第四章 第九話

 次の日の朝、まだ陽の昇りきらないうちに、奥州からの客人は旅装を整えていた。
 見送りには信玄と幸村、そしてなぜかも呼ばれている。
 結局昨夜は一睡もできなかったは、それを顔に出さないように努めていた。
「・・・・・・というか、この雪の中奥州まで行かれるのは危険ではないのか」
 そもそも雪深い奥州からどうやって甲斐まで来たのだろう。
「Ha、心配なら無用だぜ?」
 聞こえたのか、伊達政宗が親指で笠を上げて、こちらを見る。
「俺たちにとっちゃァ、雪なんざ空気みたいなもんだ、いくらだってやりようはあるンだよ、you see?」
 何やら自信満々のそう言う伊達政宗の横で、従者が大きな息を吐いている。
 やはり雪中行軍は大雪に不慣れなには計り知れない苦労があるのだろう。
 少し哀れに思えて、従者を見やる。
「・・・・・・貴方も大変そうだな」
 片倉小十郎はその声に、苦笑で返してきた。
 はふむ、と小さく息を吐く。
 伊達政宗とその従者。
 奥州の、双竜。
 幸村は独眼竜を、生涯の好敵手と定めているのだと聞いた。
 確かに、純粋に力と力のぶつかり合いであれば、その実力はの見る限り互角だ。
 だが、その背に広大な奥州を背負うこの男には、それだけの覚悟があるのだと、昨日一日でも察することができた。
 武田家の一家臣である幸村とは、そしてとも、何かが根本的に違う。
 ――『よく考えて、答えを出しなさい』。
 脳裏に再び、黄梅院の言葉がよぎる。
 もちろん一国の国主と自分では立場も異なるのだが、おそらくあの独眼竜の覚悟は、黄梅院が言っていた「答え」とつながるものがあると、思われた。
 奥州の二人が信玄に挨拶をしているのを眺めながら、は無意識に拳を固く握る。
 自分はこれまで、本当に狭い世界で生きてきたのだと思う。
 しかしそれを恥じている暇があるのなら、それでどうするかを考えるべきだ。
 人は変われる、そう幸村に教わった。
「Ah、?」
 挨拶を終えたらしい伊達政宗が、こちらを見た。
「は」
「アンタ武田の家臣じゃないんだってな?どうだ、ウチに士官してみるか」
「は、」
 武田道場での、剣の腕を買ってもらったのだろうか。
 まだまだ、片倉小十郎には敵わないと思ったのだが。
「な、政宗殿!」
 幸村が眦を釣り上げ、その横では平坦な声で答えた。
「・・・・・・検討は、してみまする」
殿!?」
「身の振り方を考えているところでは、ござりますれば」
 いつまでも、北条家の家臣であることを、引きずってはいけないのだと、は思いつつある。
 前を向いて、これから先のことを考えなければならないのだ。
 そのためにはあらゆる選択肢を捨ててはいけない。
「なんと、それならば是非にもお館様へお仕えいたしましょうぞ!」
 幸村が拳を握りそう言うのを、伊達政宗が半眼で見つめる。
「だァから検討するっつってんじゃねぇか、そんなにそいつを離したくないんなら首に縄でもつけておきな、真田幸村」
 幸村の顔が真っ赤になったのを見て、が眉を顰める。
「なんだ貴方はわたしを殺したいのか?」
「はッ!?」
「縄で首を絞めたいのだろう、わたしとしては今殺されるのは少し困るのだが」
 幸村は顔を赤くしたままぱくぱくと口を動かす。言葉が見つからないらしい。
 その様子に、伊達政宗が噴出した。
「ッは!なるほどな、案外似合いじゃねぇか!」
 何を言っているのかよくわからない伊達政宗と、赤面のまま固まっている幸村を見比べて、が首を傾げていると、見かねた片倉小十郎が助け舟を出してくれた。
「・・・・・・政宗様はお前らをからかっておいでだ」
「なるほど、そうか。教えてくれてありがたい、片倉殿」
「お、おう、」
 礼を言われるとは思っていなかった片倉小十郎はわずかに言葉に詰まり、苦笑した。
 




 そうして出立した二人の背を、幸村が少し追いかけて、大きく手を振って見送っている。
 同盟は、対織田の一時的なもの。そう遠くない将来、竜の爪が甲斐にかかることもあるだろう。
 そうやって戦場で見えれば、生命のやり取りをする敵同士。
 だというのに、幸村の様子は久しぶりに会えた友との別れを惜しんでいるようにしか見えない。
 本当に、不思議な男だ。
「――どうだ、幸村は」
 まさか考えていることを察せられたわけではないだろうが、いつの間にか傍らに立っていた信玄の声に、は思わず眉を動かした。
 慌てて後ろに控えようとすると、信玄は「よい」とそれを制する。
 仕方なくそのまま信玄の傍らに立ち、は聞かれたことを頭で反芻してから、
「・・・・・・どう、とは」
 警戒心から、質問を返した。
「あれは良い男ぞ。儂の為に生き、儂の為に死ぬと言って憚らぬ、この信玄の刃だ」
 の顔から、表情が抜け落ちる。
 何を言われているのか、傍らの甲斐の虎の様子を観察して考えている。
「次代の侍大将はあれに任せようと思うておるゆえ、この甲斐での立場は保障されておる。戦場に出れば紅蓮の鬼の異名をとる若虎だ」
 信玄は奥州の二人が見えなくなるまで腕を振っている幸村の背を見つめたまま、続けた。
、と申したか」
 心の臓が早鐘を打つ。
 落ち着け。
 佐助はその名を知っていた。それを信玄に報告したのかもしれない。
「昨夜の話の続きだが、どうだ。――あれに輿入れせんか」
 は一切、表情を動かさなかった。
 佐助に感謝せねばなるまい。
 昨夜佐助が同じ話をしてくれたおかげで、その言葉に対する耐性ができていた。
 あるいはそのために彼の忍びは、わざわざ自分を挑発するかのようにあの話をしてくれたのかもしれない。
 言葉を選んで、口を開く。
「・・・・・・それは、北条攻めの、布石でしょうか」
「ふむ、佐助の報告通り、なかなか聡いおなごだ」
 小さく息を吸って、吐く。
 相手の調子に乗せられてはいけない。心を乱されてはいけない。
 丹田に力を入れる。
「なに、幸村も年頃だ。そろそろそういうことも考えねばなるまい。あれはともすれば周りが見えなくなる真っ直ぐな男だ、そなたのような冷静な者が添うてくれれば、この老体も安心するというものよ」
「それならば、わたしなどよりも適任な忍びを、幸村殿はかかえておられるではありませぬか」
 信玄が、初めてこちらを見下ろす。
 その口の端が、にいと上がる。
「成る程。そなたなかなか面白いな。あれが不服なら、この儂に輿入れしてみるか」
「・・・・・・、お戯れを」
「お二人で何の話をされておられのですか!?」
 見送りを終えた幸村が戻ってきた。
 信玄が笑って答える。
「うむ、殿がこの儂に士官してくれぬか口説いておったところよ」
 がわずかに眉をひそめる。
 信玄の表情は、先ほどの人の悪そうな笑みではなく、昨夜見た、幸村と似ていると思ったあの笑い方だ。
「なんと!」
 幸村が満面の笑みでこちらを見て、
 ――一瞬、その顔が刷毛で塗ったように朱に染まるのを、は見た。
「ッ、ぅお館さま!殿がお館様に士官なされるのであれば、戦場でも百人力と、心得まするぅァ!」
 おそらく無理に、幸村はそう大きな声で言った。
 その様子に気づかぬはずはなかろうが、信玄はうむ、と大きく頷いた。
「その意気よ!雪が解ければまた戦じゃ、奮えよ幸村ああァァ!!」
「お館さまァ!」
「幸村あああぁァァ!!」
「ぅお館さむあァァ!!」
「ゆぅきぃむぅるぅぁああアアア!!!!」
「ぅうおや、かた、さぶあぁぁぁぁああああ!!!」
 その声だけで、傍らの木から、枝に積もっていた雪が落ちた。
 は嘆息して、礼をすると踵を返す。
 背後から轟音が響いてくるが、聞かなかったことにする。
 館内に戻りながら、考える。
 甲斐の虎、あれはなかなかの狸だ。
 これまでの戦歴から、一筋縄ではない男だと、思ってはいたのだが、これまで見ていた限りでは、幸村とほぼ同類項の人間だと思っていたのだ。
 ――甘かった。
 底の知れない男だ。胃の腑に、有象無象を蓄えているような。
 幸村を現した、「刃」という言葉が、のこころに引っ掛かる。
 以前聞いた話を思い出す。幸村の父は、信玄から「我が目」と評されたという。
 「目」と「刃」の違い。
 己の身体の一部か、道具かの違い。
 それに、猿飛佐助。
 あの忍びは、幸村の知らないところで信玄とやり取りをしているようだ。
 でなければ、幸村が知らないの正体を、信玄が知っているのはおかしい。
 幸村は、あの二人を心底信頼している。
 ・・・・・・それでいいの、だろうか?
 あるいは全て、自分の考え過ぎなのだろうか。
 の口から、白い息が漏れた。
 




「大将」
 幸村を下がらせて一人館内に戻った信玄の背後に、滲むように佐助が現れる。
「佐助か。――の姫君は、そなたの報告通り、なかなか面白いな」
「いいんですか、あんなこと言っちゃって。あの子一度警戒したらなかなか懐いてくれませんよ」
「なに、儂に対する警戒ならいくらでもするがよいわ、毛を逆立てる子猫を手懐けるのもまた一興」
 まさか自分と同じ表現が信玄の口から出るとは思っていなくて、佐助はわずかに表情を動かした。
 さらに、信玄自身がに関心を持ってしまったのかと身構える。
 それはそれで悪くはない手だが――
「冗談ぞ。――幸村には懐いておるようではないか、ならばよかろう」
 考えていることを悟られたか、信玄はそう言って可笑しそうに笑った。
 この狸、と佐助は内心舌打ちする。
「あれは、使えるおなごよ」
 信玄の重い声が降ってくる。
「まだ信用できると、決まったわけでは」
「お主が結論を先延ばしにするとは、珍しいな」
 そう言われて、佐助はぴくりと眉を動かした。
 その様子に、信玄がにいと笑う。
「お主ほどの忍びのこころを動かすとは、まこと惜しい女よ」
「・・・・・・何を仰られているのかわかりかねますので」
 失礼、と言い置いて、佐助の気配が消えるのを信玄は感じる。
「ふむ、若い者はいいのう」
 のそりと立ち上がって、障子を開ける。
 見上げる空は真冬らしい曇天。
 これはまたひと雪降りそうだなとひとりごちながら、信玄は「の姫」の使い方を考え始めていた。

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20120710 シロ@シロソラ
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