第五章 第五話 |
左腕に包帯を巻いて行き、右手と口で結ぶ。ぎちり、とその結び目を締めて、は細く長い息を吐いた。 相変わらず物がなく殺風景なの室にあるのは水の張られた手桶と、そこにかけた手拭い。どちらも、赤く汚れている。 はじめは佐助にもらった薬を使わないでいたのだが、血が止まらなくて、侍女に用意してもらった手拭いが赤く染まりきってしまったのを見て、あきらめて薬を使った。 薬の効果が現れたのか、左腕に巻いた布にはわずかに血が滲んでいるものの、出血量は格段に減った。 血が止まらないのも、おそらく忍びの毒による作用なのだろう。 片袖をちぎってしまった着物は肩から脱いで、帯は解いていないから、そのまま腰の周りに纏わりついている。 借りてきた脇息に左腕を置いたまま、はぼんやりと腰を下ろしていた。 これも佐助の薬によるものか、左腕の痺れはなくなっている。ただその替わりに痛みが増していて、脈を打つたびにずくん、ずくんと歯の浮くような鈍痛が奔っている。 痛みのせいか、身体の血が足りないせいか、ものを考えるのが億劫だ。 黄梅院の元へ戻らなければ。 そう思って腰を上げようとして、こちらに近づく足音に気づいた。この音は、 「――殿!!」 障子が壊れそうな勢いで、開いた。 「大事ないで――」 緩慢な動きでそちらに視線を動かすと、声の主は想像どおり幸村で、しかし彼は障子を開けた姿勢のまま、顔を赤くして固まっている。 「――ッ、失礼、いたしたッ!!」 ばん、と音をたてて障子が閉まった。 何事だろうか。 はゆるりと立ち上がり、破ってしまった着物を脱ぎ捨てると、新しいものを着直して、袴の帯を締め直す。 障子を見やると、幸村の影が座っている。 何か用向きでもあるのだろうか。 そう考えて、気怠い身体を引きずるように、そちらへ足を進めた。 幸村は濡縁に座り込んで、頭を抱えていた。 今しがた見た、の姿。 着物の肩を落としていて、上半身は裸に近い状態だった。 まず目に入ったのは毒を受けたと聞いていた左腕。確かに自身で処置を行ったようで、巻きつけた包帯に血が滲んでいた。 そして、胸元にもきつく幅広の布を巻いていた。 そちらは報告を受けていないが、怪我をしたのだろうか。 その胸元にはわずかにふくらみがあったような―― 「・・・・・・ッ」 ちらりとしか見なかった、見間違いかもしれない。 ――違う、何を見ているのだ! 頭の中でもう一人の自分が声を荒げる。 それより。 露わになっていた細い肩や右腕には、大きな傷痕がいくつもあった。 これもちらりと見ただけだが、あれは古い太刀傷ではないだろうか。 もちろん珍しいものではない。戦場に立てば生傷が絶えないのは当然であるし、幸村にも似たような傷痕はたくさんある。 だが。 が女だったとしたら。 どのような思いでその身に傷を刻んできたのだろうか。 「違う、まだそうと決まったわけでは」 「・・・・・・何をお一人でつぶやいておいでだ」 降ってきた声に、幸村はぎくりと肩をこわばらせた。 見上げると、障子が開いていて、傍らにが立っている。 着物をきちりと着込んでいるのを見て、幸村は安堵の息を吐く。 ――安堵? 何を考えているのかと自分自身に内心で喝を入れてから、幸村は口を開いた。 「毒を受けたと、お聞きした。大事ないのでござろうか」 がゆっくりと、幸村の隣に腰を下ろす。 その動きの緩慢さが、らしくなく、幸村は眉をひそめるが、はいつも通りの無表情で答えた。 「大事はない」 「此度のこと、申し訳ござりませぬ」 「・・・・・・何故、貴方が謝罪するのだ」 「我が忍隊の落ち度は、某の落ち度である故」 そう言って頭を下げる幸村に、は息を吐く。 「面を上げられよ。――猿飛殿は、まこと優秀な忍びだな」 「は・・・・・・?」 幸村が顔を上げると、は口の端に笑みを浮かべていた。 「侵入した忍びが、わたしや黄梅院様の密偵ではないかと、わざと泳がせていたのだろう。最後まで手出しはしなかった」 「それならば、佐助が殿に怪我を負わせたようなもの、まこと面目なく、」 「甲斐や、貴方を守るためだ。いくら可能性は低くとも、不安要素は少しも残したくはないのだろう。彼は、優秀だ」 どう答えていいかわからず、幸村が押し黙る。 は幸村から目線を外し、庭園に積もる雪を眺めた。 「・・・・・・わたしとしては、少なくとも貴方に、害をなすつもりはないのだと、そろそろ・・・・・・信じてもらいたいのだが、な」 何を言っているのだろう、とは他人事のように思っていた。 自分はいつでも一人で生きていけると思っていた。 誰かに理解されたい、信じてほしいなどと、思ったことはなかったのに。 「殿?」 幸村の声が聞こえる。 幸村は、信じてくれるのだろうか。 理解してくれるのだろうか。 思考が、融けるようで、纏まらない。 ああ、――風、が、 ふ、と、幸村の頬を風が撫でた。 「?」 思わず庭園に眼をやり、 その耳に、風の音が、鳴る。 「な、」 障子をかたかたと震わせて、風が巻き起こる。 その風が、庭園に積もった雪を巻き上げる。 「・・・・・・!」 細かく巻き上がった雪が、陽の光に照らされて、きらきらと光る。 「なんと、」 幸村はその光景に眼を見張る。 なんて美しい。 「これは、殿が?」 バサラを使っているのだろうかと、傍らのに声をかけ、 ――の身体がぐらりと傾いだ。 「殿!」 慌てて身体を支える。 蒼白な顔に、脂汗が滲んでいる。 意識はあるのだろうか。呼吸が浅い。 「殿!しっかりなされよ!」 手をとると、驚くほど冷たかった。 ごう、と音がして風が強くなる。障子ががたがたと音を立て始める。 バサラを、御しきれていないのだ。 そう思い至って、幸村は口を開く。 「――才蔵!」 「ここに」 音を立てずに、忍びが現れる。 幸村はそちらを見ずに、鋭く言う。 「薬師を、」 「必要、ない」 が薄く口を開いて、そう言った。 「しかし!」 「猿飛、どのから、毒消しは、頂いている。大事は、ない」 途切れ途切れにそう告げる顔色は、どう見ても大丈夫ではない。 しかし、は、幸村の手を握り返して、言う。 「頼む、ゆきむら、どの。・・・・・・薬師に、からだを、みせたく、ない」 「――!」 幸村は押し黙る。 「幸村様?」 忍びの問いかけに、幸村は短く息を吐く。 「・・・・・・薬師はよい。殿に褥を用意したい、侍女を呼んで参れ」 「は」 忍びが姿を消してから、は掠れた声を出した。 「かたじけ、ない」 「もうよい、大丈夫だから、話されるな」 そう言って抱きしめる。 「大丈夫だから」 言い聞かせるように繰り返す。 腕の中から、の声がした。 「ああ・・・・・・あなたは、あたたかい、な」 だんだんと、障子が揺れる音が小さくなる。 そうして、風が収まった。 「殿?」 身体を離してその顔を見ると、悪い顔色も脂汗も変わらないが、呼吸は落ち着いているようだった。 眠っているようだ。 熱があるのかもしれない、と想い、幸村はその額に手を当てようとして、 「・・・・・・!」 前髪で隠れていたその額に、縦一線に走る傷痕に気づいた。 太刀傷だ。 そう古くはない。 初めてに会った時のことが、脳裏に浮かぶ。 あのとき確かに、は額から血を流していて、自分は手拭いを渡した。 あれは。 伊達政宗の六爪による、太刀傷。 ちりりと、胸の奥が焦げるように痛んで、幸村は目の下に皺を刻んだ。 あの男が、に、傷を。 「ッ」 焦燥にも似た、わけのわからない感情が、幸村のこころに浸み入る。 なぜだろうか、その傷の存在がどうしても目障りで、 幸村は身を屈め、その傷痕に、 ――唇を、落とした。 |
20120720 シロ@シロソラ |
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