第四章 第三話 |
その様子を、中庭を挟んで向かいの室から、佐助は見ていた。 だいたいの会話の内容も聞こえている。 会話の詳細が聞きたければ天井裏にこもるのだが、二人とも気配には敏感だ。幸村については問題ない(忍隊は彼にとって空気のようにそこにいて当然だから)が、に気取られたら後が面倒なことと、だいたいがわかれば詳細は必要ない会話であったので、少し離れて見守ることにしたのだ。 ・・・・・・その人なりの「義」、ねぇ。 幸村は「利」を第一とする真田家にあって、異端の存在であった。 そもそも真田家が優秀な忍びを揃えていたのも、「利」を求めるがゆえである。 佐助も忍びであるから、その理はよく理解しているし、一種の真理であるとも思っている。 戦とは情報戦。 相手の内に入りこみ、情報を使って撹乱するのはお手の物であるし、その際の常套手段が相手に「利」をちらつかせることだった。 ただ、主は違う。 幸村の、その清廉な志は、この戦乱の世にあって、いつか己に牙向く諸刃の剣となるだろう。 だが彼はそれでいいのだと、佐助は思っている。 幸村に害するものは、全て自分が払いのける。 どんな手段を使っても。 忍びである自分に義などはない。ただ主を守る、それだけ。そのためなら人道を外れることだってする。もとより忍びのわが身はヒトではない。 ・・・・・・は――の姫君は、幸村にとって利か、害か。 立ち去るの背を見ながら、佐助は小さく息を吐き、 「――どうした」 誰もいない背後に声をかけた。 そこに一人の忍びが姿を現す。 「館に、侵入を試みた形跡あり」 短い報告に、佐助は前を見つめたまま言う。 「最近国境あたりに現れていた者とは?」 「一致する可能性が高いかと」 相模との国境付近に、忍びの影あり。 その報告を受けたのは数日前だった。 あの時、黄梅院とを襲った忍びとの関係が疑われている。 北条方の忍びであろうか。 目的は何か。 濡縁の向こうから別の気配を感じて、佐助は短く告げた。 「動きがあれば知らせろ」 「承知」 忍びが滲むように消えるのと、濡縁を黄梅院がこちらに向かって歩いてきたのが同時だった。 「――黄梅院様、サンなら先ほど奥向きの方へ向かわれましたが」 「あなたに用があったのよ、トビザルさん」 黄梅院は有無を言わさず室内に入り、佐助の向いに腰を下ろした。 扇を開いて口元を隠しながら、父親譲りの射抜くような眼で、佐助を見据える。 「・・・・・・は、ちゃんと弁丸とお話できたかしら」 「さあ、どうでしょうね、」 その会話をここで聞いていたことを顔には出さず気の抜けた返事をするが、黄梅院はこちらから視線を外さない。 「あなたが仕組んだのでしょう?大量の甘味をに押し付けたら、きっと弁丸のところへ行くって」 口調が穏やかでも、眼が笑っていない。 黄梅院の様子に、佐助は嘆息した。 「それに気づいてながら、サンに旦那と話すように言った――黄梅院サマには、敵いませんね」 「あら、伊達に歳は取ってなくてよ、ってこら誰がおばさんよ、私まだ二十七よ」 「ご自分で何仰ってるんですか」 佐助は注意深く、言葉を選ぶ。 北条から出戻った武田の姫君。 佐助が幸村に仕えるようになったのと前後して輿入れしたので、その人物像はあまりよく知らなかった。 まさか実の父親を害するようなことはするまい――などと忍びである佐助は思っていない。 先だっては実家を焼き払った、魔王の奥方の実例もある。 黄梅院の、勝気な性格を知ればなおさら、北条と開戦した折には注意が必要になる対象であった。 「まず一つ、言っておくわ」 佐助が笑顔を絶やさないまま考えていることを知ってかどうか、黄梅院は口を開いた。 「私は甲斐を、愛しているの。北条に嫁いだのも、それがお父様の役に立つと思えばこそ。だから甲斐に、お父様に弓引こうなどとは思っていないし、にもそれはさせないわ」 その眼差しを、佐助は正面から受け止める。 「・・・・・・その言葉を、信じても?」 「あら、それはあなたご自分で判断なさいな、忍びでしょう」 「確かに」 なかなか食えないおなごだ、と佐助は思った。 「を弁丸に近づけるのは、それがにとって良い影響があると思うからよ。あのままじゃあの子、自分で自分を追いつめて、いつか心を病むんじゃないかと思ったから」 でも、と黄梅院は佐助から視線をそらさずに続ける。 「あなたが弁丸をに近づけようとするのはなぜかしら。見張りというなら、あなたたちが四六時中見てるでしょう」 「大将からサン付きを命じられたのは、旦那ですよ」 しばらく互いに無言のまま、黄梅院と佐助は互いの眼を見あう。 先に吐息したのは黄梅院だった。 その口元を扇子で隠したまま、言う。 「・・・・・・あなた知ってるわよね。のこと」 佐助がその形のいい眉を上げる。 「黄梅院様もやはりご存じでしたか、そうでなければ最初の手合せの時のあの対応は妙だと思ってました」 「御託はいいわ。それを知っていて弁丸にを近づけるのは・・・・・・そういう意図が、お父様にあるのかしら」 「大将のお考えは我ら忍び風情にはわかりません、ってね」 佐助は白々しく肩をすくめてみせる。 「じゃああなたにはその意図があるの?」 「・・・・・・選択肢のうちのひとつとは、思ってますよ。サンが旦那に害をなさなければ」 「そう」 黄梅院はうなずいて、――扇子の向こうで一つ小さく咳をした。 「黄梅院様?」 「――なんでもないわ、お茶も用意しないで長いこと話すものじゃないわね」 そう言って、黄梅院は立ち上がる。 「とりあえずのところ、幸村とを近づける――あなたと私の目的は一致しているようだから、期待してるわ、猿飛佐助」 佐助はそれに対し、にこりと笑って頭を下げた。 「御意に」 佐助の献杯を受けて、は杯に口をつける。 月が明るい夜、何とはなしに気配を感じると、佐助が酒瓶を持って現れる。 そうやっては佐助と、幾度か酒を酌み交わしていた。 だいたいはいつも、当たり障りのない会話をしている。季節の話題や、館内のこと、その日あった出来事など。その中に稀に佐助がを探るような質問を混ぜ、は明かしても問題がないことについては答えていた。開戦すれば北条方に不利になるであろう情報は躱している。 幸村に比べれば、どちらかというと会話がしやすい相手なので、としてもこの酒盛りの時間は嫌いではなかった。 「ずいぶん人気者になったねぇちゃん」 どこかしみじみと、佐助がそう言ったので、は杯を傾けながら温度のない眼を向ける。 「貴方の眼は節穴か、猿飛殿」 「えーヒドイ、俺様の眼はちゃーんと見てるよ?」 月光を受けて、佐助の瞳が光る。 「ちゃんを、ね?」 がその顔を、表情を変えずに見つめる。 「・・・・・・貴方は誰に対しても、そういう物言いをしているのか」 「え?」 「厨の、女性たちが話しているのを聞いた。貴方の方がよほど人気者だ、猿飛殿」 「あれ?それってもしかして、ちゃん妬いてくれてんの?」 「な、ッ、違う!」 が眉を跳ね上げる。その頬がわずかに朱に染まっている。 佐助はそれを見て、感心した。 ここ最近、は目に見えて、表情を浮かべるようになった。感情豊かというにはまだほど遠いにしても、黄梅院が言ったような幸村の「良い影響」は確実に現れているようだ。 「なんだかなぁ」 溜息交じりに言われて、が眉をひそめる。 「何だ」 「いやこうやってさ、ちゃんとお話しできるのは俺様の専売特許かと思ってたけど、もうそういうわけにもいかないみたいだねぇ」 「・・・・・・?」 は、佐助の言葉の意味が分からず、首をかしげる。 「わたしがこうやって酒を飲む相手は、貴方しかいないのだが」 「・・・・・・ちゃんそれ素で言ってるよねぇ」 「?」 おそらくこちらが言っていることがわからないのだろう、佐助はそう思ってあーあと思った。 ――が、幸村と自分はあまりに違うから相対するとどうしていいかわからないと、以前黄梅院に言っていたのを、佐助は把握している。 しかし、その認識は誤っていると佐助は気づいていた。 彼女は元来、幸村とよく「似ている」。 おそらくこれまで育った環境によるものだろう、そのこころを高い矜持の防壁で覆い隠しているが、その内は優しく、一途で、純粋だ。 だから、その壁さえ越えれば、誰からも好かれ得る人物なのだ。 ・・・・・・天然で、相手を誑(たら)しこめるっていう、ね。 のそういった性格上、自分から思い立って甲斐に害することはないだろうと、佐助は判断しつつあった。 ただし、主君から――北条氏政から、何らかの密命を帯びていた場合はおそらく、苦しんで、自らのこころを殺して、最終的にはその密命を果たすのだろうと思われた。 その、一途さゆえに。 佐助がについて、害があるか否かを判断しかねているのはその一点であった。 今のところ、そういった密命の存在を、は明かしていない。 「どうしたのだ、猿飛殿。先ほどからずっと黙っておられるが」 「んー、そろそろ今年も終わるなと思って」 年が明ければ、春までにもうあまり時間が残されていない。 北条との開戦までに、の「尻尾」をつかみきれるか否か。 ――あるいはその一途さを曲げるまでに完全に、甲斐側の、旦那の味方にできるか否か。 ちらりと、佐助はを見る。 月を見上げるその横顔。 すべらかな頬に影をつくる長い睫毛、通った鼻梁、細い顎。 本人は気づいていないのだろう。表情を浮かべれば浮かべるほど、その顔が女性らしくなることを。 ひたりとその横顔に視線をあてたまま、杯を傾ける。 相手が女である以上、あらゆる手練手管を使って「落とす」ことは可能だ。 それが仕事の手段であるのか、あるいは己の欲望であるのか、佐助はあえて考えないようにしている。 任務の目的を果たすという結果が同じであるなら、どちらであろうと差はない。 |
20120629 シロ@シロソラ |
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