第五章 第六話 |
桶に入れた水に手拭いを浸しながら、佐助はの寝顔を眺めていた。 出血が多かったせいか、もともと白い肌が一層青白い。 無意識に、左手で自分の頬に触れる。 濡れた手がひやりと心地よく感じるほどに、左頬は腫れているようだ。 先刻、幸村に呼び出されて、開口一番「まず一発殴らせろ」と言われて、大人しく殴られた。 そういえば、鍛錬以外で幸村が佐助をああまで正面から気合いを入れて殴ったのは、これが初めてではないだろうか。 そして幸村は眉根を寄せた複雑な表情で言ったのだ。 「すべて俺のためなのだろう、その点についてはお前はよくやっている。しかし方法を考えろ。徒に他の者の命を危険に晒すようなことはするな」 佐助はそれを、黙って聞いていた。 忍びが館に侵入したのを確認して、最後まで手を出さないようにと部下たちに指示し、自分もそのつもりだった。 最後の一瞬まで、自分の判断に、何一つ疑いを持たなかった。 あの、クナイがの腕に突き立った瞬間、佐助は己の背筋に、何かが這うような感覚があるのに気付いた。 忍びの、しかも暗殺を目的に放たれたクナイだ。 毒が塗られているのは明白だった。 忍びが使う毒は、その忍術の流派や里によって、使用方法や効き目に大きな差がある。 あのクナイの毒が、一呼吸で人間を死に至らしめる劇薬である可能性は少なくない。 つまり、が身体にクナイを受けた瞬間、その死が決定することもあるのだ。 ――が、死ぬ。 思考が、そこに至って、佐助は一瞬、眼の前が暗くなるのを感じた。背筋を這う感覚は、悪寒に似ている。 たかが人間ひとりの命だ。 これまで佐助自身が刈り取ってきた、数えきれない命と、何ら変わりのないものだ。 そのはずだ。 気づくとは侵入者を行動不能にしていた。 あれだけの動きができるのなら、即効性の毒ではなかったようだが、放っておいてよいものであるはずがなく、薬を渡した。 その後、捕えた忍びに、北条氏政から黄梅院とを暗殺するよう命令を受けたことを吐かせた。 これでやっと、二人が北条方の間者でないと、確定した。 ――そうだ、そうであるならば、を死なせるわけにはいかない。 彼女には、幸村の傍らで、役に立ってもらわなければ。 自らのこころの内の、が死ぬと思ったときのあの感覚は、つまりはそういうことだと佐助は結論付けて、冷水に浸した手拭いを絞っての額にそうっと乗せた。 ゆらゆらと、揺蕩うような感覚があった。 悪くはない、と思う。 額に、冷たいものが触れる。 心地いいな――そう思うと、意識が、浮上した。 「・・・・・・」 眼を、開く。 焦点が定まらなくて、何度か瞬きをする。 視界に入ったのは、見慣れた天井。 自室であるとわかった。 自分は何をしていたのだったか。 確か、幸村と話をしていたのでは。 それがどうして、衾に横になって、上掛けまで被っているのだろう。 「――あ。気づいた?」 知った声がして、は視線を動かした。 こちらを覗き込む、顔。 「・・・・・・猿飛殿」 いつもの額当てがない。その、左頬が、腫れている。 「・・・・・・どうされたのだ」 「あーこれ?」 佐助が自分の左頬を指さして、あはー、と笑う。 「ま、自業自得、かな」 「?」 起き上がろうとして、佐助に肩を押さえられた。 「だーめ、まだ寝てて。熱下がってないんだから」 顔を動かしたせいでずり落ちた手拭いを、佐助が額に当て直す。 「・・・・・・貴方は、何をしているのだ」 「旦那がさァ、『薬師は呼ばぬから、責任を持って看病せよ』だって」 わざわざ声を真似て、佐助が笑う。 いつもの、取り繕った笑みではないように、見える。 「しかもさ、『左腕の傷口は痕を残すな』とか。俺様忍びだっての、ほんと横暴なんだから」 だから、と言って佐助がに見せるように、の左腕を掲げる。 「ちょっと薬とか塗り直したから。ごめんね」 自分で巻くよりも上手に巻かれた左腕の包帯を見て、流石だなと思いながら、は口を開いた。 「何故、謝る」 「だって勝手に触ってほしくなかったでしょ」 は、答えなかった。 佐助は小さく息を吐いて、の左腕を下ろすと、上掛けをかけなおす。 「怪我させて、ごめんね」 ゆるりと眼を動かして佐助を見上げる。 この忍びが、こんな顔をするところを初めて見た。 「・・・・・・悪いことをしたと、思ってはいないのだろう」 熱がまだ下がっていないと佐助は言っていたが、幸村と話をしていたときよりもずいぶんと思考がはっきりとしている。 佐助の看病の賜物だろうか。 「貴方はわたしを信用していないのだから、当然のことだ。謝るな」 佐助が眉を下げる。 「手厳しいねぇ」 「それで、黄梅院様を囮にして、貴方の目的は達成できたのか」 そう問うと、佐助はわずかに眼を見開き、そして小さく息を吐いた。 「・・・・・・ほんと、アンタといい黄梅院様といい、手強いね。・・・・・・目的は、半分は達成できた、かな」 「そうか」 「何が目的だったか、聞かないの」 「わたしか、黄梅院様が、北条と内通していないかを確認することだろう」 「それもある。それが確認できたから、まぁ半分は達成ってとこかな」 が眉を動かす。 「他にもあるのか」 「・・・・・・風魔小太郎」 佐助の口から発せられたその言葉に、は全く表情を動かさなかった。 「――やっぱり顔には出さないか、さすがだね」 旦那にも見習わせたいよ、と小さくこぼしてから、佐助はに視線を戻す。 「うちの調査でやっと裏が取れた、小田原城には風魔小太郎がいる。前に言ってた世話になった忍びって、あいつのことでしょ」 は答えない。佐助は気にせずに続ける。 「『伝説』の名は伊達じゃないからね、戦場ならともかく、城攻めの最中にアイツに出くわすのはできれば避けたい。アイツの本分は暗殺だ、視界の狭い城内でそれを防ぐのはけっこう厄介だからね」 だから、と言って佐助はの眼を見る。 「アンタを餌に、この甲斐に、アイツが来るのを狙ってる」 は、瞬きもせずに佐助の眼をまっすぐと見据えている。 この忍びが、笑顔を取り繕うでもなく、威嚇や、殺気を込めるでもなく、こうやって自分を見つめているのを、はこれまで見たことがなかった。 この話は掛け値なしの真実なのだろうと、判断する。 「・・・・・・小太郎が。来るのか、ここに」 「正確には館に入る前にこっちで仕留めるけど、来ることは来ると思うよ、近いうちにね」 は少し考え、 「・・・・・・今回の忍びが、失敗したから、か」 「そう。北条氏政の命令が、黄梅院との暗殺だから」 はやはり、顔色一つ変えなかった。 「・・・・・・驚かないの」 「予想は、できていたことだ」 はその口の端に、自嘲の笑みを張り付ける。 「黄梅院様とわたしを厄介払いしておいて、いざ戦が近づけば、北条方の情報が漏れることを恐れて殺そうとしたのだろう」 あの方の考えそうなことだ、そう付け加えたを、佐助は苦笑して見つめる。 「ちゃんは、変わってるね」 「何がだ」 「風魔小太郎とアンタは、それなりに親しい間柄なんでしょ?剣を習うくらいにはさ」 がわずかに眼を見張る。 「流石だな、そこまで気づいていたのか」 「褒めても何も出ないよ」 佐助はへらりと笑い、 「で、だ。その風魔小太郎を殺すって言ってンのに、アンタ顔色一つ変えないんだね」 は、佐助から視線を逸らさない。 「・・・・・・小田原を出た、あのときから。いつかそういう日が来るのだろうと、思ってはいたから」 感情がないわけではない。 制御が上手い、というよりは、あきらめている、が近いだろうか。 佐助はそう思いながら、を見る。 「アンタ、忍び向きだね。なんなら俺様の下で働いてみる?優秀な忍びになれそうな気がする」 「・・・・・・」 「――冗談だよ、」 口をつぐんだに、佐助は笑いかけた。 「ちゃんは忍びじゃないんだから、も少し自分の気持ちに素直になってもいいんだよ」 「・・・・・・その努力は、しているつもりだが」 「ちゃんのは自分の気持ちを客観的に見てるだけでしょ、まぁそれでも進歩なんだろうけど」 佐助の言葉の意味を図りかねて、は眉根をひそめる。 「ほら、そんな顔ばっかしてると眉間に皺がよるよ」 「・・・・・・今日の貴方はなんだか優しいな」 「あれ、俺様いつでも優しいよー?」 「では、いつもより、優しい」 そう言われて、佐助は一瞬言葉に詰まる。 「・・・・・・アンタがそう思うなら、そうなのかもね」 「それは、わたしのことを少しは信用してくれたから、と捉えていいのだろうか」 「・・・・・・そうかも、ね」 視線を逸らしてそう答えた佐助に、は小さく息を吐いた。 「そうか、貴方の信頼を得られたなら、左腕一本惜しくはないな」 「え、ちょ、左手は別に切り落とさなくたって大丈夫だからね?今は薬の作用であんまり動かせないと思うけど」 佐助の顔を見て、は目元に笑みを浮かべる。 「ほら、やはり貴方は優しいだろう」 「・・・・・・、ちゃんは『素直』をはき違えてるよ」 勘弁してほしい、と佐助は思う。 彼女は今、他人に対する評価――とくに「良い」と彼女が感じた点を「素直に」口にしている。 ・・・・・・旦那が言ったのは、自らの気持ちに「素直に」行動することだと思うんだけどなァ。 気配を察知して、正直助かったと思った。 「――あぁ、横暴なご主人サマが来るから、俺様席を外すね」 なぜだか今は、これ以上、彼女と顔を合わせていられない。 |
20120723 シロ@シロソラ |
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