第五章 第七話

 佐助の姿が黒く滲むように消えるのと同時、障子の向こうに見知った影が見えた。
殿、入ってよろしいだろうか」
「どうぞ、入られよ」
 答えると、静かに障子が開いて、幸村が現れる。
 幸村が室内を見るように視線を動かしたので、は口を開いた。
「猿飛殿なら、今は外しておられる」
「・・・・・・左様でござるか、」
 そう言って、幸村はの傍らに腰を下ろした。
「貴方だろう、猿飛殿の顔を殴ったのは」
「む」
 幸村が唸るように言って眉根を寄せる。
 それを肯定と判断して、は小さく笑った。
「貴方もわかっているはずだろう、猿飛殿の判断は、正しいと」
「わかっておるゆえ、真田幸村として、あ奴を褒めた後、ひとりの男として、殴ったのだ」
「・・・・・・どう違うのだ」
 聞くと、幸村はうむ、と頷く。
「徒(いたずら)に誰かを犠牲にするようなやり方を、某は許せぬのだ」
 その、まっすぐな眼差しを受け止めて、は言った。
「・・・・・・猿飛殿の苦労が思いやられるが、貴方はそういう人で、それでよいのだろうな」
「うむ、某はこうとしか生きられぬ性分ゆえ、あ奴にはいつも苦労をかけておる」
 以前聞いた言葉を思い出す。
 「義」とは人道。人であることを、辞めないこと。
 幸村がまっすぐに、進んでいる道だ。
 この男の、そういうところに、自分は惹かれているのだろうと、は思っている。
「・・・・・・そういえば、やっと、わたしの方を見てくれたのだな」
 真正面から幸村の顔を見るのが久しぶりな気がして、はそう言った。
 幸村が言葉に詰まる。
「・・・・・・、そうで、ござるな」
 その様子に、はわずかに、眉を下げた。
「・・・・・・きっとわたしが何か貴方の気に障るようなことをしたのだろう、わたし自身が把握できていないことが申し訳ないが」
「――そうではござらぬ!」
 弾かれたように大きな声で言われて、は驚いて反射的に肩をすくませた。
 その様子に幸村が慌てたように続ける。
「そうではござらぬ、決してそのようなことは。ただ・・・・・・、最近、殿を避けていたことも、事実なれば」
 そこで幸村は言葉を切った。
 眉根を寄せている。
 体調でも悪いのだろうか、いやそれよりも、悩んでいるように、見える――はそう判断した。
「どう、されたのだ」
 聞くと、幸村は一度眼を閉じ、深呼吸をしてから眼を開くと、まっすぐとを見つめた。
「このようなことを聞いて、気を悪くされたら申し訳ない。・・・・・・そして、答えたくないと思われるようなことなのであれば、遠慮なく答えないでいただきたい」
 遠慮なく答えないというのもおかしな言葉だなと思いながら、はその前置きにとりあえず頷く。
「承知した。何だろうか」
 幸村はそして、その問いを口にした。

殿は、おなごなのでござろうか」

 やはり、の表情は一切変わらなかった。
 ゆっくり一呼吸分の間があって、は一度瞬きをする。
 その長い睫毛を、幸村は吸い寄せられるように見つめる。
 深い色の瞳がすうと動いて、幸村を見た。
「・・・・・・まず、礼をさせてほしい」
「礼、でござるか」
 話が読めず、幸村が鸚鵡返しに答えると、は続ける。
「ああ。意識を失う前のことを、あまりはっきりとは覚えていないのだが、――貴方に薬師を呼ぶなと頼んだだろう」
 ――『頼む、ゆきむら、どの。・・・・・・薬師に、からだを、みせたく、ない』
 の言葉が脳裏に響いて、幸村は頷いた。
「確かにそのように、申されていた」
「あの状態では無茶な願いだったろうに、聞き入れてくれた。ありがとう」
「礼など、そもそもの原因はこちらにあるのでござれば、」
 幸村の言葉を遮るように、は右手をついて半身を起こす。
「!まだ起き上がられては、」
 起き上がった分、と幸村の顔が近くなる。
 幸村はなぜだか動けずに、の眼を見つめ続けている。
「貴方にはもはや、偽りも誤魔化しも不要であろうな」
 そう言って、は幸村の眼を見つめ返す。
「わたしは確かに女だ、幸村殿。家の継続のため、男として元服し、の名を名乗っている」
「・・・・・・、左様で、ござったか」
 の言葉に答えた幸村は、静かな笑みを浮かべていた。
「・・・・・・あまり驚かれないのだな」
「これでも驚いておりまする。ただ、某にとっては、殿が殿方であろうが姫君であろうが、何ら変わりはないものと、今改めて認識いたした次第」
 男でも女でも違いはない。
 は幸村の言葉を頭で咀嚼した。
 それはつまり、幸村にとって自分が、所謂男女間の情愛の対象にはならないということだ。
「・・・・・・なるほど」
 不思議なものだ。
 黄梅院に聞かれたときにはあれほど、現実味のないものだと考えていたことなのに、いざその可能性はないと言われると心のどこかで落胆している自分がいる。
 だが、これでよいのだ。
 実らぬ想いであることは、百も承知だった。
 どういう顔をしていいかわからなくなりぼんやりと幸村を見つめていると、幸村は拳を握って力強く頷いた。
「そう、この幸村にとって、殿は大切な御仁なれば、その性別など関係ないのでござる!」
「・・・・・・は?」
 大切な御仁。
 今確かに、そう言った。
 それは。
 ・・・・・・どういう意味だ?
「それはそうと殿!」
 考える間もなく、幸村がその顔から笑みを消す。
「おなごの身であるならば、なおさら、傷を負わせるようなことになって重ね重ね申し訳が立ちませぬ!」
 さきほど、佐助が幸村から傷を残すなと命じられた、とぼやいていたのを思い出す。
 こちらの返事を待たず、幸村はまくしたてるように続けた。
「お館様は殿を家臣に迎えたいと仰っておられたが、やはり戦に出られるのも控えられたほうがよいのでは、某なんとか上手くお館様に進言を」
「貴方はそうやって一人で考えを完結する癖がおありのようだな」
 眉間を指で押さえながら、は幸村の言葉を遮った。
 嘘や隠し事ができないだろう幸村に、あの信玄相手に「上手く進言」ができるとも思えない。
 信玄はが女であることを把握しているから、そもそもその発想自体が無用だ。
 は幸村の眼をまっすぐ見つめ、諭すように言う。
「わたしは今までも、そしてこれからも、一人の武人として生きていくつもりだから、そのような心遣いは不要だ」
「しかし、」
「それはわたしの覚悟であり、誇りだ。こればかりは、貴方の意見は受け入れられない」
 そう言うと、幸村は押し黙った。
 あの、捨てられた犬のような顔だ。
 言葉が過ぎたのかもしれない、はそう思い至って、内心焦る。
「そ、その、ただ、心配をしてもらうというのは、やはりありがたいことだな」
 幸村から目線を外して、は言葉を探す。
「・・・・・・小田原にいたころは、心配ばかりかけていたのだが」
「それは・・・・・・、ご家族に、でござろうか」
 幸村が反応したので心のうちで小さく安堵しながら、は首を振る。
「いや。両親は早くに亡くなったし、兄弟もいないから、わたしに家族はない。ただ、口うるさい家臣と、母のようであった侍女がいて」
 幸村は、そう言うの表情を見ている。
「その方々は、今はどうされておられるのだ」
「家臣の方は北条家の直参に、侍女は実家に戻った」
 ここではないどこかを見ているような眼が映しているのは、幸村の知らない小田原城の景色だろうか。
 は口の端を小さく上げた。
「一郎といって、わたしの乳兄弟なのだが、これがもう礼のなっていない男で煩いことこの上なかった」
 そのの表情に、幸村の胸の奥がちり、と痛んだ。
「――、ああすまない、このような思い出話は不要だな、」
 これから武田は北条に攻め込むのだから、と付け加えてが幸村を見ると、幸村は眉根を寄せて、こちらを見ていた。
 怒っている、のだろうか。
「幸村、殿?」
「その、一郎なる男は、」
 幸村の声が低い。
 初めて聞く声色だ。
 何かまた、自分は失言を犯したか。
 は記憶を探って視線を彷徨わせ、
「――ッ、すまぬ、なんでもござらぬ!」
 幸村が大きな声でそう言って、の両肩を掴んだ。
「ゆ、幸村殿!?」
 が驚いた声を上げるのを無視して、幸村はの細い肩を押して衾に寝かせると、先ほどが起き上がった際に落ちたままだった手拭いをそうっと額に乗せ、立ち上がった。
殿はまだ本調子ではないというのに、長居をして申し訳ござらぬ、佐助に早く戻るように言っておくゆえ、何か用があれば何なりと申し付けくだされ」
 それでは失礼、と言い置いて、が何か言う間もなく、幸村は室を出て行ってしまった。
 ・・・・・・何なのだ、いったい。
 その気はないようなことを言ったそばから大切などと口にして、謎の問いかけを残してこちらの言葉も聞かずに行ってしまう。
 は一つ息を吐いて天井を見上げる。
 その一点を見つけて、そこまで聞こえるように言った。
「どうやらずいぶんと厄介な男に懸想しているようだな、わたしは」
 しばらくの間。
「・・・・・・うんごめん、俺様の育て方が悪かったのかも」
 天井が佐助の声で、そう返事をした。

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20120727 シロ@シロソラ
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