第六章 第九話

 上田城は、満開の桜が見ごろを迎えている。
 穏やかな晴れ空の下、城内で最も美しく桜を見ることができる櫓で、幸村は家臣たちと花見の宴を催していた。
「ぃよーし気分がいいぞ!ひとつ舞うか弟よ!」
「舞わいでか、兄者よ!!」
「おいおい、むっさいオッサンの舞いなんて見たかねーっすよ、こっちは!」
「なら鎌之助、お前が躍れよ」
「てめェ小介、お子様はすっこんでな」
「はー?俺、幸村様と同い年ですけど何かー?」
 今日の為に用意した上等な酒、厨の女中たちに混じってなぜか佐助も腕を振るった旨い肴、家臣たちは思い思いに、ときにやかましく騒いでいる。
 幸村はそんな家臣たちに、先の小田原攻めの武功を労う言葉をかけながら談笑しつつ、時折の様子を窺っていた。
 輪になっている家臣たちから、不自然ではない程度にわずかに離れた場所で腰を下ろしているは、杯を手にしながら、桜を見上げている。
 何もおかしな様子はなく、今もただ一人静かに桜を愛でているのだと言われればそのとおりでは、ある。
「わーん幸村さまああぁ、鎌之助がいじめるうぅ!!」
 泣き声をあげて幸村の元に飛び込んできたのは、己とまったく同じ姿かたちを持つ小介で、幸村は慣れた様子でその身体を受け止めると、よしよしと頭を撫でてやる。
「てっめこの!」
 追ってきた鎌之助が幸村と眼が合い、びくりと固まってその場で膝をつく。
「ち、違うっすオレは別に、小介をいじめようとかそういう気は!」
「なに、そなたに悪気があろうとは思わぬ、気にするでない鎌之助。――これ小介、そなたもいい加減泣き真似はやめたらどうだ」
 真田忍隊の、いつもの風景だ。
 その様子をは、視界の隅に納めている。
「・・・・・・お口に、合わぬか」
 声がかかっては瞬きをして、そちらに眼を向ける。
 甚八が、律儀に膝をついている。
 その視線は、の前に置かれている、箸を取った形跡すらない膳に向いている。
 は小さく、眉を下げた。
「いや、佐助の用意したものだ、口に合わぬわけはあるまいが、今日は腹が空いていなくて・・・・・・、恥ずかしながら、昨夜食べ過ぎたようだな」
 甚八はじいとこちらを見つめ、小さく吐息した。
「・・・・・・ならば、酒をお持ちしよう」
 言われて、は右手に持ったままだった杯が空になっていることに気づく。
「ああ、旨い酒だ、わたしが自分で行こう、」
 そう言って立ち上がろうとしたのを、甚八が手で制す。
「俺が行く。貴方は上田の桜が初めてだろう、ゆるりと堪能されるとよい」
 有無を言わさない、しかし優しい響きの言葉に、は小さく口の端を上げる。
「・・・・・・そうか、かたじけない。それではお願いしよう」
 承知、と短く答えて姿を消した甚八が、今まで膝をついていた場所から、は視線を動かさない。
 その瞳は、何も映していない、佐助にはそう見えた。
「・・・・・・」
 才蔵に目配せをする、少し離れた場所にいた才蔵が小さくうなずき、周りの忍びたちに何事か短く告げる。
「はいはい、お前はそうやって隙あらば旦那に手ェ出そうとすンのをやめろ」
 そう言って佐助は幸村にしがみついていた小介を引きはがす。
「ちょっ何すんだよ」
「旦那、俺ら少し外すから」
 背後でわめいている小介を無視して、佐助は幸村と眼を合わせるように膝をつき、ついでに自然な動きで若干乱れている幸村の着物の前合わせを整える。
 ほんとあいつ誰に対しても油断も隙もあったもんじゃない、と思いながら、幸村の顔を覗き込むようにして、言う。
サンと、何か話した方がいいんじゃない」
「ッ、」
 びくりと、幸村が強張らせた肩をぽんと軽く叩いて、佐助は立ち上がる。
「ほらお前ら仕事だ仕事!」
 才蔵の根回しもあって、すでに忍びたちは居住まいを正している。
 小介もさすがに口を閉じた。
「じゃ、あとは若いふたりでごゆっくり」
 その佐助の言葉と同時、忍びたちは一斉に姿を消した。
 その場には、幸村との二人だけが残される。
 幸村は意を決したように立ち上がり、いまだ地を見つめているに歩み寄った。





「――殿」
「幸村殿」
 呼びかければ、いつもどおりの機敏な動きで、は顔を上げる。
「・・・・・・?他の方々は、」
 その場にいるのが幸村だけと知って、は怪訝な声をあげ、幸村はその傍らに腰を下ろしながら答えた。
「ああ、何やら仕事と申して」
「そうか。――春だから、な」
 雪が解けて、甲斐が相模へ攻め込んだのと同様、春になって各国は動き始めたはずだ。
 その情報を集めるのが、忍びたちの仕事である。
「貴方の言っていたとおり、見事な桜だな」
「ああ、我が城の自慢でござるよ」
「自慢に値するな。貴方のお父上が、桜がお好きでらっしゃったのか」
「左様でござる、この城の築城の際に植えられたものと聞いておりまする」
 いつにもまして、が饒舌だ。
 酒の力なのかもしれなかったが、幸村の心からは懸念の雲が晴れない。
「・・・・・・殿、」
「?何か」
 調子を落とした幸村の声に、が視線を桜から幸村へ移す。
「その、」
「――一郎の、ことだろうか」
 先回りをして、がそう言った。
 驚いたように幸村はの顔を見る。
「先日からお気遣いいただいているようだが、貴方が気遣うようなことは何もない」
 そう言う、の表情。
 あの、違和感を覚える、小さな笑顔。
「・・・・・・北条家の家臣の名に恥じぬ、立派な最期だった」
 その言葉で、幸村は、が己との間に一筋の線を引いたように感じた。
 ここから先には足を踏み入れるなと、そう言われた気がした。
「・・・・・・左様で、ござるか」
 手を伸ばせば、容易に触れられるほどの距離にいるにもかかわらず、幸村にとって、今のはどうしようもなく遠い。
 あの日、小田原城で何があったのかは、甚八から報告を受けている。
 戦場のといえば、幸村が知るのは、冷徹な太刀捌きで独眼竜に六爪を抜かせた、あの桶狭間の光景だ。
 そして、佐助の調べで、これまでのの武功もおおよそ把握している。は武将としても優秀で、どのような相手もその一刀のもとに切り伏せてきた。
 ――『こころを殺さなければ、人は殺せないだろう』
 かつてはそう言っていた。つまりこれまでの戦では、こころを殺して、その刀を振るってきたということだ。
 それが、甚八の報告によれば、東山なる武将の首級をあげるその瞬間、の眼に涙があったという。
 こころを殺しているならば、涙など流すはずがなく、それはつまりあの場において、はこころを殺さず、東山一郎を殺めたということを示していた。
 ――『我らは人でありながら人を殺す痛みを、こころに刻むべきだ』
 かつて幸村がに言った、その言葉が関係ないはずはあるまい。
「・・・・・・どうされたのだ、物思いにふけっておいでのようだが」
 そう言って幸村に向けられる、の笑顔の違和感の正体。
 ――その表情は、作った笑顔だ。
 幸村の知る限り、は己の感情に嘘をつかない。
 敵意があれば怜悧な表情を、好意があればわずかでも笑顔を見せる。
 そのこころの内を隠したい場合に表情を消すことはあったが、
 笑顔を取り繕うようなことは、しなかった。
 それが。
「・・・・・・いや、なんでもござらぬ」
 自分の、せいだ。
 そう思っていた。
 あの、甲斐の紅葉を見た日から。
 は変わろうと努力してきたのを、幸村は知っている。
 そこに、自分の言葉が少なからず影響を与えたのだろうということも。
 そう、不用意に自らの志を、に押し付けた。
 その結果が、これだ。
 は、親しい者を殺めたゆえに、こころに傷を負ったのだと、幸村は考えている。
 その苦しみをこちらに気づかせまいと、笑顔で覆い隠しているのだ。
 そんな顔をさせたかったわけではない。
 色々なものを見て、触れて、その頑ななこころが少しでも和らいで、
 ――こころからの笑顔を見せてくれれば、そう願っていたのに。
 どうすれば、よいのだろう。
 考えても考えても答えなど浮かばず、幸村はただ、膝の上で拳を握り続けた。





「っあー、もう、幸村様ってば、そこでばーんと押し倒してちゅーのひとつやふたつお見舞いすれば」
「ねーさいぞー、俺様すっごいこいつ殺したい気分」
「長が常に分身を変化させて幸村様の影武者を置けるのであれば、それもよろしいのではありませんか?」
 己の分身を生み出して、さらにそれを別人に変化させる、佐助にそれができないわけではないが、常にというのはさすがに難しい。
 舌打ちして、とりあえず小介の頭を小突いておくのにとどめた。
 佐助を含めた家臣たちは、少し離れた木々の合間から、二人の様子を見ている。
 二人の間に会話は少ない。
 並んで腰を下ろしているのに、その間には微妙な距離が空いている。
 思わず、溜息を吐く。
 これはなかなか、重症だ。
「でもさ、『細かいことは気に致すな、某について参れ!』とかって抱きでもすれば、丸く収まる話じゃね?」
 悪びれない小介がなおも言いつのる。
 佐助はそれにいらいらと眉を動かしたが、佐助の手が出る前に才蔵が言った。
「幸村様があなたのような男子(おのこ)であれば、それが一番でしょうね。でもあのお方がひどく繊細なのは、あなたも知っているでしょう」
「・・・・・・ちゃんも、ね」
 本当にあの二人はよく似ている。
 真面目で一途で、優しくて繊細。
「こればかりは、長、あなたも手出しはいけませんよ」
「お前に言われるとすっごいむかつく」
 佐助は吐息して、二人を見つめた。
「まぁでもお前の言うとおりだよ、こればっかりは、あのふたりで乗り越えなきゃいけないものだ」
 憮然とした佐助の顔を見て、才蔵がくすくすと笑う。
「何だよ」
「いえ、青春とはこのようなものを言うのですね」
 その笑顔が癇に障る、といつもどおりのことを思っていたら、背後に気配が増えた。
 厨に行っていた甚八だとわかる。
「長、」
 その声の調子に、佐助は眉を動かした。
 この甚八は、めったなことでは感情を声に出さない。
「どうした」
「織田信長が、本能寺にて、討たれました」
「!!!」
 その場にいた全員が、顔色を変えた。
「明智光秀の、謀反です。そしてその明智も、早々に豊臣軍に討たれたとの由」
 甚八の報告に、佐助は息を吐いて、がりがりと頭を掻いた。
 そしてもう一度、幸村達に視線を飛ばす。
 
 乱世が蠢く音が聞こえる。
 
 時代は、若い二人の成長を待ってはくれないのだ。

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20120810 シロ@シロソラ
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