第六章 第三話

 春が近いとはいえ、まだ夜は冷える。  せめて上着を持ってくるのだったか、と思いながら、は悴んだ掌に息を吹きかけた。
 風の音で目が覚めてしまい、用を足そうと室を出て、どれくらいたっただろうか。
 見上げる夜空の月の位置から、おそらく半刻はまだ過ぎていないだろう、と判断する。
 上田城に身を置いて五日、城内のだいたいの構図は頭に入ったと思っていたのだが。
 は、迷っていた。
 厠に来るまではよかった。
 戻ろうとして、篝火があっても暗い城内で、帰り道がわからなくなってしまったのである。
 こんなことは初めてだった。
 躑躅ヶ崎館も広大ではあったが、迷ったことはなかった。
 この上田城の、城内での戦を想定した入り組んだ造りによるものだ、と自分で自分に言い訳してみるが、はっきり言って、恥ずかしい。
 月の位置からしてすでに深夜、城内の者は寝静まっているのだろう。声に出して誰かを呼ぶわけにもいかない。
 困った。
 いっそ空いていそうな手近な室で寝てしまおうか。夜が明けて明るくなれば、道も分かるような気がする。
 そう思い、気配を探りながら素足に冷たい回廊を歩いていると、
「いかがなされた、殿」
 唐突に背後から声がかかった。聞きなれた声。
 ゆっくりと振り返る、そこには幸村の姿。
「・・・・・・いや、小介殿、か」
「あっれ?ばれた、俺もまだまだだなぁ」
 そう言って、小介が相好を崩す。
 はそれに、真顔で答えた。
「気配を、消していただろう?幸村殿がご自分の城でそのようなことをされるとは思えなかったから。こうして顔を合わせれば、貴方は本当に幸村殿の仕草をよく研究しているのだと、感服する」
 小介が鼻白んだように、しばし言葉を失う。
「・・・・・・、いや、佐助から聞いてはいたんだけどさ、実際聞くと結構な攻撃力だね、それ」
「攻撃力?」
 聞き返すと、小介はひらひらと手を振った。
「んーん、こっちの話ィ。てかさ、俺のこととか『殿』つけることないよ、呼び捨てにして」
 ね?と顔を覗き込まれてにこりと笑われた。
 幸村ではないのだとわかってはいても、距離の近さに思わず後ずさる。
「・・・・・・合いわかった、小介」
 そう言うと、小介が身悶えた。
「うわぁ今ぞくっときた、やっぱかわいい子に名前呼ばれんのってイイわーねーちゅーしていい?」
「・・・・・・は?」
 最後の言葉の意味がわからず首を傾げるに、小介が顔を近づけ、
「いい加減にしろ」
 声が聞こえての身体が引き寄せられた。
 を背後に庇うように現れたのは、
「・・・・・・甚八殿」
 の世話役を命じられている忍びだ。
 長身の甚八が、小介を見下ろす。
「あーもーなんだよ、いちいちいちいち邪魔だっつの」
「お前はもう少し慎みを持ったらどうだ」
「何だよツツシミって、おいしいの?」
 可愛らしく小首を傾げる小介を完全に無視して、甚八がこちらを振り返る。
 そして手に持っていた上着を、ふわりとの肩にかけた。
「この突き当りを左、渡殿を渡って、三番目だ」
「か、かたじけない、」
 が礼を言い終える前に、甚八の姿は消えてしまう。
 しまった、と思った。
 今しがた甚八が言ったのは、の室の位置。
 が迷っていることを察していたのだろう。
 こんな夜半に手数をかけてしまった。
 上着を羽織って眉を下げていると、音もなく甚八が再び降り立った。
「!」
 わずかに眼を見開いたに、膝をついたまま甚八が言う。
「俺にも、『殿』はいらない。困ったときは呼べ」
 それだけ言って、再び甚八は姿を消す。
 はその言葉を頭の中で咀嚼して、小さく息を吐いた。
「――甚八」
 呼ぶと、やはり音もなく甚八が目の前に現れる。
 膝をつくその忍びと眼を合わせるために、も屈んだ。
「何度も呼び立ててすまない、だが礼を言わせてくれ」
 眼を合わせる。
「ありがとう」
「ッ!」
 甚八はわずかに身じろぎをし、そして礼をすると姿を消した。
「あーもう、あんたかなりの天然だな?」
「天然?」
 小介の声に、は立ち上がりながら聞き返す。
 小介は呆れたように息を吐いて、歩き出した。
「ほら、送ってやるよ。暗いと迷いやすいからさ、ここ」
 数歩歩いてこちらを待つように振り返った小介の姿に、は口の端を上げた。
 なるほど、流石は真田幸村の家臣たちだ。
「貴方も、悪い人間ではなさそうだ」
 小介が眼を丸くし、そして笑顔を浮かべた。
ちゃんほどじゃないよ」
 




 それからさらに数日後、幸村からの呼び出しを受けては甚八の案内を受けて回廊を歩いていた。
 幸村と顔を合わせるのは、この城に来た日以来だ。
 躑躅ヶ崎では何もなくともあちらから顔を見せてくれることが多かった幸村だが、さすがに自分の城とあってはそうもいかないらしい。
 城を空けていた間の政務もあるだろうし、何より戦支度もある。
 忙しいだろうに何用だろうと思いながら、は甚八が開けてくれた障子の内に入った。
「・・・・・・!」
 室内には、誰もいなかった。
 しかしそこに掛けてあったものに、眼を奪われる。
 深い紅の、陣羽織だった。
 周りに誰もいない(役目を終えたせいか甚八も姿を消している)こともあって、思わず近づいてまじまじと見つめる。
 仕立て下ろしと、見受けられた。
 この感じは、絹を使った一級品。
 その背に堂々と描かれているのは、真田の六文銭。
 なんて、見事な。
「・・・・・・?」
 近くで見ていて、ふと気づく。
 これは、幸村には少し小さいのではないだろうか。
 信玄ほどとはいかないが、幸村も恵まれた体格の持ち主だ。
「あ、ちゃん、ちょっとお久しぶりー」
 予想外に近いところから声が聞こえて振り向くと、すぐ後ろで佐助が手を振っていた。
「っ!」
 驚いて息をのむ。
「・・・・・・驚かせないで、ほしいのだが」
ちゃんはひとつの物に集中すると他の気配に気が回らなくなるところをちょっと直したほうがいいかもねぇ」
「・・・・・・」
 図星を突かれて、は黙り込む。
 こころの内で深呼吸をして、佐助を見つめた。
「確かに、しばらくぶりだ、佐助」
 その言葉に佐助が笑うのと同時、障子の向こうから幸村が現れた。
「ああ、お待たせして申し訳ない」
「幸村殿。お忙しいのではないか」
 が幸村へ視線を動かすと、幸村は笑って言う。
「色々と支度がござったが、まずは殿にこれをお目にかけねばと思い」
 幸村がそう言って指したのは、その紅の陣羽織。
「見事な陣羽織だ」
 そう言うと、幸村は顔を輝かせた。
「そうでござろう!この辺りでは一番の職人に仕立てさせたものでござる。さ、羽織ってみてくだされ」
「・・・・・・は?」
 幸村が何を言ったのか理解できず、は聞き返した。
 佐助が掛けてあった陣羽織を手に取って、に向ける。
「はいサン腕上げてー」
「は?え?」
 訳が分からないうちに、はその陣羽織に袖を通していた。
 幸村には小さいのではないかと思っていたそれは、の肩幅に沿うようにぴたりと合う。
「・・・・・・え?」
「おお、よく似合っておられる!お前の採寸もぴったりだな佐助!」
「採寸?」
 佐助に視線を移すと、忍びはへらへらした笑みを顔に張り付けたまま頬を掻いていた。
「いやあ、躑躅ヶ崎でサンの着物が洗濯に出てたときに、測らしてもらっちゃった」
 は何やら満足げな二人を順番に見て、
「・・・・・・つまり、この陣羽織はわたしのために仕立てられたのか?」
「左様でござる!此度の戦は、殿が初めてわが軍から出陣される、いわば初陣!真田軍にありと、知らしめねばならぬゆえ」
「ほんっと、こんな短期間で作らせるとか、旦那ってばサンのことになるといつにも増して横暴なんだから」
 さめざめと泣き真似をしながら佐助がそう言う。
 これが、躑躅ヶ崎からこちらへ移動する道中に二人が話していた「あれ」のことであったのかと、は思い至る。
 慣れない陣羽織を羽織った自分の身を見下ろしていると、泣き真似をやめた佐助がにこりと笑った。
「一応家の紋も調べてはいたんだけどね?旦那がどうしても六文銭って言うからさぁ」
 その呆れの声色が混ざったような言葉に、幸村が眉を下げる。
「その、殿のご意見も伺わずに、申し訳なかったのだが」
「・・・・・・いや」
 何から答えていいかわからず、は言葉を探した。
「初陣とはまた、懐かしい話だが、しかし幸村殿の臣として戦場に立つことは事実だ、そうであればこの背に負うのは真田の紋であるのも然りとは思うが、――わたしなどが背負っても、よいものなのか」
 はこれまでの戦で、陣羽織というものを身に着けたことがない。
 ただの一兵卒として戦場に立つ自分には分不相応なものだと考えていたからだ。
 しかし幸村は、の眼を見つめて穏やかに言う。
殿は、真田の六文銭の意味をご存じだろうか」
「・・・・・・三途の川の、渡船料、だったか」
「左様でござる。我ら真田一族の者は、いつでも死ねる覚悟でこの六文銭を背負うておりまする。しかし、この紋には人を殺すことを生業とする我ら武人の所業を、地獄から救済する、――転じて、戦場にて我らを守るもの、とも言われておる」
 が幸村の鳶色の眼を見返す。
「・・・・・・成程」
 そう言って、再び自身の姿を見下ろす。
 生地と、佐助の採寸がよかったのだろう、手足の動きを妨げることのない、陣羽織。
「そのように言っていただくと、本当に初陣のようだな」
 なんだろうか、こころがこそばゆいような、暖かいような、不思議な感覚があった。
 それを穏やかに微笑んで見つめていた幸村が、ふと、眉根を寄せて、口を開いた。
「――殿は、やはり此度の小田原攻めに参加なさるのか」
「・・・・・・?」
 は幸村に視線を動かす。
「そのためにこのような立派な陣羽織までご用意いただいたのだろう、」
 何を今更、そう思うが、幸村の表情は晴れない。
 幸村が何を思ってそう言ったのかを、は考える。
「・・・・・・かつての主君に弓退くことが、貴方の義に反するか」
 そう言うと、幸村は弾かれたように顔を上げ、
「そうではなく!」
 そして言葉を探すように逡巡した。
「・・・・・・そうではなく、・・・・・・その、以前言っておられたように、小田原には知り合いの方も多くいるのだろう、」
「――要はアンタの覚悟のほどを聞いてるんだ、旦那は」
 室の隅に控えていた佐助が、そう口を挟み、幸村は血相を変えた。
「何を言うか佐助!」
「そういうことでしょ?戦中に気が迷われても困るしさァ」
 は二人のやり取りを見つめ、
「つまり、心配してくれているのだな」
 と言ってわずかに眉を下げた。
 佐助が頬を掻く。
「・・・・・・、ま、そういうことでもいいけどさ」
 は佐助と、そして幸村の眼を見て言った。
「正直なところ――、わたしも実際に小田原城を眼にしてどのように感じるのかが、今はよくわからぬ。それでも、わたしは真田軍の一員で、貴方たちに害をなすようなことはしない。何があっても」
 その口の端に、小さな笑みを認めて、幸村は息を吐いた。
「そう言われるならば、某はもう何も言わぬ。――そうだ、殿」
 幸村は立ち上がり、室の障子を開ける。
 冬の終わり、ところどころに溶けかかった雪が残る庭。
「この城には、桜がたくさん植わっておる」
 まだ枝だけの、裸の木々を見てから、幸村は振り向いて穏やかに笑った。
「戦が終わるころ、見ごろを迎えるだろうかと、そのときには花見を致しましょうぞ」
「ここの桜はすっごいよ、いい酒用意するからさ」
 主の言葉を継ぐように佐助がそう言って笑う。
 二人を見て、は頷いた。
「ああ。楽しみにしていよう」
 
 ――そうして、小田原攻めの火蓋は切って落とされた。

+ + + + + 

20120803 シロ@シロソラ
http://sirosora.yu-nagi.com/