第五章 第八話

 ずいぶんと柔らかくなった日差しの中、濡縁では佐助に左腕の包帯を変えてもらっていた。
 内庭はいまだ白銀一色の雪景色だったが、陽の高いうちはこうやって外に出ていてもそれほど寒さが堪えることがない。
 ようやく甲斐の冬にも慣れたのだろうかと、は思っていた。
「うん、傷口は完全に閉じたね」
 よかった、と小さく笑って、佐助が湿らせた手拭いで左腕を丁寧に拭いて行く。
 わざわざ水ではなく湯を用意している佐助の気配りに、は呆れたように眉を下げながら口を開いた。
「血が止まったならもう包帯など不要だろう、薬だって勿体ない」
「何言ってんの、今までもそうやってずさんな扱いしてたからこことかこことかこんな痕になってるんでしょ」
 佐助はそう言って、左腕に走っている裂傷の痕を指さした。
 どれも古傷で、もいつどのようについた傷だったか覚えていない。
「別に、痕になろうが何だろうが、満足に動かせるならそれでいいではないか」
「まぁちゃん自身はそれでいいんだろうけどさ、今回はうちの旦那の痕を残すなって命令だから。大人しく従っといて」
 そう言われればそれ以上反論する余地もなく、は息を吐いた。
 そもそも武田家の者でも真田家の者でもない部外者の自分が、こうやって手厚い手当を受けられること自体が贅沢極まりないのだ。
「・・・・・・女も男も変わりはないと思うのだがな」
「旦那のこと?」
「ああ。おなごなのだから傷を残すなということなのだろう。戦に出るのを控えた方がいいなどとも言っておられた」
 佐助は清潔にした傷口に薬を塗りながら言う。
「旦那はさ、今まで身の回りに若い女の子なんていない状態で育ってきたから、殊更女の子は守らなきゃ!みたいな考えがあるのかもね」
「・・・・・・貴方は、幸村殿と付き合いが長いようだな」
「そうだねぇ、もう十年くらい?になるかな」
「え」
 思わずは言葉に詰まった。
 目の前の忍びの顔をまじまじと見つめる。
 猿飛佐助は、年齢のよくわからない男だ。
 自分や幸村よりは年上なのだろうと、は思っている。
 多く見積もっても二十歳あたりだろうと思っていた。
 十年引いたら十歳。
 忍びはこの日の本の各地にあるという「里」で生まれ育ち、技術を身に着け、奉公先へ出るのだと聞いたことがあるが、そのような子どもといえる年齢で里を出る者もいるのだろうか。
 あるいは、この忍びが予想以上に年上であるのか。
「・・・・・・貴方いったい何歳なのだ」
 つぶやくように漏れた問いに、佐助は胡散臭い笑みを顔に張り付けて答える。
「内緒」
 それ以上聞いても無駄と判断し、は息を吐いた。
「そういえば、貴方の武器は甲賀手裏剣の変形のように見えたのだが、出身はあちらなのか」
 佐助が眼を丸くしてこちらを見た。
「何だ」
「いやぁ、ちゃんからそんな質問が出るようになるとは」
「何がだ」
「だってそれって、俺様にちょっとは興味を持ってくれたってことでしょ」
「・・・・・・」
 一気に表情を消したに、佐助が慌てたように掌を振る。
「いや違う違う変な意味じゃなくて、ちゃん他人の身の上話とか感心なかったでしょ」
「・・・・・・そうだな」
 確かにこれまで、誰かにその人自身のことを問うた記憶がない。
 今のは、佐助の年齢と、忍びの里のことを思い浮かべて、何とはなしに出てきた質問だった。
「質問の答えだけど、確かに習ったのは甲賀の忍術だけど、修業の間に里にいたことはないよ。養い親?みたいな人から忍術習って、その後なんだかんだではぐれになってたところを、旦那に拾ってもらったんだ」
「・・・・・・」
 今度はがわずかに眼を見開いて佐助を見つめた。
「何かなその顔」
「・・・・・・、いや、貴方こそ、常なら今のは『甲賀の出身』とひとことで終えるところだったろう」
 甲賀の忍術を使っていることに相違がないなら、そう答えておけばその他のどうやら複雑そうな事情を言葉に出さずに済むというのに。
 佐助はその指摘が意外だったのか一瞬言葉を飲み込み、頬を掻いた。
「あー、そうかもねぇ」
 そして、へらりと笑う。
「なんか、俺ら今までどんだけ腹の探り合いで会話してたんだろうねぇ」
「確かにな」
 もつられて小さく笑った。





 二人で話しているところに、幸村が現れた。
「お加減はいかがでござろうか?」
 そう言いながら腰を下ろす。
「ああ、まだ動かせば痛みはあるが、血も止まったし快方に向かうだろう。猿飛殿は薬師としても優秀だな」
「そうでござろう!佐助にできぬことはないからな!」
 誇らしげに笑う幸村の横で、佐助が薬を片付けながら半眼で言う。
「主人が主人だからね、なんでもできるようになりましたよ」
「なるほど俺のおかげか!感謝しろ佐助!」
「はいはい。感謝してる感謝してる」
 面倒くさそうに答えている佐助に、しかし幸村は満足そうにうむ、と頷いている。
 不思議な主従だなと、それを見ながらは思う。
 以前佐助が自分で言っていたとおり、忍びを人扱いしない者は多い。
 しかし幸村は佐助や、他の配下の忍びにはまるで兄弟か何かのように屈託なく接している。
「珍しい?サン」
 こちらの表情を見透かして、佐助がにいと笑いかけてきた。
「そうだな。少なくとも貴方たちのようなやりとりをする主と忍びを、わたしは他に知らない」
「今躑躅ヶ崎に来てンのは一部だけど、真田忍びはたいがいみんなこうだよ」
「某は佐助や他の忍びに育てられたようなものであるからな」
 佐助の言葉に、幸村が頷いた。
「そうなのか?」
「ああ、父上も母上もめったに会えぬお人であったがゆえ」
「そうか」
 は頷きながら、幸村の横顔を見つめる。
 以前、幸村は幼少期に越後へ人質に出されていたと聞いたことを思い出す。
 彼にも、幾多の苦難があったのだろう。
 人にはそれぞれ、その人のこれまで生きてきた人生がある。
 当たり前のことだが、これまで意識したことのなかったことで、それに気づいたはまた一つ、自分の感覚が広がるような気がした。
「・・・・・・そうだ、殿!」
 感慨にふけっていると、幸村が思い出したように声をあげた。
「どうしても佐助に見せたいものがあるのだが!」
 その勢いに押されるようにわずかに上体をのけぞらせて、は答える。
「な、何だろう」
「倒れられる直前に、風を操っておられたのを覚えておいでだろうか」
 言われては記憶を探る。
 倒れた前後のことは記憶が曖昧だが、確かに風を感じたような感触がある。
 ぞくりと、背筋に冷たいものが奔る。
 そのような、曖昧な意識でバサラを使うとどうなるか、これまでも幾度か経験がある。
「・・・・・・暴走、しただろうか」
 しかし幸村は笑顔を浮かべたままだ。
「いや気にされるようなことは何もござらぬ、何かが壊れたわけでもない。ただあの時、風で雪が舞い上がった様がまこと美しく、ぜひもう一度見たいと」
「何それ俺様に見せるとか言って見たいの自分なわけ?」
 主従が言い合っているのを聞き流しながら、はどうやら危惧したようなことは起きなかったようだと内心胸を撫で下ろして、眼前の雪景色を見つめる。
 風で雪が舞い上がった、と幸村は言った。
 風に意識を集中する。
 反対に、自らの両腕から意識を無くす。
 自分の手が風になって、雪を掬い上げるように――
「こう、か?」
 ひゅう、と風の音がして、雪の塊が宙に浮いた。
 傍らの幸村を見て、その表情からどうやら違ったらしいと判断する。
「え、ええと、もう少し雪が細かく、粒、いや粉か、そのような状態で舞い上がったのでござる」
「ふむ、」
 は頷いて風に意識を戻す。
 それならば、掬うというより撫でるが近いのかもしれない。
 雪を浚(さら)う風は鋭く。巻き上げる風は柔らかく、広範囲に。
 こうだろうか。
 ふう、と頬を風が撫でる。
 そして雪の粉がふわりと巻き上がった。
「・・・・・・!」
「おお!」
 巻き上がった雪が、陽の光を反射して、ちらちらと輝く。
 風を動かしているのは自分だというのに、も目を丸くしてその様を見つめた。
「・・・・・・きれい・・・・・・」
「すごいでござろう!?」
 幸村が眼を輝かせている。
 なんてきらきらしい、笑顔。
「うわー、ここでこれが見れるとは・・・・・・」
「む、佐助、見たことがあったか?」
「えとね、旦那。これ駿河とか雪の積もらないところで、冬の、こういう天気の良い日に見れたりするんだけど」
 佐助は二人を見て、笑う。
 がこれまでに見たことがなかった、穏やかな笑顔だ。
「風花(かざはな)、ってゆーんだよ」
 言われて幸村はふたたび舞い上がってい雪に視線を戻す。
「なるほど、確かに花のようでござるな!」
「いや俺様も驚いちゃった。仕事中に見たから正直目の前がちらついてうざいったらなかったんだけど、こうやってのんびり見ると綺麗なもんだねぇ」
 ふわふわ、きらきら。
 雪の様子を見つめる二人の笑顔を、は声もなく見ている。
 は自分のこころがどこか暖かくなるような感覚を味わっていた。
 このように、誰かを喜ばせるようなことが、自分にでもできるのかと。
 そう思うと、くすぐったいような、気持ちになる。
 二人の、このような顔を、もっと見たい。
「もう少し季節が進んじゃうと太陽の光で表面の雪が解けだして重くなっちゃうからもう見れないかもね」
 佐助が眩しそうに眼を細めて、そう言った。
 幸村は残念そうに眉を下げ、を見る。
「む、では来年、また見せてくだされ殿」
 その言葉にはゆっくりと瞬きをして、幸村と佐助を見つめた。
 おそらく純粋にこの美しい現象をまた見たいと思っての言葉だったのだろう。
 しかし幸村からは見えない後ろ、佐助の顔は曖昧な表情を浮かべている。苦笑、のような。
 はふたりを見つめて、口を開いた。
「ああ、来年も一緒に見よう」
「本当でござるか!」
 幸村が顔を輝かせる。
「いーの、サン、そんな約束しちゃって」
「佐助、何を」
「だってそれ、来年も甲斐にいるってことでしょ。アンタ北条の将なんでしょうが。それでいーわけ?」
 口調こそ軽いが、眼が笑っていない。
 しかしはその口元に笑みをうかべて、頷いた。
「ああ。わたしは、自分の力で貴方たちが喜んでくれたのは、本当にうれしかった。このような気持ちになれるなら、来年も、その先も、貴方たちの傍にあろう」
「なんと!」
 ようやく話の意図がわかったらしい幸村が微笑む。
「それは某も、まことうれしゅうござる!」
「そう言っていただけると、わたしも嬉しい」
 佐助は頬杖をつきながら、嬉しいと言い合っている二人を半眼で眺める。
 その様子に気づいて、幸村が眉を上げる。
「何だ佐助、殿が甲斐に留まってくださるというのに何が不満だ」
「いや、それはいいと思うよ、ほんと」
 適当にそう返事をして、佐助は薬類を懐に納めると立ち上がった。
「じゃ、俺様仕事があるから」
 そう言い置いて二人が何か言う間もなく、屋根の上へと消えていく。
「・・・・・・なんだ、あやつは」
「・・・・・・」
 怪訝そうな表情の幸村の傍らで、は表情を消して佐助が消えた方を見続けていた。





 館にほど近い森の中、一際高い木のさらに頂近い枝に佐助は寝そべっている。
「あーあ」
 頭の中では、先ほどみた雪の輝きが舞っている。
 ・・・・・・結局、大将の思惑通り、か。
 確かに有能な人材だ。信玄の役には申し分なく立つだろう。
 考えて、自嘲の笑みを口に張り付ける。
 こうなるよう仕向けたのは自分だ。
 が祖国を裏切り、甲斐に味方するようにと。
 そのために幸村を使った。
 幸村にとっても悪い人間ではないから、ゆくゆく恋仲にでもなってくれればいいのかもしれないが、あの調子ではまだずいぶんと時間のかかることだろう。
 ・・・・・・そうなる前に、使い潰されなきゃ、いいけど。
 武田信玄は、人を使うことに恐ろしく長けた男だ。
 ――人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
 信玄の口癖だ。
 適材適所と言えば聞こえはいい。
 実際に信玄の采配により如何なく力を発揮できる人間は多い。それが武田の最強騎馬隊を支えていると言っても過言ではない。
 だがそれゆえ、人は信玄を盲信する。
 信玄はそれをよく理解したうえで、病むか死ぬまで人を、平たく言えば利用し続ける。
 厄介なのは、使われている側にその意識がないことだ。
 死ぬ間際まで信玄に尽くす、その姿を佐助は反吐が出る思いで見てきた。
 は一途で律儀だ。信玄の良いように使われる様が目に浮かぶ。
 そのうち諜報活動など汚いことをさせられて(何しろ彼女の感情表現の少なさや能力は忍びに向いている)、身体の前に心を病むだろう。
 そのことに気づきもせず、忠誠を誓い続けるのだ。
 ・・・・・・旦那の、二の舞にだけはさせたくない。
 そうは思っても、春になれば幸村も佐助も上田に戻る。
 忍隊の一部は躑躅ヶ崎に常駐しているが、それぞれ仕事があってのことなので、そうそうの様子ばかり窺うわけにもいかない。
 ・・・・・・微妙に眼の届く範囲、ってのがまた嫌だねぇ。
 それならばまだ、小田原に戻ってくれるとか、眼の届かないところに行ってくれたほうが後腐れが無くてよかった。
 ・・・・・・妙に関わっちゃったおかげでとんだとばっちりだ。
 虎に生贄を一人差し出した、それだけだ。
 一体何を悩む必要があるというのか。
「・・・・・・ヤキが回ったかねぇ」
 羽音が聞こえて、佐助は身を起こす。
 すい、と右手を伸ばすと、示し合わせたように一羽の鴉が腕に止まった。
 カア、と一声。
 佐助はその鴉を左肩に移動させて立ち上がる。
「さァて」
 木の幹にこん、と頭を当てる。
「お仕事お仕事ッと」
 そう呟いて、その姿は黒く滲んで消えた。

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20120727 シロ@シロソラ
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