第六章 第一話

 旅装を整えたは黄梅院を前に手をついて平伏していた。
「申し訳、ござりませぬ」
「やだったら、最後まで何を謝ることがあるの」
 苦笑する黄梅院に、は床を見つめたまま言う。
「黄梅院様の御身をお守りすると、お約束したにも関わらず、こうして躑躅ヶ崎を後にすることと相成りましたので」
「・・・・・・ほんとに頭が固いんだから」
 黄梅院は扇子を閉じて、ふわりと微笑む。
「あなたが考えて選んだなら、こことは別の場所でもあなたを止めたりしないと、私は言ったはずよ」
 だから頭を上げなさい、そう言われては漸く姿勢を正し、黄梅院を見る。
 黄梅院が笑って言う。
「もう、そんな顔しないの。何もこれが今生の別れっていうわけじゃないんだから」
「黄梅院、様」
 鼻の奥が痛い。
 まさか泣きそうなのかと思い至って、は必死に涙をこらえる。
「本当に、何とお礼を申し上げてよいか・・・・・・ッ」
「私にお礼がしたいなら、
 黄梅院の声がして、は俯けていた顔を上げた。
「あなたはこれからも、自分の生きる道を考えて、そうして選んだ道を堂々と生きていきなさい。それでたまには元気な顔を私に見せて。それがお礼よ」
 は涙を飲み込み、頭を床に擦るような平伏をした。
「この、、必ずや。そのように生きると、お約束いたします」





 幸村の馬の後を追うように、は馬を駆る。
 街道の雪はまだ融けきってはいないものの、騎馬でも難なく移動できる程度には減っていた。
 春が、やってくる。
 先だって、も同席が許可された軍議で、信玄は正式に小田原攻めを決定した。
 集まった家臣たちは一度各々の領地に戻って、戦支度を整えることとなったのである。
 幸村も例外ではない。
 佐助や他の忍び達も連れて、真田家の本拠地である上田に帰ることとなった。
 聞けば幸村は、の、平たく言えば見張りのために、冬の間ずっと自分の城を開けていたのだと言う。
「城主が何か月も城を開けていてよかったのか」
「代わりの者に任せてきたので、心配は無用にござる」
「代わりの者、か」
 は、まだ見ぬ上田の城に思いを馳せる。
 真田家の家臣となったからには、他の家臣たちとも相応に信頼関係を築いていかなくてはならない。
 周りに関心がなくとも、黄梅院にさえ付いていればいい客将として扱われていた躑躅ヶ崎とは違うのだ。
「ああ、殿も驚かれるかもしれぬな」
 幸村の楽しそうな声が聞こえて、は首を傾げる。
「上田の『城代(じょうだい:城主の留守を預かる者)』はなかなか見ものゆえ、楽しみにしていてくだされ!」
「は」
 うなずきながら、見ものの城代とは如何様な者かと考える。
 街道を行くのは、表立っては幸村との二人だけだ。
 忍びたちは周囲の木々の間を縫って移動しており、何か用がなければ姿を現さない。
「ちょっと旦那、アイツは城代なんていいものじゃないでしょ、」
 そう言って、幸村の傍らに闇色を滲ませて忍びが降り立った。
「なんだ、俺の替わりにあ奴以上の者はおらぬぞ佐助」
「いやまあそうだけどさ、意味が違うっていうか」
「それより何か報告があるのではないのか」
 幸村に問われて、馬の横を並走しながら佐助は答える。
「上田から連絡、いつもどおり裏からと」
「わかった。――それから佐助、あれはどうなっている」
「『あれ』については、目下全力で手配中。ったく無茶言うんだから」
「何を言うか、殿が我が軍から出陣されるのだぞ、必ず間に合わせよ」
「・・・・・・?」
 前を行く二人が何の話をしているのかわからず、は聞いていいのかどうか逡巡していた。
 自分の名が出たのだから、聞いてもいいのかもしれない。
 ちょうど佐助が報告を終えたのか道から逸れようとしていたので、声をかけた。
「猿飛殿」
 忍びの耳に聞こえないはずはなかろうが、きれいに無視されて佐助は木々の間に消える。
 は眉根を寄せて、息を吐く。
 そして意を決したように、口を開いた。
「・・・・・・佐助」
「はいよ」
 「猿飛殿」と呼びかけたときよりも明らかに小さな声であったというのに、佐助は瞬時に傍らに現れた。
「・・・・・・貴方はわたしをからかっているのだろう」
「やだなぁそんなことないよ?」
 へらりと笑って見せる佐助に、はちらりと視線を向けて睨む。
 真田家の臣となるなら、真田忍隊を使う側の人間になるのだから、佐助以下忍びはその名を呼び捨てにするようにと他でもない佐助から言われたのはつい先日のこと。
 武田家の他の家臣たちにも示しがつかないから、と言われればそういうものかと納得したのだが、「猿飛殿」と呼んでいた期間が長かったこともあってか、どうも「佐助」と呼ぶのが居心地悪い。
 当の忍びはそのの様子を面白がっているようで、これまでの癖で「猿飛殿」と呼んでもこれ見よがしに無視するのだ。
「で、どしたの、『あれ』が気になったんなら残念だけどまだ教えらんない」
「・・・・・・」
 先回りして言われて、は口を曲げる。
「・・・・・・わたしの名が出ていたようだが」
「必要なら旦那が言うでしょ、アンタの主、なんだからさぁ」
 にやにやした笑いを顔に張り付けて佐助がそう言うのを、は嫌そうに一瞥し、
「・・・・・・承知した。確かに貴方の言うとおりだ、幸村殿からお話があるのを待とう」
 要件は以上だと告げると、佐助の姿は滲んで消えた。
 どうも、彼の忍びはこの状況を面白がっているようにしか見えない。
 何がそんなに楽しいのかと思いながら、は幸村の後を追って馬の腹を蹴った。

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20120801 シロ@シロソラ
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