第四章 第八話 |
深々と冷える濡縁で、は上着を羽織って腰を下ろし、月を見上げていた。 は冬の夜空が好きだった。 凍える空気が肌を刺すが、その分満月が美しい。 「ちゃん」 声がかかって視線を移すと、傍らに佐助が立っていた。 「猿飛殿」 眉毛を上げて、忍びの名を口にする。白い息が漏れた。 「ずいぶんと呆けていたようだ。人の気配に気づかないとは」 「俺様ヒトじゃないからさ。――その言葉は褒め言葉としてもらっとくよ」 佐助を見上げる。 その表情は逆光になっていて、よくわからなかった。 「どう?一献。雪見酒でも」 そう言って佐助が懐から酒瓶を取り出す。 は口の端を上げて答えた。 「あぁ、いただこうか」 「先ほどは助かった。ありがとう」 杯を傾けながら、はそう言った。 「え?」 何のこと、と言いかけて、佐助は先ほどの宴での一件と思い至る。 「あぁ、気にしないで、ってかあそこで割って入らなかったら旦那が暴走しそうだったし」 宴の様子は部下に監視させていたが、気になって見に行ってみて正解だった。 同盟のためには甲斐に呼び寄せることも仕方がないとは理解していたが、本当にあの独眼竜は邪魔だ。 少し毛色の違う女に興味を持ったのかもしれないが、こちらの計画の邪魔をされてはたまらない。 おかげで、幸村が感づいてしまった。 若い女が大の苦手である幸村が、これでと距離を置くかもしれない。 ・・・・・・こうなったら、先にちゃんの方に自覚してもらおうか。 佐助が考えていることに微塵も感づいていないは、先ほどの光景を頭に思い浮かべてつぶやく。 「・・・・・・そうだな」 幸村に、抱きしめられた。 抜け出ようとしたが、敵わなかった。 ――男のひとの、力。 思い出すと、心の臓の音が聞こえる気がする。 それをごまかすように、は杯をあおった。 その頬がわずかに朱に染まるのを、佐助は見逃さない。 「・・・・・・ちゃんさぁ」 「何だ」 「お父上に言いつけられたのは、さっさと男子を生んで家督を譲れってことだったんでしょ」 「・・・・・・」 は口をつぐむ。 それを肯定と判断して、佐助は続ける。 「小田原でさ、婚儀とか、考えなかったの?もう子を産める身体でしょ?さっさと家督継いじゃって、好きに生きることだってできたでしょ。無理して男の振りなんかしなくてもさぁ」 「・・・・・・」 の返事はない。 「誰かこころに決めた人がいた、とか」 「・・・・・・いや」 漸く、が口を開く。 「相応に健全な心身の持ち主であれば。相手は誰でもいい」 「へェ?」 佐助が眉を上げる。 「じゃ、独眼竜の旦那とかは?」 「どこからそういう話になる」 は冷めた瞳を佐助へ向ける。 佐助は意に介さず、にやにやした笑みを顔に張り付けたまま続ける。 「だってさっきなんか興味持ってたっぽいじゃん竜の旦那。甲斐に士官する気がないんだったらさ、奥州について行ってもいいんじゃない?アイツなら心身ともに健康でしょ。健全かどうかは保証しないけど。でも幕府の守護職だって預かってた名家中の名家、これ以上ない条件だと思うけど」 「・・・・・・」 は答えず、杯を傾けた。 「じゃぁ、俺様は?」 はじめてが、表情を動かした。 「何、を。言っているのだ、貴方は」 「あ、ちょっと焦ったね。よかった、竜の旦那よりは俺様の方が脈ありってことかぁ」 「ッ、からかうのはやめてくれ」 「からかってなんかないよー?」 佐助の手が、杯を持つの右手首をつかむ。 そのまま腕を引き、自分の方への身体を引き寄せた。 の手から杯が滑り落ちて濡縁の板に当たり、固い音が響く。 唇が触れ合うほどの距離で、佐助はの顔を覗き込む。 「ちゃんは子を産むための男女の営みなんて知らないんでしょ?」 その弧を描いて笑みの形に歪んだ口から囁かれる、甘くて低い、声。 「俺様ならやさしーく、教えてあげるよ?女の悦びってゆーのをさ」 は眉根を寄せ、佐助を睨みつける。その顔は、みるみるうちに朱色に染まっていく。 ひゅう、と風の音がして、佐助は手を放した。 「ちょっとこんなとこでチカラ使わないでよー」 「からかうなと、言ったぞ!」 声を荒げるその様子が、まるで毛を逆立てて威嚇する子猫のようだと佐助は思った。 「ちゃんてば、かーわい」 「・・・・・・ッ、もうわたしは、戻るからな!」 そう言って立ち上がろうとするに、 「じゃぁさ、旦那はどう?」 佐助の静かな声が刺さった。 ぎくり、と、の肩が震える。 「な、ぜ。そこで、幸村殿が、出てくるのだ」 「なんでって。俺様の知る限り、ちゃんの好感度が一番高い男だと思うけど」 「そのような、ことは」 「ないとは言い切れないよねぇ?」 佐助の視線に耐えかねるようには眼を逸らした。 「・・・・・・貴方は、さっきから、何が言いたいんだ!」 「何って。ちゃんが努力してる、『素直』のお手伝いだけど?」 ぎらり、と、佐助を睨みつけると、は「失礼する」と一言言い捨てて立ち上がり、足早に濡縁を歩いて行った。 その後ろ姿を、佐助は杯に残った酒を舐めながら見つめる。 「眩しいねェ」 与えられた環境で、必死に足掻いて生きるその姿が、佐助には眩しい。 なんて可愛い生き物なのだろう。 幸村の前で、羅刹に成り下がったと言っていたが、武人が人を殺めるのが当然の世の中にあって、佐助に言わせればまだまだ彼女は「きれい」だ。 だから、汚してみたい。絶望の闇に落としてみたい。 湧きあがる欲望を、佐助は頭で抹殺する。 幸村もも、せっかく互いに想いが傾きかけているのだ、そんなことで水を差して失敗するわけにはいかない。 空になった杯を懐に収め、ふと手元に、先ほどが取り落とした杯が転がっているのに気づいた。 佐助はそれを拾い上げる。 頬に風を感じて、暗闇が落ちてくる。 見上げると、先ほどまで煌々と光っていた月が、雲に隠れていた。 眼の高さまでつまみ上げた杯に視線を戻す、その顔から張り付けていた笑みが消える。 暗がりの中、佐助はその杯の縁を、ゆっくりと、舐め上げた。 は自室までほとんど走るような勢いで戻り、障子を後ろ手に、乱暴に閉めた。 ――『じゃぁさ、旦那はどう?』 佐助の声が聞こえて、障子にもたれたままずるずると座り込む。 ――『ちゃんの好感度が一番高い男だと思うけど』 やめろ、考えるな、聞くな。 両耳を掌で抑える。 こんな感情は知らない、こんな気持ちは知らない、こんなことはありえない、 ――『ないとは言い切れないよねぇ?』 「――ふ、ッ」 口から漏れたのが嗚咽だと気付いたのは、抱え込んだ膝にぱたり、と水滴が落ちた時だった。 なぜこんなに鼻の奥が痛いのだろう。 なぜこんなに喉が痛いのだろう。 なぜこんなに心の臓が痛いのだろう。 なぜこんなに、 幸村の笑顔が、頭から離れないのだろう。 考えても考えても、浮かぶのはあの太陽のような笑顔。 そう、彼はにとって太陽そのものだった。 初めは、熱くて近寄りにくかった。 眩しくて、見るのが辛かった。 自分の醜いこころを暴かれるようで、嫌だった。 それでも、いくら拒んでも、いつでも等しく手が差し伸べられて、その笑顔が絶えることがなかった。 ――いつしか、その笑顔を、もっと見たいと、思うようになった。 そして、その考えが、心に落ちる。 わたしは、幸村殿が、 すきなのか。 |
20120709 シロ@シロソラ |
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