第七章 第一話 |
夢を見ているのだと、は自覚する。 己の身体以外に何も見えない、暗闇の中を歩く夢だ。 とても寒くて、冷えきった手足の感覚が覚束ない。 いつでも抜けるように、左手を刀の鯉口にかける。その感触だけがやけにはっきりとしていて、それゆえに不安はなかった。 進む足取りも、迷うことはない。 行先は、決まっているのだ。 守るために、この道を進もうと決めたのだから。 守る。 ――何を? 問うような声が聞こえた。 決まっている、と答えた。 あの、太陽のようなひとを。 脳裏に笑顔が浮かぶ。 それだけで、あたたかい気持ちになる。 実際に辺りが明るくなって、暖かくなっていた。 見上げると、頭上に燦々と輝く、太陽。 そう、あれを、守るために。 行先を見据えるべく、視線を前方へ戻す。 そこで、気づく。 己の足が、今踏みしめているものが、何なのか。 背後を振り返る。 これまで通ってきた道筋。 延々と連なる、骸の山。 そして、ここから続く道。 累々と転がる、屍の山。 恐る恐る、足元を見下ろす。 そこに、よく見知った顔がある。 この手で、殺した。 見下ろした両の手が、べったりと赤く汚れている。 ――痛イ。 どこからか、声が聞こえる。 ――苦シイ。憎イ。痛イイタイイタイ。 怨嗟の声が、幾重にも幾重にも、耳に木霊する。 ――許サナイ。殺シテヤル。死ネ。 わんわんと反響するその声が、まるで全身に絡みつくようで。 ――死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ・・・・・・ 口から、ねじくれた悲鳴が漏れた。 「――ッ!!!」 眼を開く、月明かりに照らされた夜更けの暗い天井が視界に飛び込んでくる。 何が起こったのか理解できなくて、がばと身を起こす。 全身の血流が、暴れるように脈打つのが感じられる。己の呼吸の音が、耳に障る。 両の掌を見下ろす。 いつもどおりの、何の変哲もない、手だ。 血など、付いてはいない。 「・・・・・・ッ」 心の臓が、軋むように痛んで、夜着の胸元を掻き抱くように握る。 ひゅう、と口から音が漏れる。 息、が。 ――落ち着け。 己に言い聞かせる。 大丈夫だ。何もここが水の中だというわけもない。息は、吸える。 落ち着け。大丈夫だ。大丈夫。 薄く開いた口から、ゆっくりと、細く、息を吐きだす。 そして恐る恐る、少しずつ、息を吸う。 大丈夫。大丈夫。大丈夫。 しばらくの間そうしてゆっくりと呼吸を繰り返す。 漸く、心の臓の痛みが薄らぐ。 あの、骸の山を歩く夢を見たときは、いつもこうだ。 上掛けの下で膝を立て、その両膝を腕で抱える。額を、膝につける。 このこころが、弱いのがいけない。 だからあのような夢を見る。 強くならなければ。 視線を上げて、枕元に移す。 そこには刀と、畳んだ手拭いが置いてある。 腕を伸ばす、手拭いにそうっと触れる。 そこに刺繍された、「幸」の文字を、瞬きもなく見つめる。 大丈夫。 大丈夫だ。 この程度、痛くもなんともない。 大丈夫、大丈夫、大丈夫―― まるで呪詛のように、はその言葉をこころの中で繰り返していた。 見ごろを終えた桜は、新緑へとその姿を変えている。 うららかな春の日差し、開け放した障子からは、爽やかな風がわずかに緑のにおいを乗せて入り込んでくる。 は、手にしていた汁物の椀を膳に置いて、向かい合って朝餉をとっている幸村を見つめた。 外の、穏やかな様子とは裏腹に、幸村は何やら沈痛な面持ちで、こちらを見ている。 上田に来てから、幸村と食事をとることはなかった。小介が留守を守っていたとはいえ、冬の間にたまった政務もあったのだろうし、先の小田原攻めが勝利に終わってからは戦後処理も何かと煩わしいことがあったのだろう。 そのため、たまに手が空いたのだろう佐助や小介が顔を出すことはあっても、は基本的にひとりで食事をとっていた。 自分の傍には常に甚八がいることを認識はしているが、彼は忍びが食事の場に同席することをよしと考えていないのか、声をかけても食事を共にすることは断られたのだった。 とはいえ、ひとりで食事をとることが嫌だなどと思ったことはなかったし、それに最近のにとってはそれが好都合でもあった。 いつからだろう、と思い返せば、小田原攻めが圧勝に終わったあの日からだと、思い出す。 あれ以来、食事が喉を通りにくい。 そもそも、腹が減らないのだ。 病でも得たのかと思ったが、特段身体に不具合はなくいつもどおり動くので、心因性のものだろうと結論付けた。 恐らく、夢見が悪いことと、同じ理由だ。 もちろん出されたものを残すということはあまりにもったいないことだとも理解している。だからできる限り、食事の量は減らしてもらっている。 先日久しぶりに幸村から鍛錬の手合せに誘われて、そのときもいつも通りの動きができたので、何ら問題はないと納得していた。 ところが、その鍛錬の日の夕餉から、幸村が食事を共にしたいと言い出した。 に断る理由はなく、誰かと食事をとることが久しぶりで、その相手が幸村なのであれば願ってもないことと、いつもより食事に箸を付けたのだったが、どうも幸村の表情が晴れないのだ。 「・・・・・・いかがなされた、幸村殿」 そう問うてみても、幸村は明確な回答を避けている。 「い、いや、何も。しかし、やはり春は野のものがおいしゅうござるな」 「ああ、そうだな」 幸村の言葉に頷きながら、菜の花の煮物を口に運ぶ。 旬のものが美味でないはずがないのだが、正直のところ味がよくわからない。 それでも幸村に気取られぬように、なんとか飲み込んだ。 「・・・・・・、その、何か不自由なことはござらぬか」 幸村がこちらを見て、そう言った。 は眉を下げて、小さく笑う。 「貴方もよくよく過保護だな、幸村殿。貴方も、佐助も、甚八や他の者たちも、これ以上ないくらいよくしてくれているではないか」 幸村の質問の意図がわからずそう答えると、納得したのだろうか、幸村は「左様でござるか」と短く答えて、そして会話が途切れる。 ふたりの食事は、静かだ。 も幸村も、食べながら話すということをあまりしない性質であったが、それでも躑躅ヶ崎では黄梅院や佐助も交えてそれなりににぎやかであったと記憶している。 あるいは、幸村は自分の変調に気づいているのかもしれない。 気を、遣わせているのかもしれない。 ――そう思うと、喉元から今しがた飲み込んだものがせり上がってくるような感覚があった。 「っ」 箸を置いて、気を落ち着かせる。 ゆっくりと嚥下する、妙な味が口の中に広がるのを、唾を飲み込んでやり過ごす。 大丈夫。 こころの内でそう思ってから、幸村を見る。 幸村は何も言わない。 だがその眼が、問いかけるようにこちらを見ている。 やはり気取られているのだろう。 だが、これは自分の問題で、幸村が気に掛けるようなことは何一つないのだ。 心配しないでほしい、そう伝わるように口の端を上げてみせる。 上手く笑えているといいのだが。 「――それより、幸村殿。そろそろ出立の準備をせねばなるまい。日が高いうちに出なければ、不都合なのではないか」 会話を変えるように、そう切り出した。 そう。 あまりのんびりとしていられる時間はない。 今日これから、戦に出るのだ。 の室には、あの紅の陣羽織も用意してある。 時代は、大きく動き始めていた。 謀反にて主君を討った織田信長の部下、明智光秀を早々に討ち果たした豊臣秀吉の勢いは、凄まじい。 第六天魔王と恐れられた男とは異なり、豊臣秀吉の脅威たる所以は彼の男本人の驚異的な力だけではなく、その大規模な軍事力でもあった。 戦国一と誉れ高い軍師を傍らに、前田や徳川などの名だたる武将を傘下に置いて、大坂を拠点とするその軍隊の手は、まさに破竹の勢いで日ノ本全土を覆わんとしている。 この東国も例外ではなく、先だって忍隊が持ち帰った情報で、徳川の軍勢が甲斐に迫っていることがわかった。 信玄の見立てでは決戦地は甲斐の国境、真田隊も今日にはこの上田から出陣する手はずとなっている。 「・・・・・・その、ことだが、殿」 沈黙を破って、幸村はの眼をまっすぐと見つめた。 「此度は、そなたはこの上田に留まられよ」 「・・・・・・は・・・・・・?」 はわずかに眼を見張って、瞬きをする。 先日この上田城でも軍議が行われても参加した。合戦地までの道のりも、陣列も、頭に入っている。 「何を申される、徳川公は過去に信玄公に敗れたことがあるとはいえ、戦国最強を擁する強敵と、言っておられたのは貴方だろう」 「そのとおりでござる、なればこそ、」 幸村がそこで、言葉を切る。 不安がこころに広がる。 自分は何か、失態を犯しただろうか。それとも、 「――わたしが、足手まといだと、いうことか」 「そうではない!」 の言葉に、幸村は弾かれたようにそう言い、しかし後の言葉が続かない。 「ならば、何故、」 「――ほらほらお二人さん、何を朝から言い合いしてンのさ」 いつの間にか二人の前に現れていた忍びの姿に、幸村は眉を動かす。 「佐助!」 「はい、食後のお茶。サンもどーぞ」 言いながら佐助はふたりの膳を下げて、代わりに茶を差し出す。 幸村はその茶に口をつけて一息、 「お願いでござる、殿。今回ばかりは、ここにいてくだされ」 その言葉を聞いて、は茶を一口啜り、静かに湯のみを茶卓に置く。 「わたしは、貴方の役にたつために、貴方に士官したのだ」 刀を握る決意をしたのだ。人を斬ってでも守ると。 だから。 「ここに留まれと言われるなら、相応の、り、ゆう、を――・・・・・・」 唐突に、視界が揺れた。 何だ。 瞬きをする、しかし大きく視界が傾ぐ。 その視界に、佐助が映る。 薬か、という思考が固まる前に、身体が前のめりに傾いたのがわかり、いけないと思って手を床につこうとして、しかしその手に力が入らず、とうとう身体が支えを失う。 倒れる寸前、暖かい腕に抱きとめられた。 幸村だろうか、そう思ったのを最後に、の意識は沈んで行った。 |
20120831 シロ@シロソラ |
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