだが。
 幸村殿、佐助。そして、信玄公。
 無事だろうか。
 あるいは晴天が続いていれば、このようなことは考えなかったのかもしれない。
 小田原攻めにおいても、は武田軍の強さを、改めて目の当たりにしたのだ。
 めったなことでどうにかなるようなものではあるまい。
 そう、思うのだが。
 視界の端に動くものがあったような気がして、は立ち上がる。
 濡縁に出るのと同時、すうと滑るようにこちらへ飛んできたのは、
「・・・・・・鴉?」
 カア、と一声、鴉はの姿を見つけると、ふわりとその肩に止まった。
 驚いて己の右肩を見ると、閉じた翼から水を滴らせて、鴉がもう一声鳴く。
 そして、まるで猫が人にじゃれるように、濡れた頭をの頬に摺り寄せた。
「・・・・・・貴方、は?」
 この鴉が纏っている気配に、覚えがあるような気がする。
 鴉に知り合いはいなかったはず、と考えていると、背後に甚八が降りてきたのに気付いた。
「甚八?」
「失礼する。それは、長からの文なれば」
「文?」
 の驚いたような声に構わず、甚八は立ち上がって鴉に手を伸ばす。
 甚八の手が触れた瞬間、その鴉は闇色に滲んで姿を消し、甚八の手には紙の文が残った。
「!」
 忍びの術は奇怪だと思いながら、黙して文に眼を走らせる甚八の様子を窺う。
 長――佐助からの文だ。
 今この時期ならば、その内容はおそらく、戦に関すること。
 何か、あったのか。
 期待よりも不安の方が勝ったその想いは、甚八が眉をひそめたのを見て強くなった。
「・・・・・・何が、書いてあるのか、聞いてもよろしいか?」
 聞くと、甚八は文を懐に納めながら、しばし逡巡して、口を開いた。
「・・・・・・戦は、敗けた」
 は大きく眼を見開く。
「な、んだと・・・・・・?」
 絞り出すように言ったその言葉に、甚八は淡々と答える。
「お館様が、病に倒れられた。全軍は一度、躑躅ヶ崎へ撤退するとの由」
「・・・・・・ッ、それで、幸村殿や佐助は、」
「――書いてあるのは、それだけだ」
 甚八の、静かな声が、心の臓に突き刺さるようだった。
 は一度息をのむ込み、拳を握る。
「――馬をひいてくれ」
 甚八が、を見下ろす。
「雨が止むまでは、待たれた方が」
「馬をひけ、今すぐにだ!」
 甚八の言葉にかぶせるように、は言った。
「我らの主の安否がわからんのだぞ、ここで待てるわけがないだろう!」
 その言葉に押されるように、甚八は頭を垂れた。
「――承知した」

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20120905 シロ@シロソラ
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