第六章 第六話

 一番古い記憶を手繰れば、いつも一郎の背中を見ていたことを思い出す。
『またこんなとこにいたのか』
『・・・・・・いちろう』
 あれは確か剣術の稽古が始まったころだから、三つのころ、まだだったころだ。
 稽古は、嫌いだった。
 痛くて怖かった。
 それでも、父や、指南役の父の家臣が自分に寄せている期待の大きさを、幼いなりに理解していたは大人の前では決して嫌がるそぶりを見せず、いつも屋敷の庭の隅で隠れて泣いた。
 それをいつでも見つけてくれたのが、一郎だった。
『大丈夫だ、いつだっておまえにはオレがいる』
 そう言って、手を引いてくれた一郎の背を見ては育った。
 にとって、一郎の背で守られたその内側は、絶対安全な領域だったのだ。
 やがて剣術が上達し、風の力をそれなりに操れるようになった七つの秋、父の死と同時には元服してと名乗り、一郎は東山家に養子に入った。
「わたしが刀を握れるようになったのは、お前のおかげだったな」
「何だ今更」
 鍔迫り合いから、力では負けると判断して横へ跳ぶ。風を使って体勢を整える。
 ――はじめて人を殺したのは、九つの春、初陣だった。
 の当主とはいえ、まだ子どもと言っても差支えない時分のことだ、は後方の補給部隊の陣営に配属されていた。
 何事もなければ、鉄砲玉も流れ矢も飛んでこないはずだった。
 それが、敵方の奇襲を受けて、部隊は甚大な被害を受けた。
 突然のことに、恐慌状態に陥ったの記憶は一度途切れて、次に気が付いたときには何か大きな力で引きちぎられたような、ところどころに鎧を纏った肉の塊が、眼の前にたくさん転がっていた。
 自失状態だったに、五体満足だった敵兵が斬りかかる。化け物、とその口が叫ぶ。
 刀を抜くことすらできず茫然とそれを見ていて、次の瞬間、眼前に一郎の背があった。
 両腕を広げて前に躍り出た一郎が、敵兵に正面から斬られて、その身体が崩れ落ちるのを見て、は漸く刀を抜いた。
 明確に、眼の前の敵兵に向けて、殺気を覚えた。
 あとは稽古のとおりに動いた。
 あの時以来、人を斬る感触というものは、自分にとって自然なものとなった。
 敵兵が動かなくなってから、倒れた一郎に駆け寄る、その血に濡れた掌が、の頬を撫でる。怪我はないか、という声に、うなずくしかできない。
『大丈夫だよさま、いつだってさまにはオレがいます』
 思えば一郎もあれが初陣だ。恐怖を感じていなかったわけがない。
 それでもあのとき、一郎は笑っていた。
 その笑顔を見て、は強くなろうと思った。
 それまでは国を守ることも、城を守ることも、北条宗家を守ることも、父との約束ではあっても、漠たる思いでしかなかった。守るとはどういうことであるか、理解していなかったのだ。
 あの初陣を境に、は強くなろうと決めた。
「・・・・・・つまりお前を守りたかったのか」
 合わせた刃の向こうで一郎が笑う。
「あれ、自覚なかったの?」
「ああ、今気づいた」
「わあヒドイ、オレはさまに大事にされてるっておもってたのにィ」
「――語尾を伸ばすな」
 不快だと言わんばかりには刀を振るう。
 その動きを読んでいた一郎は、難なく避けて一歩下がる。
 その視線が、を鋭く射抜く。
「どうした、。甲斐で稽古を怠ったか?刃筋が全くなってねェ」
「・・・・・・ッ」
 挑発するような一郎の言葉に、は右目の下に皺を刻む。
 視界の先で、一郎が口を開く。
 それは恫喝となって、の耳を叩く。
「呆けてんじゃねぇぞ!お前は武人として生きることを選んだ、これはお前が選んだ道だ!だったらオレの一人や二人笑顔で斬ってその屍を越えて行け!!」
「ッ!」
 びくりと肩をこわばらせて、は一度眼を閉じる。
 息を吸って、吐く。
 そうだ。
 これが、自分が選んだ道だ。
 幸村や、佐助の傍で、この刀を振るうと。
 彼らの笑顔を見るためなら、その他の誰であっても立ちふさがる者は切り伏せると。
 が、考えて、選んだ道。
 眼を、開く。
 その深い色の瞳に、静かな光が宿る。
「・・・・・・昔から、お前には教えられてばかりだ」
「何言ってんだ、お互い様だろ、オレだってお前から教えられたことは多いさ」
「そうか」
 もう迷わない、
 そう思って、は足元に風を起こした。





 足元の風を爆発させた力で、低く跳ぶ。
 待ち構えた一郎の刀が、流麗な動きで斬撃を刻む。
 の剣が小太郎に学んだ一撃必殺の忍びの剣であるならば、一郎が習得したのは武士(もののふ)としての剣術の極み、その太刀筋はまるで流水のようだ。
 その全てを刃で受け止めながら、しかし防戦に回っては勝ち目がないとわかっているは、斬撃の中の隙を探している。
 お互い手の内は知り尽くしている。
 次の一手がどこに来るか、組み立てたとおりに繰り出される一撃を、受け止めるように構えた刃で返す、それを予想していた一郎の刃が刃筋を変えて、さらにそれを予想していたが身を反転させて抜刀の刃を走らせ、それも読んでいた一郎が返す刀で迎撃し、――
 まるで、ふたりで踊っているようだ。
 楽しい、とすら思った。
 見上げる一郎の表情、その口の端に宿る小さな笑みに、彼も同じ思いであるかもしれないと、は思う。
 ――それでも。
 耳に風が巻く音が聞こえる。
 それでも、わたしは、
 ――先に、進む!
 轟、と風が鳴る。
 右腕に纏った風が、の斬撃に大きな力を与える。
 受け止めた一郎の刃が、押し負けて弾かれる。
「!」
 初めて一郎の表情が動く。
 一瞬、驚いたように眼を見張り、そして微笑む。
 は、刀を振りぬいた勢いのまま宙返りをして追撃をかける。
 一郎と、眼が合う。
 まただ、と思う。
 こういう瞬間、いつも時間が流れるのが遅く感じられる。
 それに応じていつもどおり身体を動かせれば、色々と便利そうなのに、自分の身体もゆっくりとしか動かない。
 正面から袈裟懸けに狙う一撃は、このまま予想通りに一郎の身体に達するだろう。
 弾かれた刀を戻す一郎の動きも見えているが、こちらの方が速い。
 こころが、冷えていくのを感じる。
 ――違う。
 意識を、一郎に向ける。
 こころを、殺してはいけない。
 幸村の言葉が、頭に響く。
 ――『我らは人でありながら人を殺す痛みを、こころに刻むべきだ』
 そうだ。
 一郎を、殺すのだ。
 兄と慕った男を、殺すのだ。
 その痛みを、感じるべきだ。
 こころを殺しては、その痛みも感じることができない。
 今一度、決めるときだ。
 ひとを、殺める覚悟を。
「――ッ!!!」
 最後の最後、その瞬間まで、は一郎と眼を合わせたまま、
 
 ――その刃を、振りぬいた。

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20120808 シロ@シロソラ
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