第六章 第七話

 鮮血が、散る。
 生暖かいそれが、ぴちゃ、との頬を叩く。
「がッ、は」
 やけにゆっくりとした動きで、一郎が仰向けに倒れていく。
 正確に、入った。
「・・・・・・ッ」
 右手から力が抜けて、刀を取り落とす。
 左手が、胸当ての上から、胸元を抑える。
 斬ったのは自分で、斬られたのは一郎なのに、
 心の臓が、痛い。
「――東山様!」
「――おのれェ!!」
 一郎が率いていた一軍の兵士たちが、怒号を発してこちらに駆け寄るのがわかる。
 ここでやられるわけにはいかない、慌てて刀を拾おうとして、その右腕が震えていることに気づく。
 何をしている、自身を叱咤しても、震えが止まらない、
「真田の若造めが!覚悟!!!」
 振り上げられる刃を睨むことしかできず、
 ざ、と音がして、兵士たちが地に沈んだ。
 を庇うように現れたのは、長身の忍び。
「・・・・・・甚八」
「ちょっと俺のこと無視しないで」
 その傍ら、槍を振り回しているのは、
「小介、か?」
 今日は幸村の影武者であることを隠しているのだろうか、目元だけを出した忍び装束が、視界を躍る。
「ほら、こっちはいいから」
 そう言われて、は漸く視線を戻す。
 血の気の引いた、顔。
 地に広がっていく、大量の血。
 一郎が、こちらを見上げる。
「・・・・・・なんて顔、してやがる」
 その傍らに、は膝をつく。
「お前はこれからも、この乱世を生きていくんだ、もっと毅然とした顔してろ」
「・・・・・・ッ」
 言われて、無理やり口を引き結ぶ。
 何か言うべきだと思う。
 でも言葉が何も、出てこない。
「・・・・・・ねぇ、さすがに痛いからさ、どうにかしてほしいんだけど」
 いつものような軽い声色で、一郎が笑う。
「ほら、」
 そう言って、自らの首を、手刀でとんとんと叩く。
「お前の手柄だ、持って行け」
 どうしようもなく、心の臓が痛い。
 落とした刀を拾う。
 震える右手を、左手できつく掴む。
 そうだ。
 敵将の首級をあげるのだ。
 震えるなんて、失礼だ。
 両手で刀を握って、振りかぶる。
 一郎と、眼が合う。
「大丈夫だ、
 いつもと同じ、優しい声色。
「いつだって」
 どんなときも、を守ってくれた兄の、これが最期の言葉と悟る。
「――お前には、仲間がいる」
「・・・・・・ッ!」
 視界が滲みそうになって、瞬きを繰り返す。
 初めに浮かんだのは、幸村の笑顔。
 そして、佐助の笑顔。
 甚八、小介、他の忍びたちの顔が、脳裏に浮かぶ。
「ああ」
 そうだ、わたしには、
 ――仲間が、いる。
 息を整えて、は口を開いた。
「・・・・・・北条氏政公が家臣、東山一郎重信殿」
 ――眼を、逸らすな。
「その首級(みしるし)、頂戴いたす」
 刀を握る腕を、振り下ろす。
 一郎が、満足そうな笑みを浮かべてこちらを見て、そして眼を閉じる。

 刃が、肉と骨を断ったその感触を、忘れずにいようと、思う。






 なんて顔してるんだか、と一郎は思った。
 正直、予想外もいいところだった。
 の暗殺命令が出ているのは聞いていた。
 並みの忍びにが殺されるはずがないとは思いながら、しかし風魔小太郎まで出向いたと聞いてはさすがに心中は穏やかではなかったが、その小太郎は結局戦が始まっても戻っては来ず、つまりは返り討ちにあったものと、一郎も受け止めていた。
 ということは、はこの武田軍に随行してくるだろう、そう思っていた。
 実際に栄光門を守っていた別の部隊がわざわざ開門して出撃していくのを目の当たりにして、これは北条軍の気性を知り尽くしたの策だろうと確信する。
 に出くわしたら、おそらく出会いがしらに斬り捨てられるに違いないと考えていた。
 あいつは、敵を斬ることをためらわない。
 たとえ相手が自分であっても、だ。
 戦場に立つは、不用意に触れるだけでこの身が裂けるような、冷たい刃の切っ先のような空気を、いつでも纏っていたから。
 それが、実際に相対してみたら、ずいぶんと人間らしい表情を浮かべていた。
 しかも何のつもりか、躊躇なく急所を狙ういつもの太刀筋ではない。
 それではいけない。
 お前は優しいから、心を殺していなければ。
 人を殺める痛みを知れば、この先、乱世を生き残れない。
 そう思って発破をかけて、やっと本調子のように動くようになって、
 ――そういえば、結局一度も勝てなかった。
 単純にバサラの有無ということを差し引いても、の太刀筋には、敵うことがなかった。
 それだけは悔しいなあ。
 この小さくて、優しくて、大切な妹を守るためにとった刀だったのに。
 最後に、刀を振り上げるその表情を見て、一郎はなんだか複雑な思いだった。
 やはり生きて彼女を守っていきたかった、何が何でも小田原から出すんじゃなかったと、そう思う一方、自分で自分の生き方を考えられるようになったこと、そして戦場で背を預けられるような仲間ができていたことを思えば、甲斐で学ぶものは多かったのだろうと思う。
 そう、心を殺していてほしいとは思いつつも、そうやって生きていくことに心配もしていた。
 だから、このオレを殺すその瞬間に、泣き顔を浮かべてくれるようになったことは、実はけっこう嬉しかったりもする。
 いい出会いでも、あったか。
 さっき言ってた、真田幸村が、そうなのか。
 なんだ、それならもっとちゃんと顔を見ておくんだったな。
 先刻、にこの場を任せて先に進んだ、その姿を思い描く。
 赤さが目に付くガキだった、と思う。
 なあ、頼むぜ、真田幸村。
 オレの妹は頑固で不器用だけど、誰よりも純粋で、優しくて、それで最高にかわいいんだ。
 間違っても泣かすンじゃねぇぞ。

 まあ、今泣かせてるオレが言うことじゃないかもしれないが。
 そこは兄貴特権ということで。
 
 ・・・・・・ああ、もう考えることもないな。
 戦にまみれたこの世が悪いとか、世が世ならばとか、よく言うけどさ。
 オレは幸せだったよ。
 お前を守るために生きて、お前の刃で死んで。
 
 最後の最後、のその顔を視界に納めて、一郎は眼を閉じる。
 視界が、暗闇に落ちる。

 うん、オレは幸せだった。


   ――そこで、東山一郎の意識は、途切れて消えた。

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20120810 シロ@シロソラ
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