第五章 第十話

 空中で体勢を崩したその頭に、クナイを投げた動きを殺さぬまま身体を反転させた佐助の踵が落ちる。
「――ッ!」
 力を入れた脇腹からごぼ、と血が溢れる、その感覚にわずかに眉を動かしながら、佐助は足を振りぬく。
 轟音がして、ついに風の悪魔の身体が地に落ちた。
「ッは、」
 受け身を取りきれずにその近くに落ちた佐助が、よろりと起き上がる。
「なにアンタ、懐になんか大事な物でも入れてるわけ?」
 立ち上がった佐助の傍らに分身二人が降り立ち、闇に呑まれて消える。
 睥睨する佐助の視線の先、ゆら、と風魔小太郎の身体が持ち上がった。
 両膝を狙ったから立ち上がれないはずだと細めた佐助の眼に、風魔小太郎の周りの雪が舞い上がっている様子が映る。
 と同じ、風のバサラ。
 の方がこの忍びから戦闘術を習っているのだから、こちらが本家本元だ。
 さすがに身のこなしの速さも、繰り出される攻撃の手数もとは段違いだった。
 それだけに、あの隙が気になる。
 わずかな衝撃でもその価値が失われるような大切な物でも入っているのだろうか。
 たとえば、
「・・・・・・ちゃんへの贈り物、とか?」
 ごッ、と風が鳴る。
 それが風魔小太郎の返事であるように、佐助には聞こえた。
 佐助が眉を顰めたのと同時、風魔小太郎の姿が黒い羽に包まれる。
「!」
 しまった、という思考が整う前にクナイを放つ、しかし強い風が羽を撒き散らし、その姿が掻き消える。
 そしてふつりと、風が止んだ。
「――くっそ、」
 足の力が抜けてその場で膝をつく。
「長!」
 巻き込まれるから離れていろと命じていた部下が降り立つ。
「才蔵に連絡しろ、早く!俺様は後を追う」
「しかし手当を、」
「何度も言わせるな!」
 吐き出すようにそう言い置いて、佐助は地を蹴った。
 出血のせいか、視界がぼやける。
 木々の間を縫うように跳びながら、懐から丸薬を取り出して口の中に放る。
 奥歯で噛み砕くと、ひどい苦みが口の中に広がり、幾分意識がはっきりして、視界が戻った。
 ――間に合えよ!
 




 黄梅院の元を辞して自室に戻っても、目が冴えて眠れる気がせず、は文机に向かって何をするとはなく腰を下ろしていた。
 かたかた、と障子が鳴る。
 眼だけ動かして音の方を見る。
 月明かりだろうか、障子の向こうはぼんやりと明るい。
 風の音がして、障子がまた鳴った。
「・・・・・・」
 傍らに置いていた刀を左手で掴み、立ち上がる。
 板張りの床を歩き、障子を開ける。
 ひょう、という音がして、頬を風が撫でていった。
 濡縁へ出る。
 木々が揺れている。
 見上げると、満月が天の頂を少し過ぎたところにあったが、黒い雲が恐ろしい速さで動いていて、時折満月の輝きを隠す。
 春の嵐というよりは、野分のような風だ。
 どちらにしても季節外れであることに変わりはない。
 眼を閉じて、身体を通り抜けていく風に意識を向ける。
 この風は何だ。
 風が強さを増して、の結い上げた髪が躍るように揺れる。
 わずかに臭いを感じて、鼻を鳴らす。
 錆びたような、におい。
「・・・・・・血・・・・・・?」
 なにか、来る。
 そう感じては左手に持つ刀の柄に、右手を構える。
 身体の重心を落とす。
 ごうごうと耳元で鳴る風の音がどんどん強くなり、
 ――ふ、と風が凪いだ。
 ぱさりと、髪の毛が肩に落ちる。
 静寂が、落ちてくる。
 あたりの静けさに比例するように、の頭は冷えてゆく。
 意識を集中する、気配はない。
 だが、確実に、何かを感じる。
 なにか、

 ――冷たいような、熱いような、眩しいような、昏いような、
 ――それは明確な殺気だった。

 抜刀した刃が、己に向けられた刀とぶつかって、小さな火花が散った。
 風を使って刀を振りぬく、弾かれたように相手は後ろに跳び、ゆらりと降り立った。
 その姿を認めて、の顔から表情が抜け落ちる。
「・・・・・・お前か」
 数か月ぶりに見る姿だった。
 近いうちに来る、そう聞いたときには、実際目にすれば郷愁の念の一つでも湧くだろうかと思っていた。
 しかし。
「――小太郎」
 頭の芯が、急速に熱くなっていくのを感じる。
 それと同じくして、心の臓がどくどくと音をたてる。
 抜刀した刀を鞘に戻す、ちき、という音が静寂の中に響く。
「――猿飛殿は、どうした」
 雪明りの照らされてぼんやりと明るいの視界には、相対する小太郎の身体中に赤黒い汚れがあるのが映っている。
 血だと、確信していた。
 小太郎自身の血なのか、あるいは。
「わたしは聞いているのだ小太郎、」
 ふわ、とは濡縁から降り、
 その足が地に付く前に風を蹴って瞬時に小太郎の眼前まで跳び、抜刀の刃でを躊躇なく振るう。
「猿飛殿は、どうしたッ!!」
 正確に小太郎の首筋を狙ったの刀を、小太郎が忍刀で防ぐ。
 ぎりぎりと、力比べが続く。
「真田の忍びがお前の足止めをしたはずだ!どうしたと聞いている、答えろ!!」
 風が爆発する。
 硬質な音が響いて、が刀を振りぬいた。
 小太郎が背後に跳ぶ。
 おかしい、と感じて、血が昇っていた頭が冷えた。
 自分が、小太郎を弾き飛ばしたのは、今が初めてだ。
 そんなことが、できるはずがないのだ。
 改めて、小太郎の姿を見る。
 その両膝に傷を認めて、は眉を動かした。傷口からして武器はクナイ、正確に関節を狙っているその技量。
 確かに小太郎の機動力を最も簡単に削げるのは、足への攻撃、特に膝などの関節であれば、通常の人間であっても立ち上がれなくなる。
 風のバサラ持ちである小太郎ならば、その力を使えば浮き上がることも動くことも可能だが、そのために余計に風を動かさなければならないから、自然と攻撃や他の動きに支障が出る。
 これは、佐助の手腕。佐助が確かに小太郎と戦ったのだと、確信する。
 そして――
「殺した、のか」
 ざわりと、身体中の血液が動く音が、聞こえた気がした。
 刀を手にしたら一切の感情を殺せ、そう目の前の忍びから教わったのに。
 常であれば呼吸をするのと同じくらい自然にできていることが、なぜか今だけは感情が暴れるのが抑えられない。
「御本城様からわたしへの暗殺の命が下されていることも知っている」
 絞り出すように、声が口から漏れる。
「お前が来たら、話して帰ってもらおうと思っていた」
 そう、風魔小太郎は話が通じる相手だ。
 自分は北条を裏切る。だから、小太郎とも敵対することになる。
 しかし、自分を暗殺しようがしまいが、信玄が北条に攻め込むことは変わらないだろう。
 それに武田の本拠地であるここは、真田の忍びたちの眼も光っていて、小太郎に不利だ。
 だから、決着をつけるなら、戦場で。
 正面から当たって敵う相手ではないことは、にだってわかっている。
 それでも、風魔小太郎とは正々堂々と、戦場で刃を交えようと思っていた。
 そのつもりだった。
「だが」
 の周囲を風が渦巻く。髪の毛が、ゆらりと持ち上がる。
 その眼はどこまでも怜悧に、小太郎を射抜く。
 この男が、猿飛佐助を殺したと、いうのなら。
「――お前を、許さない」
 その言葉に、小太郎が動く。
 黒い羽が散り、瞬時に間合いを詰められて、無数の斬撃が降り注ぐ。
 はそれを全て刀で受け、最後の一撃に追い風を乗せる。
 爆発のような衝撃があって、小太郎の姿が掻き消える。
 背後、と気配を読んで、しかしそちらに意識が向いた隙にの身体は風の塊に弾き飛ばされた。
「ッ」
 ざん、と雪を散らして着地し、その眼前に小太郎の刃が迫る。
 やはり敵わないか、とどこか他人事のように考え、
 小太郎の刃が、止まった。
「・・・・・・」
 は眉を動かす。
 小太郎が、刀を背の鞘に納める。
「・・・・・・?」
 思えば、初めからおかしかった。
 初めの一撃は、確かに殺気が籠っていた。
 暗殺を得意とする風魔小太郎が、殺気など発するわけがないのだ。
 言葉も物音もどんな気配も発することはなく、殺される側が殺されたことにも気づかないような暗殺をするのが、この忍びだ。
 それがなぜ、あのようなあからさまな殺気を放ったのか。
 ――が、その攻撃を防ぐことができるように、わざと殺気を発したのか。
「・・・・・・小太郎?」
 その表情を見上げる。
 はいつも、その表情と気配が発する雰囲気で、小太郎の言いたいことを察してきた。
 今の、小太郎は。
 ・・・・・・困惑?
 そんな感情を、この忍びが持つところを、見たことがない。
 小太郎はまっすぐとに顔を向けたまま、懐に手を入れる。
 武器だろうかと身構える、の先、小太郎が何かを懐から取り出して、

 どん、と音がした。
 凶悪な形の刃が、背後から小太郎の胸を突き破っていた。

 殊更ゆっくりと流れる視界の中、は茫然とその刃を見つめる。
 その形に見覚えがある。
 甲賀手裏剣の、変形。

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20120729 シロ@シロソラ
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