第五章 第二話

 幸村は書簡を手に広げたまま、しかし眼はその文字を追っていない。
 ――『わたしはそのように、おなごに見えますか』。
 のあの無表情が、頭から離れない。
 は、と我に返って、頭を振る。
 何を考えているのだ。
 が男子であろうと女子であろうと、一角の武将であることに変わりはない。
 北条家に仕える家臣で、今はこの甲斐の客将。
 幸村にとっては――
「・・・・・・友、だ」
 言葉に出して、ひとりでうなずく。
 少々難のある性格ではあるが、性根は優しい。
 年の近い者が周りにあまりいなかった幸村にとって、弟のような存在である。
 そう。
 その、はずなのだ。
 書簡を広げる両の腕を見下ろす。
 この腕にすっぽりと収まった、あの細い身体の、柔らかさ。
「――ッ」
 いかん。
 きっとこれは、自分のこころが弱いから生ずる気の迷いとか、そういう類のものに違いない。
 心身ともに鍛錬が足りぬのだ。
 ・・・・・・鍛錬と言えば、正月のあの日以来、と手合せを、していない。
 ふわりとの、あの赤らめた顔が脳裏に奔る。
「〜〜〜〜ッ!!!」
 幸村は乱暴に書簡を文机に置き、わしわしと頭を掻きむしる。
 この弱い心を叱ってくだされお館さまああァ!!!
 頭の中で主君に喝とともに殴られる情景を思い浮かべてから、幸村はすっくと立ち上がった。
「佐助ェ!!」
「・・・・・・そんな大声出さなくったって、ここにいるよ」
 天井の板が外れて、腹心が顔を出す。
「鍛錬に付き合え」
 音を立てずに室内に降り立った佐助は、主人を見て眉をひそめた。
「どしたのその頭」
「髪などどうでもよいわ!それより鍛錬だ鍛錬!!」
「どうでもよくないでしょここ躑躅ヶ崎だよ?」
 上田じゃないんだよ、と付け加えると、幸村はいきり立っていた眉を下げる。
「・・・・・・む」
 佐助の言うとおり、ここは自分の城ではない。
 いつ主君や他の家臣たちと顔を合わせるかもわからないのだから、身だしなみは整えなければならない。
「ほら直すから座ってよ、旦那」
 大人しくなった幸村にそう言いながら佐助は手甲を外し、懐から櫛を取り出した。
 そして腰を下ろした幸村の背後に膝立ちになって、先ほど掻きむしったせいで四方八方に跳ねている髪の毛を丁寧に梳いていく。
「で?なんで俺様を呼んだの?鍛錬はこっち来てからずっとサンとしてたじゃないの」
「別に、お前と手合せしてもよかろう」
 幾分落ち着いたらしい幸村が、むすりと言う。
 こういう言い方をするところが、主人はまだまだ子供であると、佐助は思っているが、もちろん口には出さない。
「でも俺様よりサンの方がいいんじゃない?そりゃあ俺様だって刀は握れるけどさぁ、本職じゃないし」
「・・・・・・」
 幸村は前を見据えたまま、何も言わない。
「竜の旦那が帰ってから、かな?旦那サンと顔合わせるの、避けてるでしょ」
「・・・・・・」
 おや、と佐助は思う。
 ムキになって否定すると思っていたのだが。
「・・・・・・お前は、どう思う」
 返ってきたのは、存外に落ち着いた声だった。
「どう、って?」
 幸村は言葉を探すようにしばし逡巡した。
「・・・・・・殿は、おなご、だろうか」
 佐助は、幸村の髪を束ねていた紐を結び直し、櫛を懐にしまった。
「はいできたっと。――で、サンが女だったとしたら、旦那はどうなの」
「どう、とは」
 こちらを振り返りながら、幸村が質問を返す。
「女だと何か変わるの?旦那のサンに対する対応は、さ」
「む・・・・・・」
 幸村が押し黙ってしまったのを見て、佐助は息を吐いた。
 これは助け舟が必要かな、と思い、口を開く。
「旦那さァ、俺様のこと、好き?」
 幸村が呆れたように眉を下げる。
「当たり前だろう、今更何を言っているのだ」
「好きかどうか聞いてんの」
「無論好きだ」
 佐助はひとつ頷いて、続ける。
「じゃあ大将は」
「尊敬しておる」
「・・・・・・まぁいいやそれで。じゃ、才蔵は?」
「お前さっきから何を言っているのだ」
「いいから答えてよ」
「才蔵も好きだ」
「じゃあ小助」
「好きだ」
「十蔵」
「好きだ」
「鎌之助」
「好きだ」
「三好兄弟」
「好きだ」
 佐助はひととおり忍隊の者たちの名を挙げていき、そのすべてに対して幸村は「好きだ」と即答した。
 最後に、佐助はその名を口にする。
「『殿』は?」
「無論、好き、だ・・・・・・?」
 即答しかけて、疑問形で終わった言葉に、幸村自身が首をかしげている。
「なんで疑問形?」
「何故だろうか・・・・・・。何やら、放ってはおけないように思うのだ」
「それって好きとどう違うの」
「いや、好きであることに変わりはないのだが。お前たちと違ってこう、危なっかしいというか」
 佐助はなるほど、と内心思う。
「なんで?そんな簡単にどうこうなるような人じゃないでしょ、腕だって立つしさ」
「それは、わかっておるが・・・・・・、殿は、こう、周りを顧みずに突っ走るような傾向があるように思えて」
「なんだ、よく見てるじゃん旦那」
 ふわりと笑って、佐助は言う。
「ちょっと危なっかしいから世話を焼きたくなっちゃう、それってサンが男か女かで何か変わるの?」
「・・・・・・変わらぬな」
 漸く、幸村が笑顔を見せた。
 佐助は整えたばかりのその頭を、優しく撫でる。
「でしょ。そんな深く考えるようなことじゃないんだよ。難しいこと考えるのは忍び(こっち)の仕事、アンタはアンタの思うようにすればいいんだから、さ」
「そうであったな。――よし、佐助、鍛錬だ!」
 がば、と立ち上がる主人を、佐助は苦笑で見上げ、手甲を身に着けた。
「ま、気が済むまでお相手しますよ」

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20120717 シロ@シロソラ
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