第五章 第一話 |
「・・・・・・幸村殿は、今日もおられないのか」 毎朝黄梅院に付いて食事をとるための室に入れば、そこにはいつだって喜色満面の幸村がいたのだ。 あの、秋の終わりの日から、年が明けるまで、一日たりとも、彼の姿を見ない日はなかった。 「あれ、サン、旦那のことが気になってンの?」 こちらはいつも通り、胡散臭い笑みを顔に張り付けている佐助がそう言うのを、はそちらを見もせずに無視した。 だいたい今のは、思っていたことが口から出てしまった自分が迂闊だ。 どうも甲斐に来てから、気が緩んでいるように思えてならない。もっと引き締めていかなければ、と口を引き結ぶ。 「ていうか、食事は一緒にとりたいってそもそも言ってきたのは弁丸なんだけど。最近なんでいないわけ?」 黄梅院が腰を下ろしながら、佐助を睨む。 佐助は汁物の椀を膳に乗せながら、にこりと笑った。 「申し訳ありません、黄梅院様。旦那はちょっと今、別の仕事で忙しいもので」 「ふーん?この寒い時期にお仕事、ねぇ」 ぱらりと扇子を広げてそう言う口調に棘があるが、そんなものはこの忍びに一寸たりとも刺さったりはしないのだと、黄梅院ももいい加減理解している。 「ところで、お二方」 配膳が済んだところで、佐助が下座で居住まいを正した。 「何かしら」 黄梅院が応え、も佐助を見つめる。 先ほどまでのふわふわとした雰囲気はもはやなく、佐助が纏うのは忍びの冷たい空気だ。 「近頃、この館に侵入しようとする忍びが頻繁に現れています」 がわずかに、眉を動かした。 このところ、特に不穏な気配は感じ取っていない。 それはつまり、侵入「しようとした」忍びとやらを、佐助以下真田忍隊の者たちが陰で始末しているということなのだろう。 「その忍びの形跡が、先日相模と甲斐との国境で見受けられたものと一致しており、」 「――北条の忍びということかしら?」 佐助の言葉を遮って、黄梅院が言った。 佐助は是とも否とも答えず、黄梅院を正面から見据える。 「何か、お心あたりは」 「貴方は黄梅院様を疑っているのか」 の怜悧な声にしかし、佐助は薄く笑う。 「可能性がないわけじゃないでしょ、サンはどうなのさ」 ぴくりとが眉を上げる。 黄梅院が一つ息をついて、二人の間を扇子で差した。 「小田原にいたころから、私に忍びを操る権限はなくてよ。このも、北条方に連絡をとってはいないわ」 自分の弁解くらい自分で言うべきだった、主にわざわざ言わせてしまったことには自己嫌悪する。 佐助は二人の顔を見比べて再び笑顔を浮かべる。 「それはどーも、失礼しましたっと」 そしての方を見る。 「ま、でも忍びがこの辺うろついてるのは確かだからさ、注意はしといてくださいよ」 「・・・・・・わたしの注意が必要になるほど、貴方たちは無能ではないと思っているが」 取り繕った笑顔に、は完全な無表情で言う。 佐助はわざとらしく肩をすくめた。 「お褒めに与り恐悦至極ってね。ま、でも俺様たちも万能じゃァないからさ?よろしく頼むよ。アンタ黄梅院様の護衛でしょ?」 すう、とが眼を細める。 「・・・・・・言われるまでもなく、黄梅院様には指ひとつ触れさせん」 言外に貴方にもな、という意味を乗せるために殺気を隠さなかった。 この忍びを相手にそんなことをしても、のれんに腕押しなのはわかってはいるのだが。 猿飛佐助を、信用してはいけない、と思う。 悪い人間ではない、と思っている。しかし、目的のために手段を択ばない男であると理解しつつあった。 その目的は、不明だ。 まさか主人に仇なす様なことはしないのだろうが、幸村の害にならないことは、もちろんや黄梅院に害がないことと同義ではない。 雪解けまでにはまだ時間がかかるとはいえ、春は確実に近づいてきている。 気を抜いてはいけない、とは膝の上で拳を握った。 イイ殺気だったなぁ。 木の枝に腰をおろして、佐助は頬杖をつきながら、先ほどのの顔を思い浮かべていた。 触れたら血を吹きそうな、冷たい刃のような眼。 あんな眼ができる女は、そうそういない。 「――ずいぶんと、警戒されてしまいましたね」 背後から部下の声がして、佐助は息を吐いた。 「これでいーんだよ、その分旦那に眼を向けててくれればさ。――それより、報告は?」 「は。長の考えどおり、でした」 「そ。やっぱちゃんの剣は、アイツ仕込みだったか」 が以前言っていた、「相模で忍びに世話になった」という言葉。 北条の忍びは概して質が悪いというのに、小田原城にはなかなか忍び込めない事実。 そもそも初めて彼女の太刀筋を見たときから、その可能性は頭にあったのだ。 精鋭を向かわせて、漸くつかんだ。 小田原には、奴がいる。 表舞台には決して出てこないその性質から、伝説と言われる忍びだ。 顔を合わせたのは一度きりだが、あの言葉を発しない男に剣術指南ができるとは意外だった。 北条と戦を交えるには、あの忍びをどうにかしなければならない。 「俺様も見ておくけどさ、次に侵入者がいたら、泳がせといて」 背後の部下が、一瞬躊躇する気配があった。 「よろしいので?」 「何度も言わせるな」 行け、と短く命じると、背後の気配が消えた。 「さて、と」 こん、と木の幹に頭を当てる。 「上手く釣れるといーけど」 主の呼ぶ声が聞こえて、佐助は枝を蹴った。 |
20120713 シロ@シロソラ |
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