第五章 第三話 |
風に、意識を向ける。 自身の身体が、髪の毛一本に至るまで、風そのものになるような。 そして、我が身がごとく、風を動かす。 どれだけ自在に、正確に風を操れるか、それはこの集中力にかかっている。 「?」 濡縁に腰を下ろしているに、そろそろお茶でも、と言いかけて、黄梅院は口をつぐんだ。 の、結い上げた髪の毛がふわりと持ち上がる。 戦場に赴いたことのない黄梅院にとって、バサラの力をこれほど間近で見ることは珍しい。 ・・・・・・不思議なものねぇ。 そう思いながら、上着を手に、濡縁へ出る。 「――、黄梅院様」 「そんな恰好じゃ冷えるわよ」 「な、黄梅院様こそお風邪を召されては」 「私は慣れてるから大丈夫よ、ほら着なさい」 押し付けられるように渡された上着を、は肩にかける。 「修業中、だったかしら」 「いえ、そのように大それたものでは。こうして常に、風を動かすことがこの力を使いこなすための方法であるため、半ば癖のようになっております。――近頃、幸村殿から手合せの誘いがござりませぬので、鈍ってはいけないと思いまして」 黄梅院は扇子を口元に当てた。 「どう、弁丸は。ちょっとは慣れた?」 「・・・・・・は」 「いい子、でしょう?」 「・・・・・・はい」 「・・・・・・お正月が明けた、あたりからかしら。何かあった?」 わずかに、が眉を動かす。 黄梅院はそれを肯定ととらえた。 「弁丸が纏わりついてこなくなったわねぇ」 「・・・・・・はい」 「もしかして、気付いたのかしら」 「・・・・・・わかりませぬ」 が女であると幸村に気づかれたのかどうか、それはわからない。 だが、確かに、あの正月の日以来、幸村の顔をほとんど見ていない。 頭に思い浮かぶ幸村の顔は、いつも笑顔だ。 春を告げる暖かな日差しのような。 いい加減耐性ができたのだろう、もう眩しくて見れないとは思わなくなった。 自分が、少しは成長したから、かもしれない。 そう思うと、悪い気はしなくて、は無意識に、口の端をわずかに上げていた。 黄梅院がそれを見て、目元に笑みを浮かべる。 つと、の耳に口を近づけ、扇で隠すようにして、つぶやいた。 「弁丸に、恋でもした?」 「・・・・・・」 は一瞬眼を見張り、しかしすぐに瞼を閉じて、小さく息を吐いた。 あら、と黄梅院は思う。 顔を赤くするとか、多少むきになって否定するとか、そういう反応を想像していたのだが。 「・・・・・・そうやも、しれませぬ」 そんな肯定の言葉が返ってくるとは、思わなかった。 は昨晩積もった雪で一面白銀となっている庭園から視線を動かさずに言う。 「・・・・・・わたしは、この年まで恋なるものを経験したことがございませぬ。だから、これが恋心であるか否かは、正直なところわかりかねているのです」 の声は、静かだ。警戒や、威嚇しているときのあの温度のない声色とは違うと、黄梅院は思う。 「あの方に学ぶことは多く、尊敬しております。そしてできれば悲しみや、怒りではなく、あの笑顔を浮かべてほしいと思っております。――これが思慕の情であるかと、わたしなりに判断した次第」 今が、わずかでも笑顔を浮かべていることを、本人は認識しているのだろうか。 本当に、いい顔ができるようになった。 黄梅院はふわりと、微笑む。 「あなたがそう思うなら、きっとそうなのよ」 「左様でござりますか」 が庭園から黄梅院へ、視線を動かした。 その顔から、笑みが消える。 「・・・・・・信玄公から、幸村殿に輿入れしないかとのお言葉がありました」 「まあ」 黄梅院が眉をひそめる。 「やっぱりお父様はご存じだったのね」 「そのようです」 「それで?」 「あの場は、うやむやに終わりましたが――」 は一度瞬きをする。 「――現実的ではないと、思います」 「・・・・・・どうして、そう思うの」 「前提として、わたしはこの身体以外おなごではござりませぬ。おなごらしいことは何一つできませぬし、武家に嫁ぐなどとはとても。父は、の血を残すためには婿を取れと申しておりました」 黄梅院は扇子で口元を隠しながら、を見つめる。 「そして、たとえわたしが『』ではなく『の』だったとしても、すでに取り潰された家では何の後ろ盾にもならず、幸村殿との縁組は、武田家にも真田家にも何の益にもなりませぬ」 息を吐いて、黄梅院は言う。 「あなたらしい、考え方ね。でもあなたは、弁丸を悪くは思っていないのでしょう」 「幸村殿に、そういう気持ちはないものと」 は表情を変えずに、即答した。 「あの方が優しいのは、何もわたしに限ったことではござりませぬ。あの方にとってわたしは、おそらくたくさんおられるのだろう、」 そこで一度、は言葉を探した。 「――友のひとり、なのではないかと」 難儀なことね、と黄梅院は内心思いながら、扇子の影でもう一度嘆息した。 は客観的に物事を見る眼を持ってはいるが、ときに自分すら他人のように観察してしまう。 それは長所ではあろうが、我が身を省みないの短所とも言えた。 「じゃあ、どうするの?あなたのその想いは」 「どうもいたしませぬ」 あくまでは淡々と続ける。 「わたしひとりの気持ちなど、大勢に何の影響も及ぼしませぬ」 「そう」 黄梅院は頷く。 自己完結してしまっているところに問題はあっても、とりあえずはが自分の想いと向き合った、それは大きな進歩だ。 「――あなたがそれでいいのなら、私はこれ以上口を出さないわ」 黄梅院はそう言って、扇子を閉じて話題を変えた。 「ときに、この間トビザルさんが言ってた北条っぽい忍びだけれど」 「は」 「北条からの、私やあなたに対する密命、だったらどうする?」 が驚いたように目を見開く。 「そのようなこと、口にしてはなりませぬ!この会話とて、真田の忍びにはきっと」 「・・・・・・聞かれてるとわかっててあなた自分の恋心の話なんてしてたの」 「先ほど申し上げましたとおり、聞かれたところで大勢に影響はございませんから」 黄梅院はあさっての方向を向いて、扇子を額に当てた。 「黄梅院様?」 「・・・・・・、いえ、なんでもないわ。――それなら、こっちの話だって、どうせトビザルさんには疑われてることに変わりはないんだから、それこそ聞かれたって大勢に影響はないわよ」 「・・・・・・は」 が頷くのを見て、黄梅院は話を続ける。 「で、北条の忍びよ。私やあなたがここから忍びを動かすなんてできないけれど、北条が――氏政公が、たとえばあなたに何かさせたくてその命令を持ってきているのだとしたら、それがトビザルさんたちをかいくぐってあなたに届いたら、あなたはどうする?」 「・・・・・・黄梅院様が動かれぬなら、わたしは」 「私がいなかったら?」 の返事を遮るように、黄梅院は言う。その言葉に、わずかに鋭さが宿る。 「言ったわよね、考えなさいって。私の存在がなかったとして、氏政公から何かしらの命令があったらどうするの」 が、言葉に詰まる。 心の底ではもう、理解している。 この身はすでに、「御本城様」より捨てられたもの。 の家などもう存在しないのだと。 どうしてもそれが認められなくて、自分で自分に言い聞かせていた。 自分は、北条氏政の家臣であると。 だが、そのような矜持は邪魔なだけであると、はここで――幸村から、学んだ。 「わた、しは」 「たとえば、よ。甲斐の若虎、真田幸村を暗殺せよ、そんな命令だったら?」 「・・・・・・ッ」 できるのか。 もし、北条家は自分を捨てたのではなく、その目的のために甲斐に自分を送り込んだのだとすれば。 膝の上で握った拳に、力が入る。 自分に。幸村を殺すことが、できるのか。 「ああもう、あなた考えに煮詰まったからって自分を傷つけるのはやめなさい」 固く握りしめていた拳に、黄梅院の手が添えられて、は我に返る。 「ほら血が出てるじゃないの」 黄梅院に開かれた掌は、握りこんだ爪が傷つけたのだろう、血が滲んでいる。 「は、申し訳ございませぬ」 懐紙を渡されて、は血を拭った。 その様子に、黄梅院は苦笑する。 「今、すごく悩んだでしょ」 「・・・・・・は」 「それが今のあなたの気持ちなのよ、。その気持ちから、今後どうしていくのか、考えておきなさい」 ありがたいことなのなど、は思っていた。 このご時世、下々の者にはおよそ考えるなどということは、できないに等しい。 主の指示にただ従い、その命を全うする。それが武人であるならば、主の為に、お家の為に、戦場で散ることこそが本懐。 そこに、自らの考えなどを差し挟む余地はないのが普通だ。 それを、信玄も黄梅院も考えろと言う。 「ご配慮、痛み入ります」 そう言って平伏すると、黄梅院はふわりと笑って立ち上がる。 「そろそろ冷えたでしょ、中でお茶でもいかが」 「は、それでは、お言葉に甘えて」 黄梅院について立ち上がり、室内に入ったところで、 「――!」 わずかに。 室内の風が動いた、気がした。 「黄梅院様!」 瞬時の判断で左腕を動かす。黄梅院の肩を掴んで、突き飛ばす。 その次の瞬間、 ――たいした音も立てずに、一本のクナイがの左腕に突き立った。 |
20120717 シロ@シロソラ |
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