第七章 第二話

 くらりと傾き、前のめりに倒れ込みそうになるの身体を抱きとめて、幸村は小さくつぶやくように言った。
「・・・・・・すまぬ、殿」
「これで丸一日は眼を覚まさないよ」
 佐助の言葉に、小さく息を吐く。
 思い返せば、小田原攻めが武田の圧勝に終わったあの日から、兆しはあったのだ。
 の様子がおかしいと確信を得たのは、久しぶりの鍛錬中であった。
 太刀筋や身のこなしはいつものそのものであったのだが、着物の袖から覗く腕の細さが気になった。元々細いとは思っていたが、これほどまでであっただろうか。
 鍛錬の後甚八を呼び、このところのは食事や睡眠を満足に摂っていないようだとの報告を受けた。
 すぐさまのもとに行こうとした幸村を止めたのは佐助だ。
 の性格からして、そうした変調は周りに気取られたくないはずだ、不用意に踏み込めばさらに心を閉ざして悪循環になる恐れがあると、そう言われて納得は、した。
 だが、だからと言って放っておけるわけはない。
 上田に戻ってからというもの、政務もあって食事を摂れる時間が日によって違ったために、と食事を共にすることはなかったのだが、それ以来、多少無理をして時間を作ってでも朝夕の食事はと顔を合わせてとるようにしている。
 膳に用意する食事の量自体を極端に減らしても、箸をつけない日もあるとのことだったが、幸村が前にいればまったく食べないということはなかった。
 原因は、あの小田原攻め以外に考えられない。
 それがわかっていても、今の幸村にはどうすることもできず、ただ、本当にが倒れてしまうことのないようにこうして見守ることしかできないのだ。
「ま、バレたら怒られそうな気がするけどねぇ」
 薬入りの茶を片付けながら、佐助は苦笑する。
 幸村は、の身体を抱きしめる腕に力を籠めながら、その声を聞いた。
「致し方、あるまい」
 力なく伏せられた長い睫毛。いつにも増して白い肌。
 そして、もうわずかでも力を強めればこのまま折れるのではないかと思われるような細い体躯。
「このような状態の殿を、戦には連れて行けぬ」
 示し合わせたように、そこに甚八が現れる。
 幸村はもう一度の顔を見てから、その身体を甚八に預け、立ち上がった。
「――では、参るぞ、佐助」
 佐助は膝をついて、主を見上げた。
「御意」






 沈んでいた意識が、急に浮上する。
「・・・・・・」
 どうやら眠っていたのだと気付き、頭の中に記憶がめぐる。
 そうだ、戦だ、眠っている場合では、
「・・・・・・ッ、」
 意識して眼をあける、右手をついて身を起こし、
 ――周りが暗闇だと気付いた。
 ぐらりと、視界が揺れる。
「――ッ、く」
 額を抑える。
 頭が重い。
 一体、何が――
 とん、とごく軽い力で肩を押されて、それだけでの身体は再び衾に沈み込むように倒れた。
 こちらを見下ろす顔に、漸く焦点が合う。
「・・・・・・甚八・・・・・・」
「薬が切れるのはまだ先だ、寝ていろ」
「くす、り・・・・・・?」
 その言葉に、記憶がつながる。
 あの、茶に。
 用意した忍びの顔が、頭をよぎる。
「佐助、か、」
「命じたのは幸村様だ」
 その名に、少なからず衝撃を受けた。
 が知る幸村は、ひとを騙すようなことはしない。
 その幸村が、自分に薬を盛るなど。
 だんだんと周りの状況が目に映るようになる、今はおそらく深夜、あまり人の気配がないのは、すでに幸村が出陣した後だからだろう。
 それほどまでに。
 薬で眠らせてまで。
「わたしは・・・・・・いらないのか・・・・・・」
 口から漏れたその言葉に、甚八が首を横に振った。
「違う」
 そして、甚八の大きな掌が、の視界を覆う。
「今は、寝ていろ。――幸村様のお役に立ちたいのなら、まずはその体調を万全に整えるべきだ」
 再び暗闇に落ちた視界の中、は意識が沈んで行くのを感じる。
 甚八の、低くて静かな声が、こころの内に滲むように溶けていく。
「・・・・・・そう、だな・・・・・・」
 再びが小さく寝息を立て始めたのを確認してから、甚八は掌をどけ、その年相応の寝顔をしばらく見つめてから、音もなく姿を消した。





 鳥の声で目が覚めた。
「・・・・・・朝・・・・・・?」
 ぼんやりと、首を動かして障子の方を見やる。
 明るい光が、差し込んでいる。
 何度か瞬きを繰り返し、目の焦点があってから、はゆっくりと身を起こした。
 久しぶりに、深く眠った気がする。
 元来は眠りが浅い性質なのだが、このところはいつにも増して眠れていなかった。
 だんだんと意識がはっきりしてきて、記憶がよみがえってくる。
 もうすぐ、徳川軍との戦だ。
 しかし、自分は置いて行かれた。
 ――体調を崩していると、思われたのだろう。
 本人としては、別段身体に不具合はなく、いつも通りだと思っているのだが、おそらくは、食事の量が減ったことを気遣われたのだと、思い至った。
 この上田にいる間は、どこにいようと甚八が傍にいるはずなのだから、甚八が気づいたとして、それを幸村に報告するのは当然と言えば、当然である。
 それよりも。
 思えば幸村には、小田原攻めのことでずいぶんと気を使わせている。
 戦場で敵将を殺めるのは武人として当然のことで、それがにとって親しい間柄の者だったとしても、幸村が気にするようなことは何もないと言うのに。
 は無意識のうちに、褥についていた手をぎり、と握る。
 何のために、自分はここにいるのか。
 何のために、幸村の傍にいることを選んだのか。
 脳裏に幸村の、こちらを窺う沈んだ表情がよぎる。
 少なくとも、あのような顔をさせるためでは、ないはずだ。
 は立ち上がり、障子へ歩み寄る。
 ゆっくりと障子を開けると、陽の光が帯のように差し込んで、の肌を照らす。
 晴れた朝の、清廉な空気を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
 戦に連れて行ってもらえなかった、それは事実だ。今から何をどうできるものでもない。
 ならば、ここに留まった自分が、できることは。
 これ以上気を使わせることのないように、いつものとおりに過ごすこと。
「――甚八」
 名を呼ぶと、すぐ背後に忍びが降り立った。
 そちらを振り向いて、膝をついて顔の高さを合わせる。
「昨夜は、手数をかけた」
「気になされることではない」
 顔を伏せたままの甚八からは、いつもどおりの有無を言わさぬ、それでも優しさの感じられる声。
 は小さく息を吐いて、口を開く。
「いつもより寝過ぎたようなのだが・・・・・・朝餉は、まだ残っているだろうか」
 顔を上げた甚八は、眼前のの口元に、わずかな笑みが宿っているのを見た。
「――すぐ、お持ちする」
 そう答えて、甚八が姿を消したのを見て、は立ち上がる。
 障子の方を振り向いて、濡縁に歩み出ようとして、
 ぽつ、と水滴が、頬に当たった。
「・・・・・・雨?」
 空を見上げる。
 先ほどまで庭園を照らしていた太陽が、昏い雲に呑みこまれるところだった。

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20120831 シロ@シロソラ
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